篠笛と琴とピアノ
あのひとはいつものように床の間を背に座っていた。私の腕には生後6カ月の赤ん坊。
「もう一度だけ言わせてくれ……」
青造さんの切れ長の瞳から一粒だけ涙が落ちる。
「奈緒子、愛している……」
それがこの恋の終末。
奥様には勝てないと私は白旗を上げて逃げ出したのだ。
―◇―
遡ること一年と4カ月、私は小学校でピアノを教えることになった。
教師としてではない。青少年健全育成会というPTAと区役所が組んで創った組織の依頼だ。
「経済的に恵まれない子供たちにもっと音楽の機会を」という趣旨で3学期の間、毎週水曜日3時から4時半まで、主に低学年の子にピアノを教えて欲しいという。
私は音大の院生で、7月に行われる国内最大のピアノコンクールに向けて集中特訓中。キャンパスに行く必要のないときは自宅近くのピアノ教室で練習させてもらっている。
育成会から打診を受けたそこの先生は、報酬が少ないせいか「奈緒ちゃんやってみたら?」と私に話を振ってきた。
夏のコンクールは歴代、パリやウィーンの留学戻りが優勝している。ピアノの世界はいつも、誰に師事した、どこの音楽院出などと来歴がものをいう。国内でただただ弾き続ける自分にどこまでできるのかわからない。
海外に出てみたいという気持ちも確かにあった。音大の院に残ると決めたのは、母を中二で亡くし父娘ふたりきり、仕事以外何もできない父親を残しては行けないと思ったからだ。本人にそんなことは打ち明けていないが。
「もったいない」と教授もピアノ仲間も異口同音に肩を落とした。
国産でどこまでやれるか。自分のピアノへの思いも努力も無駄なのか。
惑い悩むことばかりだが道は選んでしまった。焦っても仕方がない。
気晴らしも必要かと思いこの話を受けた。
1月、成人の日の後すぐだった。初日は生演奏を聴かせるだけとのことで気軽に出かけた。
「子供受けのする曲とお得意な曲を弾いてください。持ち時間は7分でお願いします」
「7分? たったそれだけでいいんですか?」
私は訊き返してしまった。担当の眼鏡のおじさんは、にっこりとして、
「はい、演目はピアノだけではないのです。後藤音楽教室が全面的に協力してくれまして。バイオリン、ギター、ドラム、雅楽器もあるそうなんです。今日はいろいろな音を聞かせて子供さんに好きなものを選んでもらうのがいいって……」
「あ、後藤、音楽教室……、元々和楽器がお得意な……、わかりました」
壇上一列に並んだパイプ椅子に座らされた。先生兼演奏者が5名ほど。
司会者が正面に立ちこの会の目的や今後の進め方を説明している。その向こうの敷物の上にお琴が2台、少し離れてドラムキットとグランドピアノ。何とも不思議な取り合わせだ。
ステージ下では、親御さんたちは落ち着きのない我が子を静かにさせようと躍起になっている。
来週からはピアノはここの小学校、他の楽器は区内の他の学校の講堂を使うとのこと。
私は子供受けのする曲に季節柄とんど焼きを思わせる唱歌を選んだ。それだけじゃつまらないので、そこにアニメの曲でもかけてついでにフィンランディアの最後で終えてやろうかなどと考えていて、演奏者もう一人が遅れてくることを聞き逃していたらしい。
演奏はビートの効いたエレキギターとドラムのポップスから始まった。退屈なお話の後、子供たちの目を覚ませたかったのかもしれない。聞き慣れているのに学校の音楽の時間に使われない楽器というだけでも無関心ではいられない。
ドラムが止まり、アコースティックギター一本になる、そこへバイオリンが入ってくる。クラリネットまで加わりモーツァルトを奏でた。
音楽をするならピアノはかじったほうがいいかもしれない。でももっと気楽にいろんな楽器触ってみようよ、というスタンスが好ましく思えた。
