1 久方の平和
基地内にある武道場で柔道着を着て、進と北極星は組み合っていた。
「どうした、進? 貴様の力はその程度か?」
「いや、まだまだいけるぞ」
何を着せても北極星には似合う。ほどよく筋肉の付いた肢体に柔道着を通して、長い紅の髪をお団子に纏めれば、凛々しい女柔道家の誕生だ。
前回の戦闘からまた季節は巡り、冬が訪れていた。もう二月に入って二週間が過ぎようとしている。武道場は冷え込んでいて、裸足の足が畳の冷たさに震えた。
進と北極星は徒手格闘の訓練中だった。学校が終わった後に基地へと移動し、二人で訓練というわけである。武道場はたまたま他に利用者がおらず、進と北極星の貸し切りだ。閑散としているおかげで、余計に寒かった。
陸軍の精鋭であれば武器の使用、急所狙いなど何でもありの軍隊格闘術を仕込まれるところだ。しかし空軍で非正規部隊あがりの進はろくに訓練を受けたことがない。なので北極星と半分遊びの柔道もどきで汗を流しているのだった。
目的は体力錬成なので、この程度で問題ない。どうせ実戦なら、いくら鍛えても銃を出されれば終わりである。ただし取っ組み合いに慣れておく必要はあるし、筋肉は自分を裏切らない。付け焼き刃の技術を学ぶより、体を動かす事の方が重要だった。
北極星は進に大技を掛けようと道着の襟や袖を引っ張り、揺さぶりを掛けてくる。体格的にさほど進と変わらない北極星の猛攻撃を受け、進は腰を落としてなんとか踏ん張る。グラヴィトンイーター同士、体力的にはあまり変わらないはずなので、これでいい。北極星が攻め疲れたところで一気に逆転してやる。
しかし進の目論見を、北極星は看破していた。
「甘いな、進! 策というのは見破られれば対応されるものだぞ!」
「うおっ!」
派手な押し引きから一転し、北極星は小外刈りを掛けてくる。たまらず進はバランスを崩すが、北極星の道着は離さない。一本とはほど遠い感じに二人は倒れる。
「進、勝負はここからだ!」
北極星は即座に対応して逃げようとする進を上四方固めで組み敷く。頭側から覆い被さる態勢である。これは非常にまずい。
「おい、北極星!」
進は足をじたばたさせつつ、北極星の道着を掴んで遠ざけようとする。進の抵抗により少し浅めに入ってしまったので、思いっきり北極星の胸が進の顔の辺りに押し付けられていた。北極星の胸はさほど大きくはないが、ここまで密着すると関係ない。
しかも、激しい掴み合いで北極星の道着ははだけていた。ブラまで、はずれてしまっている。進の顔と北極星の胸を隔てるのはわずかに肌着一枚だけだ。
「お、うおぉぉぉ……!」
北極星の乳房に圧迫されて、思わず進は変な声を出してしまう。面で柔らかい感触に押され、正直気持ちがいい。全面がマシュマロのように柔らかいが、一部分だけ固いところがある。ひょっとしてこれは……。
進が悶絶していると、北極星は体を起こす。どうやら十秒経って進の負けが確定したらしい。進はすぐには起き上がれず、仰向けのまましばらく呼吸を整えようとする。
北極星はその場に座り、ニヤニヤしながら進に尋ねた。
「どうだ? 天国に昇る気分だったろう?」
どうやら北極星はわかっていてやっていたようだ。進は嘆息する。
「勘弁してくれよ……」
北極星はニヤついたまま進を叱る。
「たわけ、戦場で恥ずかしがっていたら死ぬのだぞ? 貴様のように、性欲に惑わされていてもな」
そう言って北極星は大きくなっている進の股間をピンと指で弾いた。屈辱に進は顔を熱くする。
「ううっ……」
「目の前に裸の女が現れても、ちゃんと撃たねばならぬぞ?」
北極星は進の股間をいじりながら、楽しそうに言った。そんな鬱シナリオを書くのはどこかの黒いハゲだけで充分である。
中国軍との戦闘後、一ヶ月ほど日本各地を転戦してから筑波に戻った進の生活は、以前とほとんど同じだった。美月に本当の仕事がばれようが、進のやることが変わるわけではないのだ。普段通り日中は学校に行って、残りの時間は軍に勤務する。
ここのところは軍務もほとんどなく、はっきり言って暇だ。物騒な集団は軍の徹底的な攻撃で沈黙しているし、専用GDのための要素技術研究も一段落ついていた。数ヶ月前の実戦で得られたデータにより、かなり研究が進展したのである。
こと専用GDに限っては、百の試験より一の実戦だと越智は言っていた。グラヴィトンイーターの本気は実戦でしか見られないのである。
すでに越智は新型専用GDの試作機〈Xヴォルケノーヴァ〉を組み上げる作業を始めていて、進に構っている場合ではない。〈Xヴォルケノーヴァ〉が完成すれば進の仕事もまた増えるだろうが、それまでは久々に時間がとれる。
そういうわけで進は、普段やれない訓練を受けているのだった。
進と北極星は場所を移動して着替え、次の訓練に移る。
「……さすがにこれは意味ないんじゃないのか?」
「何を言う? これも立派な武道だぞ?」
そう言って北極星は弓につがえた矢から手を離し、矢を放つ。北極星の矢は標的の真ん中にズドンと突き刺さった。
ここは基地内にある弓道場だ。もうすっかり日は暮れているが、照明を完備しているので全く問題ない。実戦では役に立たないが、精神修行のためということで弓道場は建設されている。進はよく知らないが軍の中に弓道部もあって、大会にも出ているらしい。
