2 進の日常
Dream world
もう何度も、何度も何度も同じ夢を見ていた。
五メートル先も見えない霧の中、煌進は立ち尽くしている。
ここがどこなのかわからない。どこへ向かえば霧から抜けられるのか、わからない。
歩かなければならないということだけは確かだった。立ち止まっていても、何も始まらない。進は愚直に前へ前へと足を動かし続けた。着込んでいる学校の制服が水分を吸い込んで重たく、冷たい。容赦なく体力を奪われる。それでも進は歩むことをやめない。
行けども行けども、道は開かなかった。やがて進の体力は尽き果て、進は前のめりに倒れ伏す。
もうだめだ。一歩も動けない。倒れたまま進は唇を噛む。唇が切れて血が流れ、口の中に鉄の味が広がった。こんなところで倒れている暇はないのだ。俺は成恵を助けに行かなきゃならないのに!
薄れゆく視界の中に、一人の人影が映った。幼い頃の面影を残す彼女が、進を見下ろしている。
「成恵……?」
彼女の髪は神々しささえ感じる綺麗な青紫色に染め上げられていた。北極星ではなく、正真正銘進の幼馴染みの成恵だ。身につけているのも病院で着せられる淡い色のゆったりとした服である。
「進……。ごめんなさい……」
成恵が進を置いて遠ざかっていく。進は掠れた声を絞り出す。
「成恵、どうして……? どうしてなんだ……!」
成恵は霧の向こうに消えていった。進は手を伸ばすが、進の手は虚空を撫でるばかりだ。ずっとそうだった。進の手は、成恵には届かない。
「当たり前だろう。おまえはあいつを捨てたんだ。九年間、この成恵と一緒にいたのは俺だ……!」
声を掛けられ、進はハッと顔を上げる。そこにいたのは、青紫色の長髪を靡かせた、自分と同じ顔の男だった。
「ファウスト……!」
進は身構えるが、ファウストは不敵に笑うばかりだ。
「俺はおまえだぞ? 自分からは、逃げられない……!」
○
Real world
「だったら俺は、おまえを殺す!」
机に並べられていた筆記用具が床に散らばり、けたたましい音を立てる。真面目に前を向いて授業を受けていた周囲の生徒たちは一斉に進に注目し、黒板に板書していた焔北極星はゆっくりとこちらを向く。
今日も北極星は隙がなかった。北極星は幼くかわいらしい容貌とは対照的にスレンダーな肢体を黒のスーツで包み、完全無欠に女教師を演じている。ぱっちりとした目は視線だけで小動物くらいは射殺せそうだ。紅の髪は艶々と輝き、両手にはめた白手袋にはシミ一つない。
「ほう……居眠りするだけでは飽きたらず、授業妨害か……?」
北極星は悪巧みをする魔王のように笑みを浮かべて、教壇から舐めまわすように進を見下ろす。進は顔を引きつらせた。
ようやく進は状況を飲み込む。昼休み後の数学は先生が急用で抜けたため、北極星が代わりに来たのだった。自習になるのかと思いきや、北極星は中間テストの範囲がまだ終わっていないということで普通に代理で授業をする。進は昼食後ということで睡魔に襲われ、ついうとうとしていたのだった。
「処刑の時間だ!」
北極星は上着のポケットに挿していたボールペンを取り出し、ノック部をカチッと押し込む。
「ん? うおおおおおっ!」
進の足下で小さな爆発が連続して起こった。何事かと下を見れば、床に大穴が開いていているではないか。進は椅子に座ったまま下の空き教室に落下していく。進はとっさにグラヴィトンイーターの力を使い、重力子を分解。なんとか無事に着地する。
「おい! やり過ぎだろ!」
進は天井に空いた大穴から教室に向かって怒鳴った。成恵と一緒に空き地で落とし穴を掘って上級生をハメたことならあったが、屋内で落とし穴は無茶苦茶である。
教室からは笑い声が溢れていた。北極星の大掛かりな仕掛けは初めてではない。皆、慣れたものだ。
北極星は腕組みして尊大に言う。
「こんな大掛かりな細工をされて、気付かない貴様が悪い! しばらく外で反省していろ!」
「ぐぬぬ……!」
北極星の言う通りなので、進は言い返せない。これが北極星ではなく、敵の仕業なら進は死んでいたところだ。北極星としては進をテストしたつもりなのだろう。確かに進はここのところ平和ボケしていた。この間、一緒に行った大坂でも指摘されていたのに、まるで成長していない。
「ま、戦争は当分起きないだろうけど用心するに越したことはないよな……」
進は青空を見上げ、独りつぶやく。こうして進がのん気に学校に通えるのも、北極星がファウストを倒し、米軍を壊滅させてくれたおかげだ。
四月に勃発した久方ぶりの日米武力衝突事件──通称二十四時間戦争から、半年が経過していた。停戦条約は日本優位の形でまとまり、日本列島はすっかり平和を取り戻している。ファウストの遺体は見つかっていないが、些細な問題だ。
