6 敵
スコンクワークスの本拠地、ハワイに浮かぶ〈ノアズ・アーク〉の艦長室。二週目の保村成恵──流南極星は確かに手応えを感じた。真の黒幕、イカルス博士は死んだのだ。
発砲のショックで南極星の手は震えている。人を殺したのは初めてだ。南極星が放った銃弾はイカルス博士の眉間を貫き、イカルス博士の背後に脳漿をぶちまけていた。イカルス博士の左手で黒く輝くグラヴィトンシードは本体の死を感知して砕ける。いくら最古のグラヴィトンイーターでも、この状態では生きてはいまい。
「貴様ァッ!」
銃を持っていることも忘れてか、ジュダ・ランペイジは激昂して南極星に掴みかかってくる。南極星は腕を掴まれたため銃を撃てない。グラヴィトンイーター同士でしか起こりえない、重力子を消したり作ったりしながらの取っ組み合いになる。
南極星の上着が破れ、胸が少しだけ露出する。本来そんな余裕はないはずなのに、南極星は恥ずかしい、と思った。イカルス博士を殺して、南極星は少し安心しているのだ。
しかし南極星とジュダの争いはすぐに終結した。艦長室のドアが、唐突に開いたのだ。
「二人とも、女性がそんな風に争うものではないよ」
イカルス博士が、何事もなかったかのように立っていた。驚くより先に体が反応し、南極星はイカルス博士の頭部を撃ち抜く。
イカルス博士は仰向けに倒れ、やはりグラヴィトンシードが砕け散った。しかし床に臥したイカルス博士を乗り越え、三人目のイカルス博士が現れる。
わけがわからない。南極星は銃を取り落とし、呆然とイカルス博士に相対する。
「なぜ……? どういうことなの?」
イカルス博士は淡々と答えた。
「我々の意識は遙か十一次元から投影されるホログラムだ……。我々にとって三次元の質量は十一次元の影絵に過ぎない……。本来の我々はもっと自由だということだよ……」
ホログラフィック宇宙論。私たちが存在する三次元宇宙は、例えば二次元の漫画やゲームの世界が私たちの三次元世界から描かれているように、より高い次元から投影されるホログラムであるという理論だ。
この仮説は重力子が発見される以前から、理論的には間違いないと見られていた。重力子の発見と重力が伝わる仕組みの解明によりこの仮説を完成させたのが、イカルス博士である。
重力は巨大なエネルギーを持っている。重力を伝えて振動している重力子から莫大なエネルギーを取り出せるのはそのためだ。
にもかかわらず重力は三次元で働いている力としてはかなり弱い。地球ほどの質量があってようやく表面に働く重力は1Gである。重力がごく微弱な力であることを証明したいなら、地面に置いた金属に磁石を近づけてみればいい。金属は重力に逆らって浮き上がり、磁石にくっつくだろう。重力は磁力より弱いのだ。
では重力がもたらす巨大なエネルギーはどこから来ているのか。なぜ三次元では異常に弱い力として発現するのか。
十一次元から、というのがその答えになる。重力は十一次元から始まる全ての次元を貫き、三次元に到達している。故に強大な力であるのに、到達点である三次元からは微弱な力としか観測できない。三次元から重力の力を読み取ろうとするのは、スクリーンの表面から映写機を回す電力を捜しているようなものなのだ。
イカルス博士はグラヴィトンイーターが同じように1Gの力を伝えている重力子を分解しても、出力されるエネルギーには差異が出ることに着目し、重力の出所を探った。そこでグラヴィトンイーターの脳を観測し、グラヴィトンイーターの感情が重力子のエネルギー変換効率と相関関係にあることを突き止めた。
人間の意識と重力の出所は同じだったということだ。グラヴィトンイーターが感情を昂ぶらせれば、それだけ三次元世界に流れ込む重力は増える。重力をいくら調べてもそれはわからないが、グラヴィトンイーターが生み出すエネルギー量としてなら観測できる。こうして重力が多次元に渡る巨大エネルギーであることが実証され、人の意識もまたより高い次元、おそらく十一次元から投影されていることが明らかになった。
