プロローグ 世界の矛盾
窓から差し込む柔らかい日差し。体を沈めているベッドはふかふかで気持ちいい。枕はちょっと固い気もするが、些細なことである。進は広いベッドの上で手足を投げ出し、開放感を満喫していた。
「天国みたいだなぁ……」
進は思わずつぶやく。本当に気持ちのいい朝だ。毎日こんな風だったらいいのにと思う。さて、そろそろ起きなければ。
進は布団をどけて起き上がろうと手を動かしたところで、違和感に気付いた。右手が何かとてつもなく柔らかいものに触れている。これは何だろう? 進がその物体を握り込んでみると、ほどよい弾力で指が押し返された。未知の感触であるが、何だか気持ちいい。進は確認しようと横を向いて、固まった。
「どうした? 天国みたいなのだろう? 遠慮せずに揉んでもよいぞ?」
バスローブ姿の北極星が、どういうわけか進の隣に横たわっていた。そして進の右手が掴んでいるのは、北極星の乳房である。芸術的なハリツヤのあるお椀型の逸品が、すっぽり進の手に収まっていた。
「うわああああっ!」
進は悲鳴をあげて後退り、ベッドから転げ落ちる。
全て思い出した。今、進たちがいるのは大坂のホテルだ。大坂で行われる政府首脳の会談に、進と北極星は護衛として同行しているのである。春の戦争から半年ほどが経ち、アメリカ合衆国亡命政権が押さえている西日本の返還交渉が行われるまでに事態は進んでいた。
日中に護衛の役割を勤め上げ、進は明日の打ち合わせをするという北極星と別れ、一足先に宿泊予定のホテルに向かう。部屋に入った進は驚いた。北極星と同室で、しかもダブルベッドだったのだ。
ホテル側に部屋を変えてもらえないかと訊いてみたが、上の命令なのでととりつく島がない。北極星が帰ってきたら抗議しようと思いつつ、疲れていた進は寝入ってしまう。進は隣に北極星が潜り込んでいることにも気付かず、朝まで熟睡してしまったというわけだ。
「全く、こういうときにオタオタしているから貴様は童貞野郎なのだ」
北極星はベッドの上で腕組みして仁王立ちし、床に這いつくばっている進を見下ろす。前の締め付けが甘く、バスローブの隙間から下着が見えていた。セクシーな下着を好む北極星にしては珍しく、リボン付きの白。これはこれでかわいい。
ニヤニヤしながら北極星は言う。
「視線がエロいぞ、進」
北極星は全てお見通しだった。北極星は少し股を開いて隠すどころか見せつけてくる。俺にどうしろっていうんだ。
一階のレストランまで降りて、朝食を食べながら進は抗議する。
「ああいう心臓に悪いことはやめてくれよ……」
進は半ば哀願するように言うが、北極星はニヤニヤしながら一刀両断だ。
「油断している貴様が悪い。ここは敵地だぞ? 隣に潜り込んできたのが敵だったらどうする?」
「いや、敵はベッドには潜り込んでこないだろ……」
そう反論しつつも、進は北極星の意見を認めざるをえない。進を殺す気で敵が来ていたなら、進は為す術もなく殺されていただろう。進は護衛としてついてきたのに、むしろ進に護衛が必要だ。
ちなみにコンチネンタルブレックファーストなのでテーブルに並んでいるのはパン、バター、コーヒーくらいしかない軽いものである。ちょっと寂しいが、お腹一杯食べると動けなくなるのでこれくらいがちょうどいいかもしれない。
すぐに食事は終わり、北極星はナプキンで口元を拭ってウエイターを呼ぶ。北極星は料金にチップを上乗せして支払い、精算を済ませる。
「さぁ、そろそろ行くぞ」
「仕事の時間だな……!」
二人は立ち上がった。
実のところ、護衛といっても別室で待機するだけで特にやることはない。春に大坂に来たときと同じである。北極星と進が存在するだけで、アメリカ側がおびえて交渉が有利になるので、連れてこられたのだった。
とはいえ迂闊な行動をして失敗すると、国の恥さらしになってしまうのでかなり緊張はする。進は控え室でキリッとした表情のまま姿勢正しく座っている必要があり、非常に疲れた。