進もグラヴィトンイーターとなったことで身分の保障されない特務飛行隊から転属となり、正式に軍の一員として認められた。今では深夜に危険な任務に従事せずとも、放課後と休日に出勤するだけで毎月決まった給料が出る。進も安心して学業に励めるというものだ。
北極星はファウストが死に、平和になった今でもどういうわけか教師業を続けている。軍の仕事はどうなっているのだと一度訊いたが、「私の仕事は戦争だ」とのことである。今日も元気にデスクワークを部下に押し付け、北極星は学校に出て来ているのだった。
すでに季節は秋である。寒風が吹きすさぶ廊下で、進は鼻水をすすりながら授業が終わるのを待った。
○
「ハックション!」
放課後、進は教室で地べたに腰掛け、書き割りに絵の具で色を塗りながら、大きなくしゃみをした。手元が狂いそうになり、進は慌てて筆を書き割りから遠ざける。寒い廊下に立っていたせいか、少し鼻の調子が悪い。高校生兼社会人として体調管理も重要な仕事なのに、困ったものだ。
進は来月に迫っている文化祭の準備をしていた。進のクラスは演劇をすることになっていて、進は道具係である。演目は「白雪姫」を大幅にアレンジしたものだ。脚本担当曰く「愛と正義のファンタジー」らしいが、進は脚本を読んでいないのでさっぱり意味がわからない。本番を楽しみにしよう。開催は明日から始まる中間テストの約一週間後となるので、今のうちから用意をしている。
「お兄ちゃん、汚いじゃない!」
進のくしゃみに妹の美月が声を上げる。進は通常の二年遅れで入学したため美月と同学年になり、クラスも同じになってしまったのだ。
美月は小さい子のように頬を膨らませる。こうしてみると、まだまだ仕草も見た目もガキっぽい。人懐っこい顔立ちは甘えん坊にも見えるし、白いシュシュで纏めたポニーテイルもどこか小学生っぽい。まぁ、シュシュをプレゼントしたのは進なのだけれど。
にもかかわらず美月は男子から人気があった。大概男子もガキなので、自分と同じステージの美月に憧れるのかもしれない。クラスの男子には本気なのか冗談なのか、「妹さんを俺にください!」などと進に言ってくる者もいる。本人に言えよ。本当に付き合い始めたらぶん殴るけど。
「ああ、悪い」
進は慌てて立ち上がり、手で鼻水を拭おうとする。鼻水が書き割りに付着すると大問題だ。
「いけませんわ、進さん! 私にお任せください!」
エレナがハンカチを片手に駆け寄ってくる。普段ハンカチなどろくに使わない進だからそう思うのかもしれないが、金髪美少女のハンカチを手にしたエレナはなんとなく上品だ。映画のワンシーンのような気分になる。大きな胸は揺れていてエロいけど。
「はい、チーンして」
エレナは進の隣に来て、小さい子にそうするように進の鼻にハンカチを当て、鼻水を出すように促す。さすがに進も嫌がった。
「いや、エレナ、そこまでされると俺は恥ずかしいっていうか……」
ちなみにエレナの大きな胸は、進の肘に当たるか当たらないかという微妙な位置をキープしていた。肘を出してもいいよね? エルボデッド狙ってもいいよね?
「私と進さんの仲ではありませんか。さぁ、遠慮なさらずに。それとも、もっと別のことをお望みですか……?」
なぜかエレナはハンカチを下げ、頬を赤らめて目を閉じる。意味がわからない。
すると美月が後ろからチョンチョンと肩を叩き、小声で進を呼ぶ。
「お兄ちゃん」
進は美月の意図に従い、そっとエレナの前から離れる。美月は進に代わり、エレナの前に立つ。
「エレナちゃん、アウト~! おしおきタイムだよ!」
美月は宣言するが、逆にエレナを刺激してしまう。
「先手必勝ですわ!」
エレナは目を瞑ったまま、目の前の人物、即ち美月に唇を押し付けた。突拍子もないエレナの行動に、美月は固まる。
「あら……? 進さんはこんなに華奢で柔らかかったかしら……? 何か感触が違うような……? 臭いも違いますわ。進さんはもっと男っぽい臭いなのに、今日はまるで女の子のような甘い臭いが……」
エレナは目を開けて悲鳴を上げる。釣られて美月も叫んだ。
「キャアアアア!」
「ギャアアアア!」
二人はガックリとうなだれてぶつぶつとつぶやく。
「進さんに捧げるはずだった私の唇が……。口と口は初めてでしたのに……」
「鼻だからセーフ! あれは鼻だった……唇ではなかったのよ……だからセーフ!」
まるでコントのようなできすぎた惨状に、教室のそこら中から笑いが漏れる。この二人と進の漫才は恒例行事のようになっているのだった。
進は気を取り直して文化祭の準備を再開する。進はすぐに書き割りを完成させ、白雪姫が眠るベッドの作成を手伝う。ベッド作りは難航したものの男子数人掛かりで作業して、日が暮れる頃にはなんとか完成した。