三次元世界がより高次元からのホログラムから成り立つとすれば、別の映り方をした世界──即ち平行世界も存在するということになる。充分な重力子さえあれば時空さえねじ曲げることのできるグラヴィトンイーターは、理論上は平行世界移動が可能だ。時間移動であればこの空中戦艦〈ノアズ・アーク〉は成功している。
「別の世界から、別の自分を呼んだとでもいうの……!? ありえない、一歩間違えれば対消滅で世界ごと吹き飛んでいたわよ……」
次々とイカルス博士が現れるからくりに気付いた南極星はうめく。
グラヴィトンイーターも何の制限もなしに平行世界移動、時間移動をできるわけではない。強大な力を持つからこそ存在するリスクもある。移動した先にグラヴィトンイーターたる自分がいれば、対消滅を起こしてしまうのだ。グラヴィトンイーターが移動できるのはあくまで自分がいない世界だけである。
進とファウストが同時に存在しても何も起きなかったのは、二人の持つグラヴィトンシードが別のものだったからだ。グラヴィトンシードまで同じでなければ、同一人物ではない。同様に南極星と北極星でも対消滅は起きない。
しかし今し方現れた二人目のイカルス博士が保持する左手の黒いグラヴィトンシードは、一人目と全く同じものだった。
「心配ない。私は神の階段に足を掛けているのでね……」
イカルス博士は誇るでもなく言った。おそらくイカルス博士は十一次元にある自分の意識本体と交信できるのだ。別の時間、別の世界にいる自分と知識や記憶を共有できるのと同じである。口ぶりからすればまだまだ不完全なようだが、こんなことができるグラヴィトンイーターは他にはいないだろう。
驚嘆に値する事実だ。イカルス博士がその気になれば、何度イカルス博士を殺してもその度に別のイカルス博士が現れることになる。つまり、誰もイカルス博士をこの世から消し去ることはできない。
イカルス博士は話を続ける。
「この世界には可能性がある。幾多の世界で潰えた、神への到達の可能性が……」
イカルス博士のいう神への到達とは、十一次元意識体との完全なる交信に違いない。実現すれば確かにもの凄いことだ。この世界の過去未来、可能性の全てを知ることができる。
しかしそれは、この世界の人間たちを争わせてまで成し遂げなければならないことなのか。
南極星はイカルス博士を問い質す。
「薄ら寒い反戦演説をしておいて、裏では戦争の誘発工作をする。いったい何を考えているの?」
『我々にはなぜ質量があるのか。なぜ質量に縛られているのか。我々の意識は遙か十一次元から投影されるホログラムに過ぎない……。本来我々はもっと自由なはずなのだ……。我々はその意味を考えなければならない……。我々が争う必要はない……』。
日本の戦地においてしょっちゅう流れるこの演説は、イカルス博士がかつて行ったものだ。今もイカルス博士のシンパが〈スコンクワークス〉の支援を受けて争っている両軍のオープンチャンネルに紛れ込ませていることを、南極星は知っている。
イカルス博士の回答は簡潔だった。
「私は戦争をなくしたかった。だが理想と現実は違う。私の理想に人類は追いつけなかった。それだけのことだ」
「あなたの理想なんてどうでもいいのよ。私の要求はただ一つ。この世界からあなたが退場することだけ」
南極星の言葉にジュダは怒りを露わにして、再び南極星に掴みかかろうとする。
「貴様ァッ! ドクター・イカルスがどんな思いで……!」
イカルス博士はジュダを止める。
「いいんだ、ジュダ。私の理解者は君だけでいい」
イカルス博士の言葉で冷静になったのか、ジュダは拳を降ろす。
「……失礼しました、ドクター」
小さな子に言い聞かせるようにイカルス博士は語る。
「私も話し合いで争いがなくなれば、それが一番いいと思っているさ。だが現実はそうはいかない……」
イカルス博士の苦悩を、南極星はバッサリと切り捨てる。
「当たり前よ。みんな生き残るために必死だった。あなたの空虚な理想なんて、誰の胸にも響かない」