休憩を挟んで後はお琴とピアノのはずだが、お琴担当のワンピース姿のお嬢さんが真っ青になっている。
「どうしよう、お父さん、筝弾ける?」
「志乃が独奏するしかないな。筝なんて最近触ってないよ。足引っ張るだけ」
「そんな〜、」
ギターを弾いていた中年男性と親子らしい。
彼女は当分おろおろしたり、その場でとび跳ねたりしていた。何か言ってあげたくて、
「大丈夫ですよ、私も独りですから」
と声をかけてみた。
「ありがとうございます」
弱々しくだが笑顔は返してくれた。
同じ独奏でも、グランドピアノにはいつも守られている気がする。お琴ではどれ程心細いだろう。
休憩が終わり観客が席に戻った。司会が次は雅楽、お宮で聞く音楽だと説明している。志乃ちゃんは何度か深呼吸をしてから意外と落ち着いて、すうっと舞台に出て行った。
お正月によく聞く曲「春の海」だった。琴の重奏の予定だったのだろうか、原曲は尺八か何かのメロディがついていたと思う、一台では確かに音が薄い。マイクで拾って場内に行き渡っていても淋しい。
「かくし芸大会の曲ぅ」
と初めは興味を示した子供たちがざわつき始める。どうも雅楽というのは盛り上がりに欠ける。
ソデで見ていた私はせめてピアノで即興でもつけられたら、とまで思ってしまった。
――ぴー、ひゃりろろ〜、ぴろろ、ぴろろ、ぴーろろろ〜
講堂の横出入り口に笛の音がし、場内一斉にそっちに顔を向けた。
「「「神主さまだ!」」」
なぜか観客席のあちこちで子供たちが声を上げる。
普通のいでたちではなく祭儀のご衣裳のようで、青い上着に紫の袴、頭には尻尾の長い冠まで被っている。お内裏様一歩手前くらいの派手さ加減。でも纏う空気は和やかで、ゆうゆうと横笛を吹きながらステージ横の段を上がるべく近づいてくる。
布地がたくさんの斎服の中は見かけよりスリムらしく、ぐっと背が高く見える。50代だろうか。ソデの一歩奥まったところに隠れている私と目が合って、細い瞳が優しく笑った気がした。
それにつられてか私はソデを出て、ステージの右下から神主さまを眺めた。
壇上の志乃ちゃんの横で一曲終えると長い袖と袴を捌いて琴の前に座る。
隣に「遅れてごめん」とでも言っているような申し訳なさそうな顔をし、笑顔になると微かに頭を振って拍子を取る。ふたりが奏で始めたのはベートーベンの「月光」だった。
「お琴で?!」
似合うけど、とっても似合うけど、思いもかけない選曲。
今度は神主さまが絶え間ない伴奏を続け、志乃ちゃんのほうが高音を乗せている。
しんしんと沁みとおる月の光が音になって降り注ぎ、ぼうっと聴き惚れてしまった。
満場の拍手の中、自分がピアノで締めなければならないんだと思い出した。
何を弾くつもりだったんだっけ?
この美しい「月光」の後に、私は何が弾けるだろう?
子供騙しじゃだめだ。本物の音楽をちゃんと感じてもらわなければ。
一旦ソデに退がって気合いを入れ直した。
「月光」は第一楽章だけだったから、冷たく燃え上がる第三楽章をつけてあげたい気がした。でも子供たちにはクラ過ぎる。速いけど明るめの、あ、やっぱりあれがいい。
背筋を伸ばして笑顔を灯し、ステージの端からピアノのある向こうの端まで歩く。
神主さまがステージ上に創った趣をしっかり吸い込んでピアノについた。
ショパン「幻想即興曲」の高速の出だしを私の指は嬉しくてたまらないと叩く。鍵盤の上を飛び跳ね踊る。そして転調、抒情のスローパート、ふたつ合体して終章。
余韻に潜むスローパートのメロディから、私は茶目っけたっぷりに「たき火」を立ち上げる。会場からほっとした笑いが漏れた。
「それも計算の内よ。みんな楽しく一緒に音楽やろうよね」
思いを込めて優しく弾き終え頭を下げた。