タバコの灯火
タバコは嫌いだ。あんな火とも言えない豆電球ほどの明りにも関わらず、気がつけば家一軒を燃やす勢いになってしまう。
そう、燃えていたんだ。家が、そしてその中に居る両親と妹が。それを一緒に見ていた。周りに野次馬がいたはずだが、もう覚えていない。記憶の中のあの光景は、二人っきりで燃える家を見ている。
それが原風景。
二人で静かに眺める。
赤とオレンジのコントラスト。
自分は叫んでいたかもしれない。だが叫んでいなかったかもしれない。手を伸ばして駆け寄った気もするし、それを誰かに止められたような気もする。
星の輝く夜。その光を打ち消す勢いで燃え盛る炎を、二人で一緒に見ていた。
両膝をついて放心しているそいつ。
炎が意識から消えて、そいつしか視界に入っていない自分。
そして、じぶんの胸の位置にあるそいつの頭を――
目が覚めると、目の前に男の顔があった。
それは中学校から今まで、信也が唯一関係性が持続した友人であり、一番の親友というカテゴリーに含まれるであろう男の顔だった。
「おいおい、そんなに嫌そうな顔するなよ。もう何年も見慣れてる顔だろ」
「寝起きに野郎の顔なんて見たいものじゃないだろ。何処から入った」
「普通に玄関からだけど。鍵開けっ放しで寝るなよ、相変わらず不用心だな」
「別に取られて困るものなんてないからな」
ベッドから起き上がり、枕元に置いてある煙草の箱を取って中身を取り出す。身に沁み込んだ動作で火をつけて苦い煙を肺一杯に吸い込むと、靄がかっていた頭がすっきりとする。
眉間に皺を寄せて苦い表情をする邦明の顔がよく見えた。
「お前、まだ苦手なのか」
煙を吐き出しながら信也が声をかけると、邦明の体が大きく震える。
「馴れるわけがないだろ。お前」
「そりゃそうか。愚問だったな」
乾いた声で笑いながら信也が声をかけると、邦明は苦しさを紛らわすように視線を逸らした。
「なあ、何でお前はあんなことがあったってのに煙草なんて吸えるんだよ」
「お前が吸わないからだ」
責めるような視線と言葉を、それを上回る鋭さで突き返す。睨み合うことも面倒で、煙を大きく吸い込んで邦明の顔に吹きかける。
眉間による皺を無感情な目で見ていると、堪え切れない。というように邦明の手が信也に向って伸ばされた。
「信也っ」
苦しげな声で邦明は信也の名を呼ぶ。口元へと手を伸ばし、咥えていた煙草を掠め取った。
「っつ」
邦明の眉間の皺が一層深くなる。
当たり前だ。火のついた煙草を素手で揉み消したのだから痛くないはずかない。邦明はいつもこうだ。目の前で煙草を吸えば、自分の指などおかまいなしにその明りを消したがる。
そしてその火傷の痕の消えない指が、信也をどうしようもなく安心させてくれるのだ。
「信也」
「何だ」
「腹、減った」
小さく、信也は息を吐いた。
指にできた火傷など全く気にしてないというように、先ほどまでの空気をなかったことした発言に、信也は安心感にもにた甘えで縋る。
「お前は毎週金曜の夜になると此処に入り浸ってるけど、家の人ほっぽっといていいのか」
「相方は気にしないがな」
「何だそりゃ。冷めてんな新婚のクセに」
冗談めかして肩をすくめ、台所に向かう。調理場の蛍光灯が切れそうになっていた。
「それより信也、今日の飯は何だ」
「カレーだよ。先週お前がリクエストしたんだろうが」
「ああ、そうだったな」
鍋を温めながら、一週間ぶりのまともな食事だと目を細めた。先週の金曜日に邦明が買ってきた材料で作ったカレーは、空腹を刺激する香りを放っている。
空腹なんてものを一週間ぶりに感じる自分が、ひどく現実味がなかった。
「カレー、美味いな」
「そんなにカレー好きなら嫁さんに作ってもらえ」
「それがな、相方は香辛料アレルギーらしくてさ、カレー作れないんだよ」
向かい合ってカレーをつつきながらの他愛のない雑談が、信也にとっての久方ぶりの会話だった。邦明が来なければ、信也はまともに食事をとろうともしない。それが解っているからこその邦明の毎週の訪問。
自分の名前を決して呼ぼうとしない、元親友だった男の面倒を見ようとする邦明が何を考えているのか、信也には到底理解できるものではなかったし、理解する必要性も感じていない。ただ時たまどうしてこうなったのかと感慨にふけるだけだった。
その日は週末だった。
いつものように信也の部屋でゲームをしていた。相変わらず隣で邦明は煙草を吸っており、信也と邦明の間には灰皿が置かれていた。
一息つくと、二人でコンビニに行って適当に買い食いをするのがお決まりだったが、いつもの近くにあるコンビニに食べたかったアイスがなく、意地になって遠くのコンビニまで足を伸ばした。
見つけたアイスを食べながらコンビニから戻ってくると、人が集まっていた。
空が異様に明るかった。
家が、燃えていた。
酷い顔をしていた。燃える信也の家を前にして、邦明は取り返しのつかないことをしてしまったと絶望をしていた。
恐らく気づいたのだろう。出火の原因が自分の吸っていた煙草なのだと。
その顔は、家族を失った一番の被害者であるはずの信也よりも深い悲しみを抱えていた。
自分が許せない。
だから信也が。信也が邦明のことを許さなければ、誰も邦明のことを許してはくれないのではないかと思った。
だから許すことにした。
その悲しみを、その絶望を自分だけが軽減させることができるのなら、許そうと思った。