南極星は西日本でどれほど悲惨な状況が続いているか、知っている。
強烈な電磁パルスを放ち続けている「黒い渦」は空路や海路を危険なものとした。資源に乏しい島国である日本にとって、この事実は致命傷である。食料危機に燃料危機。生活に必要なあらゆる物資が不足し、列島はパニックに陥った。
燃料不足については、東も西もメタンハイドレートの採掘で解消することができた。メタンハイドレートは低温、高圧下の海底でメタンが結晶化したものである。海底の圧力を下げれば気体に戻るので、グラヴィトンドライブを使えば簡単に採掘可能だ。
どうしようもなかったのは食料である。西日本アメリカ亡命政権の版図には東と違い北海道、東北、新潟のような穀倉地帯はなかった。海外からの輸入が頼りであるが「黒い渦」と政情不安が航路を脅かす。日本列島の戦乱に加え台湾、沖縄に中国が食指を伸ばしていたのである。
西日本では、地方はともかく都市部の食料事情はかなり悪かった。少し凶作が続くとスーパーから品物が消え、アメリカ人日本人問わず飢える。
東日本でも食料を巡る争いは起きていたようだが、西ではさらに悲惨だった。西日本アメリカ亡命政権の領域では、銃規制がないのである。誰かが銃を持ち出せば、それに対して銃で反撃が為される。
こうして皆が生き延びようとした結果、誰が悪いというわけでもないのに人は死んでいく。餓死者より銃で撃たれて死ぬ者の方が多いという惨状だった。
南極星の剣呑な視線をイカルス博士は真正面から受け止める。
「そうだ。誰もが生きることに必死で争う。ならば争いの原因は何だね?」
南極星はイカルス博士の言わんとしていることをすぐに察する。
「足りないこと……。人が不足なく生きていくには、この世界はキャパシティが小さすぎる……」
そもそも、異世界人が来る前から世界は平和ではなかった。南極星は保村成恵として平和な暮らしをしていたが、それは日本が平和だっただけである。
「仮に私の能力を使わず地道に技術開発を続けても、二十年後には北アメリカ大陸の『黒い渦』を消すことができるだろう。そのときに起きることが君に想像できるかな? 人の本質は奪い合いなのだよ」
南極星は即座に正答を当てる。
「北アメリカ大陸の奪い合いが起きるっていうの……?」
「そのとおりだ。すでに準備を始めている国もある」
世界はゼロサムゲームだ。一部の先進国により世界の多数を占める発展途上国は富を収奪され、先進国だけが現代文明の恩恵を享受している。中東やアフリカは戦争に次ぐ戦争の渦中にあり、アメリカをはじめとする先進国は世界の警察気取りで戦地に空から爆弾をプレゼントしていた。この構造は今も変わらない。
当事者には様々な言い分があるだろうが、根本的には生きていくために「悪」を打倒しようとしていたのだ。自分たちは奪われている。だから、収奪者を倒す。
「私の研究が完成し、重力子をより効率よくエネルギー化することができれば、全世界のエネルギー需要を満たすことができる。私が神の領域に到達できれば、その成果を未来から輸入することが可能だ」
イカルス博士の発言に、南極星は銃を構えることで返す。
「そのためなら、私たちがいくら血を流してもいいっていうの?」
イカルス博士は即答した。
「私は常に対話を望んでいる。だが君たちは私の言葉に耳を貸さず、戦い続けているね。つくづく、人間とは愚かな生き物だ……。君に必要なのはこれだろう?」
イカルス博士は南極星に小さなケースを投げて寄越した。南極星はケースを開けて驚く。中にはノーヴァシリーズの指輪が入っていたのだ。
「どういうつもり……!?」
南極星の目的は、ファウストの遺志に従いイカルス博士を倒すことだ。専用GDを手に入れたなら、南極星はイカルス博士を殺すために使う。
「君が指輪を得ることで、私の研究も前進する。その可能性を感じただけさ」
「私に何をさせる気なの……?」
イカルス博士はニッコリと笑った。
