2 仕事の時間
進とエレナは教室からバス停まで走ってバスに飛び乗り、十数分ほどかけて移動する。
着いた先は、白い外装が剥がれあちこちでコンクリートが露出しているボロアパートだった。進が合言葉を言ってから入ると、すでにほとんどのメンバーが集合していた。部屋の中にはパイプ椅子が並べられ、前にはホワイトボードがある。進とエレナは息を切らしながら着席する。
「走ってくることはなかったかもしれませんね。まだ稲葉さんもいらっしゃいませんし」
進の隣の席に座ったエレナが言い、進もうなずく。
「そうだな。もうちょっとクラスの人と話してみてもよかったかも」
「進さんは積極的ですね」
エレナはそう言って笑う。進は言った。
「いや、全然何もしてないけどな」
「また明日からがんばればいいでしょう? 不安ではありますけど……」
「そんなこと言ったって同年代だから、なんとかなるよ」
軽い調子で進は言った。進もクラスに馴染むにはほど遠い状況だが、時間が解決してくれるだろう。この程度のことは本業に差し支えないように、楽観的に考えておくべきだ。
エレナは笑う。
「そうですね。でも私はクラスの人だけでなく、進さんともっと仲良く……」
エレナは進の手を握ろうとするが、ここでドアが開く。
「あ、稲葉さん来た」
入ってきたのは頬に傷のある男だった。この部隊の責任者である稲葉さんだ。進はエレナとの会話を止め、ホワイトボードの方に向き直った。
稲葉さんは手にした鞄から大きな地図を取り出し、ホワイトボードに貼り付ける。太平洋の地図だった。ハワイ諸島、マリアナ諸島に、赤い印がつけられている。稲葉さんはホワイトボードの前に立ち、さっそく作戦の説明に入る。
「作戦地は太平洋全域、かなり遠出することになる」
進はホワイトボードを凝視し、稲葉さんの話に耳を傾ける。
「今回の我々特務飛行隊の任務は、運び屋だ。参加するパイロットは……全員だ」
稲葉さんの言葉に、ブリーフィングルームはどよめいた。部隊には十数人のパイロットがいるが、全員が参加する作戦は珍しい。
「ハワイオアフ島で『指輪』を受け取り、GDで輸送する。輸送用GDは夜間作戦であることを考慮して複座機を使う。『指輪』を乗せる機体は煌、楠木組と、真島、木津組だ」
「ええっ!? 俺ですか!? 稲葉さんがやった方がいいんじゃ……」
予期せず稲葉さんに名前を呼ばれた進は、素っ頓狂な声をあげた。稲葉さんは苦笑いしながら説明を続ける。
「この作戦は長期ミッションになる。体力的に、若い君が適任だ」
進は目を白黒させた。ここ何回かは大事な役割を任されていたが、まさかの抜擢である。
「それに君ももう大尉だ。うちでは古株の方になる。エレメントの指揮くらいはできてもらわないと困るし、君ならできると私は思っている」
「は、はい……」
稲葉さんの階級は大佐、進は大尉である。特務飛行隊はメンバーの入れ替わりが激しく、公には認められていないため、どうせなら高めに設定しようと、階級が上がるのはとても早いのだった。両親がいない進の家庭の事情を知っていて、給料が高くなるように稲葉さんがはからってくれたというのもある。
「『指輪』を乗せた機体を優先して逃がすこと。逃走ルートは図の通りだ。なお、どんなに危ない状況になっても『指輪』の使用は一切認めない。特に進君、いいね?」
「……はい!」
稲葉さんの言葉に、進は若干声を上ずらせながら返事をする。『指輪』を使える可能性があるのは部隊の中で進だけだった。なぜなら、グラヴィトンシードを持っているのが進だけだからである。
『指輪』にはグラヴィトンイーターだけが呼び出すことのできる、強力なGDが封じられていた。進はまだグラヴィトンイーターではないが、『指輪』による刺激を受ければ進化できるかもしれない。
「明野町の基地から出撃だ。作戦開始は三時間後、各自移動すること。解散!」
稲葉さんの号令に従い、一同は解散した。
進はエレナとともにまたバスに乗って筑波市の北西に位置する明野町の手前まで移動し、そこから基地代わりの古倉庫まで歩く。グラヴィトンドライブを稼働することで重量をかなりまで軽減できるGDには、滑走路は必要ない。そのため推進剤や弾薬を確保できるという前提があれば、風雨や人目からGDを守る十分な大きさの倉庫があれば、隠密運用は難しくないのだ。
進とエレナが基地に一番乗りだった。進とエレナの他には誰もいない。
進はエレナが更衣室で着替えるのを待つ。更衣室といっても、壁とロッカーで狭い空間を作り、出入り口にカーテンをつけただけのものだ。覗こうと思えばやりたい放題であるため、進は毎回見張りを頼まれていた。
エレナは進以外誰もいないのをいいことに、ふざけて着替えの実況中継を始める。
「今、制服の上を脱ぎましたわ。シャツまで一気に行きますわよ」
「……」
進は反応しない。衣擦れの音が静かな基地内に響く。
「スカートも脱ぎました。もうブラとショーツだけですわ」
「……」
絶対に覗いたりはしない。しかし心の眼で見るのはセーフだろう。
「全部脱がなくてはならないのは少し恥ずかしいですわね……。でも、こうしないとパイロットスーツを着られませんから。まずブラをはずしま~す!」
「……」
エレナの胸は推定Fカップ以上である。きっとブラをはずせば、ス○ロボの戦闘ムービー並みに胸が揺れているに違いない。
「最後にショーツです。進さん、絶対に見ないでくださいよ?」
「……」
さすがのエレナも声色にかなり照れが混じってくる。進は心眼でカーテンの向こうを見通そうとする。エレナの髪は金色だが、下の毛はどうだろう? 上と下で色が違うというのはよく聞く話だ。あるいはまだ生えていないという可能性も……!