今思えば、信也も十分動揺していたのだ。
「そういえばお前、結婚式に来てくれなかったよな」
「来てほしかったのか」
「そりゃあ、まあな」
照れたような、気まずそうな口調で言葉を濁す邦明を、酷く不思議な気持ちで見つめる。幸せを無条件で祝福できるような間柄でないのは、お互いに理解していたはずだった。自分が行けば、二人の事情を知る者から好奇の目で見られることは解りきっていた。
何故今頃になってそんなことを掘り返してくるのか、信也にはわからなかった。
「子供ができた」
「なに」
「子供ができたんだ。だからちょうどいい機会だと思ってさ、お前も」
幸せです。そんな言葉を顔全体に書きつくしたように崩れた顔が信じられなかった。
勝手に幸せになられて、勝手にそっちの理想を押し付けられるのが我慢ならなかった。
「お前も、そろそろ外に」
強く、信也は机を叩いた。
倒れるコップと、目を見開く邦明の顔が、視界に映った。
子供ができたことは純粋に祝福してやれる出来事だ。自分が止まっているからといって、相手にも同じことを強要するほど信也は煮詰まっているつもりはなかった。
だが今まで外に連れ出そうとしたこともなかったくせに、自分の環境の変化があったからといってそれをこちらにも求めるありきたりな反応が、信也にはむかついた。
他の何かを大切に思うことを、極端に嫌うようになった自分の勝手な被害妄想だとわかっていても、それを邦明にだけは言われたくなかった。
「選んだんだよ」
「なに言って……」
「俺は選んだんだよ。お前を」
夢を見た。
もうほとんど忘れてしまった、だけど完全には忘れ去ることなど出来ない夢を。
その夢から覚めると、そこには邦明がいた。求めることを禁じた自分に、許したたった一つだけのものが。
「じゃあどうしろって言うんだ。どうしたら良かったんだよ。俺は、俺は両親も妹も、俺を愛してくれていた人達を、俺が愛していた人達を捨ててでもお前を選んだ俺は、一体どうすれば良かったんだよ。なあ」
感情を抑えようと必死になる。夢に見て思い出したあの炎が、頭のどこかで燻ぶっているように、自制が利かなくなりそうだった。
先ほど邦明が揉み消した煙草が、灰皿の上で煙をはいていた。
「俺は、偶にお前が俺を憎んでいるのか好きでいてくれているのか、わからなくなる」
絞り出すように、呻くように問いかけられた内容が、最後の起爆剤となった。
「お前が憎いかって? ああ憎いさ。憎いに決まっているじゃないか。何で俺がこんな思いをしなくちゃいけないんだ。お前は俺に対して罪滅ぼしをしてるつもりかもしれないが、そんなの俺にとっては迷惑でしかないんだよ」
長年溜め込んでいた膿を、傷口が広がり血が滲もうとも構わずに吐き出し続ける。邦明の罪悪感に付け込んで散々利用してきたのは信也だ。友情でも、ましてや愛情なんかでもなく、ただの意地で維持し続けた異常なまでの執着心を、どうやって手放したらいいのかわからなくなってしまったのは信也の方だった。
「好きかって? ああ、好きだよ大好きだ。愛しているに決まってるじゃないか。なあ。だってお前を愛してなかったら、俺は何のためにお前を許したんだ。お前の中では一人の他人に対する友情が、三人の家族に対する愛情を超えたりするのか? しないだろう? だから俺はお前のことを好きでいなきゃいけないんだよ」
「それはちが」
「違わないだろう。だってそんな、そんな簡単に捨て去れるもののために、俺は家族を想って泣くことを止めたのかよ。そんなのあんまりだ。だって俺の居場所だったんだ。まだ俺は子供で、実感がなかったけど、あそこだけが俺が無条件で愛されることのできる居場所だったんだ。お前のような自責と後悔と懺悔の皮を被った同情なんかよりも、もっと温かくて、暖かい愛情を、与えてくれる家族だったんだぞ。それを一時の感情で切り捨てたなんて、そんな、自分がそんな冷たい人間だなんて、嫌だ」
胸の内に溜め込んでいたものを全て吐き出して、信也はベッドに仰向けに寝転がった。もう放っておいて欲しかった。感情も言葉も止められなかった自分が、ひどく弱い者だと感じた。
「ごめん」
邦明の謝罪の声が聞こえたが、それさえも信也にとってはどうでもよいものだった。一時の感情に流されて選んだものを、一時の感情に流されて手放しただけに過ぎないのだから。
酷く空虚な気持で天井を眺めていると、影が落ちた。視線を少しだけずらせば、邦明が立っている。
「ごめんな信也。でも、それでも俺は」
逆光で信也からは邦明の顔を見ることはできない。それでも、それがどんな表情で吐きだされているのかは、信也には簡単に思い描くことができた。
ふと、頭に手を伸ばされた。膝をついたのか、先ほどよりも声が近くなった気がした。
「俺は、お前と幸せになりたかったよ」
邦明が大きく息を吐く。信也は反射的に息を止めた。
その哀愁を滲ませた声色が癪に障る。もう手遅れだというような台詞に吐き気さえ感じた。
「……うるさい。邦明の癖に」
「お前名前……」
動揺する邦明の声が信也の鼓膜に響く。
俺はお前を幸せにしてやりたかった。
そんな些細な言葉の差異が、今こうして決定的な違いとなって二人の間に横たわっている。そのことがどうしようもなく惨めだと感じた。
寝返りをうって背を向ける。
チカチカと点滅する台所の蛍光灯と、灰皿に置いたタバコの煙が妙に目に沁みた。