「好きにすればいい。私を殺したいのだとしても、その指輪は必要なはずだ。君程のグラヴィトンイーターなら指輪の力を借りて成長すれば、十一次元にある私の意識本体を破壊できるようになるだろう。今は大人と子どもほどの差があるが、君の才能は私を大きく超えている」
イカルス博士の表情が大きく歪む。
「もっとも、君が本当にやりたいのは、私を殺すことではないのだろうけどね……」
南極星は指輪を握りしめたまま息を飲んだ。イカルス博士の言葉は悪魔のささやきのように、ちりちりと南極星の皮膚を浸食する。
「私に復讐しろというの……?」
全く頭になかったといえば嘘になる。一周目の進、ファウストを殺し、二周目の進を南極星から奪ったあの女。どうして自分ではなく彼女なのか。そんな思いは南極星の胸の奥で燻り続けていた。
人の本質が奪い合いだというのなら、南極星の敵が誰であるかは自明だ。この世界に保村成恵は一人で充分である。南極星は北極星と、保村成恵の座を奪い合わなければならない。
「それは君自身が決めることだ。ミスセカンド、流南極星……! 付け加えるとするなら」
イカルス博士は白い歯を見せる。
「君にとっての鍵は焔北極星だ。君が私を倒せるほどの力を得ようとするなら、君は焔北極星と戦う以外にない。焔北極星を殺せたとき、君のグラヴィトンイーターとしての能力は完成するだろう。そのとき、君の力は私を大きく超える」
ここまで邪悪な人間はいないであろう。そう確信を持っていえるほどイカルス博士の目は真っ黒に、爛々と輝いていた。
「まぁ、自分では気付いていないだろう。今の君は焔北極星の存在が心理的に重しになっていて、グラヴィトンイーターとしての成長が阻害されている。君は焔北極星に愛する男を殺され、奪われたのだからね。君がベッドの上で一周目の煌進と過ごした九年間は、君にとってコンプレックスとなっているのだよ。どうやっても焔北極星に勝てるわけがない、私は焔北極星以上に成長できない、心のどこかで君はそう思っている」
「そんなことはない! 私は……!」
南極星は気色ばんで反論しようとするが、イカルス博士は結論を言ってしまう。
「君の精神的な足枷をはずすには焔北極星の存在を抹消するしかない。今の焔北極星に勝てないというのなら、過去の焔北極星を殺すといい。君と〈エヴォルノーヴァ〉なら筑波の重力炉を使って過去に飛べるだろう」
イカルス博士の話はここで終わらない。
「それからもう一つ。君は私を全ての元凶だと思っているようだが、それは違う……。そもそも一周目世界の崩壊も、私は意図していなかった。これからこの世界を乱すのも、私ではない。本来の私にそこまでの器はないのだよ。私は多少力を得ようとも、世界を破壊に導く因子にはなりえない」
「あなたの自己弁護は聞きたくないわ」
南極星はイカルス博士を拒絶しようとするが、悪魔は一向に口を閉じようとしない。
「私は十一次元にある自分の意識と交信し、未来の断片を覗くことができる。何度交信しても同じだった。私の研究が完成する前に、世界は滅亡する……! おかしいとは思わなかったかね? 私は別の世界へと自由に移動できるのに、私が研究成果を未来から送ることはない。世界には、ここから先がないのだよ!」
確かに安定して平行世界間を移動できるなら、新型重力炉なりGDなりを未来から送り込むことも可能だろう。イカルス博士はそれをしないのではなく、できないのだ。
「あなたほどの力があるなら、世界を滅亡から救うことだってできるでしょう?」
南極星は困惑しながらも尋ねる。イカルス博士の答えは否だった。
「私は軍人ではない。私が直接戦っても、〈スコンクワークス〉の全戦力を投入しても、破壊の運命をもたらす者は倒せなかった……。さて、私が勝てなかった相手。破壊の運命をもたらす者。それが誰かわかるかね?」
イカルス博士は問い掛け、南極星はイカルス博士を強く睨む。
「そんなの、あなたじゃないとしたら一人しかいないじゃない……! いいわ、必ず殺してやる……! あなたはその後よ……!」