「こんだけやれば女子も納得だろうな……」
進は額に浮かんだ汗を拭う。白雪姫のベッドは保健室からもらってきた廃棄予定のベッドを補修し、天幕をつけるなどデコレートしたものだ。いかにも病院っぽい金属製の外枠が見えてしまえば世界観がブレイクすること甚だしいので、これでもかと飾りをつけてごまかしたのだった。
進は時計を見て言う。
「もう七時を過ぎてるじゃないか。帰らないと」
女子たちはとっくに帰っている。美月とエレナは進が帰るまで待つと主張したが、この後どうせ仕事に直行するからと説得して帰らせていた。
「そうだな。この後みんなでラーメンでもどうよ? 北海道産の小麦がいのいち家に入ったらしいぜ」
一人の男子が提案し、進は思案する。どうせ進はどこかで外食してから仕事に向かう予定だった。進としては渡りに船であるが、みんなの都合を聞いて、だめなら帰らせなければならない。年長者としてそれくらいは指摘しておくべきだ。
「俺はいいけど、みんなは大丈夫なのか? 家で親が待ってるだろ?」
提案をした男子が答える。
「俺、両親いないから。前の戦争でさ……」
「すまん、そうとは知らなくて……!」
進は慌てて謝る。戦争で家族を失った者は多い。進だって父は西との戦争に従軍し、捕虜からスパイに身を墜として殺されたのだ。少し無神経だったかもしれない。
頭を下げる進に男子は苦笑した。
「べつに死んだとかじゃないからな。今、俺の両親は西にいるんだよ。年に一回手紙も来るぜ」
北米大陸から追い出された米軍に占領されて以降、西日本と東日本の交流は断絶した。運悪く前の戦争のときに西に出掛けていた者は帰れなくなり、家族が分断されているというのもよくある話である。進の知っている範囲ではエレナの父も西にいる。
今でも西と東の連絡は基本的に不通だ。停戦ライン付近は双方の軍によって封鎖されている上にゲリラ、テロリスト、山賊、強盗といった類が跋扈している。民間人が通り抜けるのは不可能だ。東西離散家族の連絡手段は協定により年に一度、手紙のやりとりができるのみである。
「うちもおじさんは九州にいる」
「俺のじいちゃんは京都だ」
他の男子も口々に西にいる親戚を挙げた。進も言う。
「俺も幼馴染みが大坂にいるんだ……」
成恵は大坂の病院で眠ったままだ。進は亡命政権に成恵を東に返してくれるよう頼んでみたが、許可は下りなかった。成恵はかなり適性の高いグラヴィトンイーターなので当然だろう。たとえ目覚めた成恵が亡命政権への協力を拒んでも、研究材料としてハワイの異世界人集団〈スコンクワークス〉との交渉材料にはなり得る。進は大坂を訪れても成恵との面会さえ許されない。
「そっか。みんな苦労してるんだな~。でも、もうすぐ国境が開放されるかもしれないんだろ?」
外食の提案をした男子が尋ね、進は答えた。
「ああ、封鎖解除の交渉中だってさ。多分、うまくいくよ」
ここまでならニュースになっているので言ってもいいだろう。交渉はかなりのところまで進展していて、すでに停戦ライン内への日本軍侵入禁止は解除されている。今は軍がゲリラやテロリストの掃討に動いていて、停戦ライン内の治安回復に目処がつき次第、東西の往来は解禁される見通しだ。
北極星の話によるとアメリカ亡命政権が日本に降伏する形での東西統一プランも持ち上がっているという。大坂をはじめとするいくつかの地域を旧アメリカ人自治区として認め、その他の地域を戦前のように日本政府が統治する。実現すれば長く続いた日本の戦争状態は終結する。
「なるほどな~! どんな顔してうちの親に会えばいいのか、今から困っちゃうぜ!」
彼はおどけ、周囲の笑い声が響いた。一緒に笑いながら、進は密かに拳を強く握りしめる。
(俺ががんばれば、それだけ解禁は早くなる。俺は成恵を取り戻せる)
この後、進はゲリラ討伐のために横浜に出撃する予定だ。進は正規軍の一員として重要な作戦には参加している。今のところは旧停戦エリアでのゲリラ掃討が主な任務となっているが、そのうち地方軍閥の討伐作戦参加もありそうということだ。東北方面が不穏な動きを見せているらしい。停戦ラインの治安を回復し、箱根以西の領土を取り戻した上で地方軍閥を解体できれば、ようやく日本は統一状態に戻る。
包帯で隠された左手のグラヴィトンシードが、輝いたような気がした。成恵を救うのは進の仕事である。そのためにまずは腹ごしらえだ。
「俺の携帯貸すから、来るやつは家に連絡してくれ。遅くなって心配してるだろ」
「黒い渦」の電波妨害が酷い今、携帯電話は一般人が気軽に持てるものではない。進は軍に支給された携帯電話で皆に連絡をさせてから、一緒に食事に出掛けた。この後は戦場だ。気合いを入れて食べよう。
明日からは一日一回更新に戻ります。