「お待たせしました」
白い、体のラインが浮き出るような体にぴったりと張り付く伸縮性のスーツをまとったエレナが更衣室から出てくる。妄想を中断され、進はエレナの姿を凝視してしまう。正直エレナのこの姿は目に毒だ。大きな胸の形や腰のくびれが露わになっていて、目のやり場に困ってしまう。動きやすさを重視して、肩から先は露出しているので細い腕だって見放題だ。
「あらあら進さん、何を意識しておりますの?」
不意打ちを食らって目を逸らす進に、エレナはいたずらっぽく笑った。このスーツを着ることでGDの脳波制御における反応速度が早くなるというが、正直ほとんど効果はない。特務飛行隊で真面目にスーツを着用するのは、唯一の女性パイロットであるエレナだけだった。部隊長の稲葉さんでさえ身につけないのだから、進に着用する義務があろうはずもない。
進は作業着のような前世紀の戦闘機パイロットが着る耐Gスーツに着替え、進とエレナは自分たちが乗る機体を確認する。耐Gスーツを着たのは気分の問題だ。GDにはGなどほとんどかからないので、体を締め付けてブラックアウト対策をする必要はない。耐火性能はあるので墜落時にはひょっとしたら役に立つかもしれないという程度だ。
地上に降りる可能性がある任務ならヘルメットやニーパッドを用意して迷彩服を着るが、今回は必要ないだろう。
進たちが普段使う機体は国産GDである〈疾風〉だ。背中に申し訳程度にバックパックがついているという程度のシャープなボディが特徴で、夜間行動のため黒く塗られた機体は極限まで減量したボクサーを思い起こさせる。バックパックからは対地ミサイルや燃料増槽を吊すための直線翼が伸び、太ももの裏側では金色の放熱フィンが光っていた。
〈疾風〉を見上げて進はつぶやいた。
「……大丈夫かな」
今回の作戦で進は『指輪』の輸送という重責を担う。この一年で何度も実戦に参加し、自分なりに腕を磨いてきたつもりではあるが、進より腕のいいパイロットが撃墜されるのを進は何度も見ている。たまたま生き残ってきただけである自分に務まるだろうか。
エレナは進を励ます。
「自信を持ってください。稲葉さんは進さんのことを評価しています。稲葉さんの期待に応えずにどうなさるのですか。私も今日は後席でサポートさせてもらいます」
エレナの言葉に、進はポツリと言った。
「エレナが前の方がいいんじゃないかなぁ……」
複座型では通常の場合、前席のパイロットが機体の操縦を担当し、後席のパイロットがレーダーの操作や航法を担当する。進は航空学校で基礎を叩き込まれているため、何でも平均的にこなせる。逆にエレナは機体の制動が得意で電子機器関係は苦手で、後席には向かない。普通に考えればエレナが前に座るべきだ。
エレナは顔を赤らめる。
「進さんが後ろですと、私がトイレするところが丸見えではないですか」
「そんな理由かよ……」
GDに乗るといくら事前に済ませておいても、必ずトイレに行きたくなる。重力軽減が働くため、上半身への血流が増えて脳が水分過多と誤認するからだ。
最新型GDは、パイロットスーツに接続できる吸引式のトイレ用ホースがコクピットに設置されている。しかし特務飛行隊の古い〈疾風〉にはそんな便利な物はついていないので、パイロットは苦労しているのだった。グラヴィトンシードを得てからはピタリと止まったが、進もペットボトルやら簡易トイレパックやらをいろいろと持ち込んで試行錯誤したものだ。
男なら座ったままチャックを降ろして手早く処理できるが、エレナはそうもいかない。どうしても一度下着を降ろして下半身を露出し……という話になる。パイロットスーツなら下着をはいていなければジッパーを降ろすだけで対応できるが、それでも女性ならジッパーをかなり大きく開ける必要がある。後席と前席の段差はまあまああるので、進が後席なら覗こうと思えばいくらでも覗けるだろう。
進は微妙な表情を浮かべ、エレナはコホンと咳払いした。
「冗談はともかくとして、弱気は敵ですよ。私だって後ろに集中させていただけるなら、問題なくサポートできます。今回のミッションは、判断力のある進さんが鍵です」
エレナはパイロットとしての腕自体は進より上だが、味方がやられると頭に血が昇るきらいがある。進も同じ傾向にあるが、進は一応軍人としての教育を受けているので、興奮しても任務を忘れたりはしない。今回は味方を何人犠牲にしても『指輪』を送り届けるのが任務であるため、エレナは後ろに回されたのだ。
「でもなぁ……」
なおも渋る進を、エレナは軽くデコピンする。
エレナは突然冷たい表情を作って、言った。
「あなたは死なないわ。私が守るもの」
「……」
エレナがやりたかったことはわかったが、明るい表情が魅力のエレナには正直あまりに似合っていない。唐突なパロディはやめろと言いたい。進は絶句する。
「……もう! ちょっとは反応してくださいまし! これでは道化ではないですか!」
エレナが顔を真っ赤にして、バシバシと進を叩く。
「わかった、わかったよ……」
そう言いながら進の顔にはようやく笑顔が戻っていた。
さぁ、あと一時間ほどで任務開始だ。必ずエレナと一緒に生きて帰ろう。