男親と娘
朝は家を出るつもりで、午後には荷物を取りに行って、それで夜舞い戻っていたら世話ないなとため息を吐いた。
新しいとはいえないのろいマンションのエレベーターを出て自宅のドアを開けると、父はもう帰宅していた。心配して早めに仕事を切り上げたんだろう。
「奈緒子、おまえ、身体は大丈夫なのか?」
「あ、ごめん、夕食作れなくて」
「いや、いいんだ、そんなこと、店屋ものでも、食べに出ても。おまえが本当に出て行ってしまったと思ったから……」
父の顔はどっと老けこんで見える。
「ごめんね、疲れてるとこ心配かけて。どうしたらいいか、いろいろ話し合ってはみたんだけど……」
「母さんがいてくれたらな……」
「うん、とっても心細い」
父はもう怒る段階を通り越したようで、静かに尋ねた。
「悩んでるのか?」
「悩んでる。どうしたらいいかわからない」
とりあえずソファに隣り合って座り込んだ。俯き加減の私の耳の上から父の声が降ってくる。
「妻帯者なのか?」
「うん、結婚してもらえない」
「そうか……じゃ、堕ろすしかないか」
「ううん、産んでほしいって」
顔を上げたら父は首を傾げていた。
「変な話だな?」
「変、だと思うよね?」私は畳みかけるように話してしまう。
「話してると感覚が狂ってくるの。一般常識が通じないっていうか。お父さんと話して頭冷やさないとヤバいって思って帰ってきた」
父が私の目を覗きこむ。
「どうヤバいんだ?」
「あのね、生活の面倒はみるって。育児だって必要だったら奥様が手伝ってくれる、だから産んでって」
「とはいってもおまえは未婚の母になって、この先嫁の貰い手がなくなるだろうに」
「なるよね」
「正妻が育てるのか? 産んだ赤ん坊取り上げられるのもつらいぞ?」
「と思う。私がどこまで母親できるのかわからないけれど、先方に渡したいわけじゃない」
「好きな、相手なんだな?」
「うん。だからピアノの先生になって子供育てながら生きていけるかもって思ってる」
「未婚の母なんて先生になる資格ありません、とかって生徒さんがつかなかったらどうする?」
「それが……、養育費は出してくれるし、大手の音楽教室で雇ってもらえそう」
「そんな伝手のある相手なのか?」
「みたい……」
父は真黒なテレビの画面を見つめている。
「でもなあ、お父さんは反対だな。おまえを二番手の妾扱いするようなヤツは、すっぱり忘れてやり直した方がいい」
「そう思う?」
「ああ。自分一人の相手としっかり恋愛して結ばれた方がいい」
お母さんにベタ惚れだった父らしい言葉だ。
「二号さんでもないみたいなの。妾でもない」
「どう違うんだ?」
「もう二度と私を抱かない……」
口に出して自分がひどくショックを受けていたことに気付いた。泣き崩れたあのひとに冷たい言葉を浴びせて逃げ出したのは、このせいだ。
「それは妾より悪い、一夜の過ちってことだな……」
父の声が沈む。心裡ではまだ知らぬ青造さんへの怒気がふつふつと沸いているのだろう。
「じゃあどうして一言、堕ろしてって言わないんだろう?」
「どうしてだろうか……。普通、男はメンツや体裁、社会的立場を考えて頭ごなしに中絶しろと言うもんだろう? 女が一方的に泣きをみるもんだ……」
「子供が欲しい理由が他にあるのか? もしかしていい家系で跡取りがいるとか?」
「ううん、子供はもういる」
「じゃ、宗教的理由か? 堕胎を許していない国は欧米にもある」
「宗教……、やっぱり宗教かな……」
父が「相手はそっち関係か?」と訊く前に話題を変えた。
「子供はいじめられるよね」
「ああ、あることないこと、おまえも言われるし子供自身も。子供同士は仲良くなればそんなこと気にしないかもしれないが、何かあると逆に容赦がない。残酷だからな」
「認知しないって信用できないよね?」
「しないって言ってるのか? なら問答無用だ、そんな男のことは忘れろ。赤ん坊も諦めるんだ。養育費は出して認知はしないって訳がわからない」
「変なんだよ……」私はまた俯く。
「私のこと、好きなんだとは思う。子供のことも生まれる前から好きそう。でも戸籍の父親欄に載るわけにはいかないんだって」
父親は娘が本気で落ち込んでいたら、困惑が先に立って悲しくなってしまうのかもしれない。
「そんな相手でもおまえは好きなのか?」
「うん……、ごめんね、お父さん、こんなことになって。今までずうっと大事に面倒見てもらったのに」
「面倒ってそれは当り前のことだろう? おまえが嫁に行くまで、行ったってそれは変わらない……。おまえこそお父さんの世話ずっとしてきてくれたんじゃないか」
父の声音が変わる。
「奈緒子、もしどうしても産みたいならうちで育てることもできないわけじゃない。お母さん任せだったから育児に自信はないが、経済的には子供ひとり増えてもなんとかなる。おまえが頑張るならお父さんももう少し頑張れる」
この発言には驚いた。朝怒鳴りつけた相手と同一人物には思えない。今日一日、仕事もせずに考えあぐねたのだろうか。それとも帰宅して私の姿が見えなくて、心配し過ぎたのだろうか。
「誠意が見えないよ、奈緒子。そいつは赤ん坊が欲しいだけでおまえは要らないって言ってないか? 都合が良過ぎる……」
「うん……」
「会わせてくれないか? 早いうちに決めなきゃいけないんだろう? 奈緒子は産むけど子供は加藤で育てるって言ったらどんな反応するのか知りたくないか?」
「あ、うん、知りたい、かも……。お父さんには挨拶に来るって言ってらしたから電話したらすぐ来てくださると思う」
「え?」
父が何に反応したのかわからなかった。眉根を寄せて固まっている。
「言ってらした? 来てくださる? 敬語を使う相手か? そういう関係になったんだろう? 男と女の……。そりゃ妻帯者ならあっちが年上なのはわかるが、奈緒子、ほんと大丈夫なのか? 変な宗教の教祖とかだったりするのか?! おまえ、騙されてないか?」
「うん……あのね、小学校で教えてたじゃない? あれの最初の催しで会ったの、神主さま……」
「もしかして、洗足の、音楽神社か?」
「知ってるの?」
「ああ、近所だし、戦前行ったことがある……、母さんがもうピアノ弾けなくなるから供養も兼ねてお参りしたいって……、神主さんは初老だったが……。二代目か」
「代々続く家系なんだって……」
「ああ、そんな感じだったかな……。行けば会えるのか?」
「来てもらう。それが筋だから」
自分で口にして、どこかで聞いた言葉だと思った。青造さんがそう言ったんだ。