北極星は弓道着に胸当てという格好で、ほとんど的をはずすことなく矢を撃ちまくる。もちろん進は弓道なんてやったことがない。進は適当に矢を射てみるが、全く的には当たらなかった。
見かねた北極星は進に弓の射型を教える。
「肘を引きすぎだ。もっと前でよい。それから矢は親指に乗せて……小指は離しすぎるな。あと爪揃えができていない。弓を握るところも違う……」
北極星はうんざりするくらいにダメ出しして、進のフォームを修正していった。弓を射るまでの動作も決まっているらしく、北極星は逐一細かく指示してくる。進は北極星の言う通りに射てみたが、進の放った矢は的から大きくはずれる。
「それでよい。フォームは綺麗だった。当たるか当たらぬかは些細な問題だ」
「いいのかよ!」
進はずっこけそうになる。ちょっとした引き方の違いで矢の飛び方が全然違うので、弓道では射型はかなり重要視される。一時は的に当たらなくても射型が綺麗ならそれでよし、という風潮もあったくらいだ。
まあ、弓道は武道なので精神修行の側面が強い。極端な話、百発百中でも弓道の作法からはずれれば無礼であり失格である。動かない的を目標に自分と戦い、集中力を鍛えるのが目的なので初心者の進に対して結果はあまり問わないということだ。
進は北極星に訊く。
「しかしなんでいきなり弓道なんだ? 弓じゃなきゃいけない理由が何かあるのか?」
武道なら他にいくらでもあるし、射撃をやらせたいなら銃を使えばいいのではないか。俺のマカロフが火を吹くぜ。
北極星は弓を射ながら事情を説明する。
「うむ……実は専用GDに弓型の武装を搭載する計画が持ち上がっているのだ……。大分先の話になりそうだが、今のうちから貴様を弓に慣れさせておこうと思ってな。弓道は精神面のトレーニングにも適しているので、ちょうどよかったのだ」
〈プロトノーヴァ〉の実戦データでインスピレーションを得た越智が、新兵器の計画を上に上げてきているのだ。グラヴィトンイーターの力で直接重力子を振動させて弾体を射出するという新兵器で、弓のような使用感になりそうということである。
結局のところ次世代型レールカノンやビーム兵器の方が簡単に高い威力を出せそうなので、今のところ実現性は微妙だ。しかし経験して損はないし、集中力の鍛錬にはもってこいだ。普段から集中力に欠けている傾向にある進を鍛えようと、北極星は弓道をやらせているのだった。
「なるほどなぁ」
進は納得し、いっそう真面目に打ち込むことにした。
一時間ほど弓を射続けたところで、弓道場にエレナが現れた。
「進さん、もう十時です。そろそろ帰りませんか?」
「もうそんな時間なのか」
進は軽く驚く。時間を忘れて弓を射ていた。その分集中力が鍛えられて、実のある時間になった。
「ふむ……。そろそろ終わりにするか。進、片付けるぞ」
好き放題撃ちまくった矢を回収したり、弓を拭いたりといった作業をしなければならない。さっそく進は取りかかろうとするが、エレナは興味津々に進が持っている弓を見つめる。エレナも弓は初めてだろう。触ってみるのもいいかもしれない。
「エレナも少しやってみるか? いいよな、北極星?」
進は一応北極星にお伺いを立てる。北極星は即座にOKを出した。
「構わぬぞ。痛い思いをするかもしれぬがな……」
北極星は意味深に笑う。北極星が何を言いたいのかはわからないが、ともかく許可は出たのだ。進はエレナに弓を渡す。エレナも北極星の言葉について深く考えることなく、弓を構えた。
「ではお言葉に甘えて……!」
エレナは漫画かアニメのように矢をつがえた弓を思いっきり後方まで引っ張る。図らずも大きな胸を強調するような姿勢になり、進は思わずオオッと見入ってしまう。エレナは矢を放った。
矢は明後日の方向に飛んでいき、弦が勢いよくパシーン! とエレナの胸を叩いた。弓の弦は矢を数十メートル飛ばすくらいに高速で動いている。エレナは激痛のあまり胸を押さえてうずくまった。
「こういうことですのねッ……!?」
エレナは涙目で北極星を見上げる。北極星はエレナを見下ろして解説する。
「女性なら胸当てをつけておかなくてはな。下手をしたら乳首が飛ぶぞ」
「早く言ってほしかったですわ……」
エレナは恨みがましい声を上げる。もちろん北極星は胸当てできっちり自慢の美乳をガードしていた。エレナだって服を着ていて、下にブラジャーもつけている。絶対に大怪我はしないとみて、北極星が少し意地悪したのだった。
「いい薬になったであろう。軍人を続けたいのなら、常に一を聞いて十を知るくらいの心構えで人の話を聞くことだな」
「うう……肝に銘じておきますわ」
エレナはすぐに復活して、進と北極星の片付けを手伝ってくれた。エレナのおかげで片付けはすぐに終わり、進たちは帰宅することになる。
帰り際、エレナが進の傍までやってきて耳打ちする。
「明日、楽しみにしていてください。絶対、進さんを喜ばせてみせますから!」
エレナは言い終わるとすぐに進から離れ、駆け去ってしまう。今日は一緒には帰ってくれないらしい。残された進は一人で首をひねる。
「……? 明日、何かあったっけ?」