首脳陣の会談が終わった後、やっと進は解放される。さあ、進にとってはここからが本番だ。進は北極星とともに、軍服を脱ぎ捨てて普段着に着替え、成恵が入院している病院へ向かう。ちなみに北極星も私服に着替えたが、軍刀は下げたままである。深夜アニメの登場人物のようになっていた。
進は成恵に会うためだけに会談についてきた。亡命政権側には見舞いを断られたらしいが、知ったことではない。進はウキウキしながら受付で用件を伝える。
「保村成恵さんに面会したいんですが……」
ところがところが受付のおばさんは、首を振る。
「そんな名前の患者はうちにいません」
「はぁ!? 半年前まで、確かにいたんだけど……」
進は困惑しつつ北極星の方を見る。北極星は小さく嘆息した。
「我々が来るのを見越して、どこか別の所に転院させたのかもしれぬな……」
亡命政権は進たちが成恵を連れて帰ってしまうのではないかと警戒しているのだろう。だから見舞いの申し入れを断り、転院までさせた。政府側の意向なら、受付のおばちゃんを問い詰めても仕方ない。すでに大坂にいない可能性さえあるのだ。進は泣く泣く諦めるしかなかった。
失意の進は商店街をとぼとぼ歩く。何もするわけにはいかない。そもそも、アメリカ側に断られたのに病院を訪れたこと自体、問題なのである。ここで進が暴れたりしたらいよいよ外交問題だ。
北極星は進を慰める。
「仕方あるまい。やつらももう一人の私に危害を加えることはないであろう」
日本やハワイの異世界人集団〈スコンクワークス〉との交渉材料となる成恵に、滅多なことはしない。頭ではわかっているが、何かされているのではないかと心配になる。不安げな進を見て、北極星は苦笑した。
「そんな顔をするな、進。私は今、もう一人の私が近くにいると感じている。貴様の成恵は無事だ」
北極星はグラヴィトンイーターとしての力で、成恵の存在を感じているのだった。北極星がそう言うのなら、成恵は無事だろう。進は顔を上げて少し笑顔を見せる。
「そっか……。じゃあ、早く成恵が戻ってこられるようにがんばらないとな」
「うむ。差し当たっては、皆に買って帰るおみやげを選ばなければな」
冗談めかして北極星は言った。美月には仕事で稲葉さんとともに大坂に出張だと説明している。何からしいものを確保しなければならない。
「そうだな……。やっぱ粉物がいいのかな? でも持って帰らなきゃいけないからなあ」
進は商店街をキョロキョロと見回す。明らかに日本人がやっている店があって、観光客向けにたこ焼きだったりみたらし団子だったりを売っていた。アメリカ合衆国亡命政権の首都である大坂でも、米国籍を取得した元日本人が増えているのである。この辺りでみやげを買い求めればよさそうだ。
そう考えて進が商店街を歩いていると、路地の方で怒号が響いた。
「オラァッ! テメェッ! どこから入ってきやがった!」
明らかに日本語である。驚いた進は声がした方を覗き込む。薄暗い路地では小汚い格好をした老人が地面に這いつくばっていて、みやげもの屋の店員と思しきエプロン姿の男が老人に拳銃を向けていた。
進は驚き、飛び出そうとするが北極星に肩を掴まれ制止される。大坂はもはや異国の地だ。相手は銃も持っている。下手に出しゃばると藪蛇になる。進と北極星は男と老人を取り囲んでぽつりぽつりと立っている野次馬に混じり、事態を見守る。
「ジャップはこの町に侵入禁止だ! 警察に突き出すぞ! 容赦してもらえると思うなよ、ジャァァァァァァップ!」
老人に銃を向けている男は日本語でヒステリックに怒鳴り散らす。老人はうつむいたまま「見逃してください……。見逃してください……」と繰り返していた。
おぼろげながら進にも事情が見えてきた。怒り狂っている男は米国籍保有者だ。元日本人でも一定以上の献金や兵役、奉仕活動など国家への貢献が認められれば米国籍を取得できる。
西日本全域を支配しているアメリカ合衆国亡命政権だが、アメリカ人の数は1000万人ほどしかおらず、そのほとんどは都市部に集中している。郊外の田舎に散らばる4000万人の日本人を支配するためには、不本意ながらも日本人を取り込まざるをえない。
米国籍を取得すれば銃の携行を許され、都市部に住居や仕事を持つことも可能だ。税や福祉も優遇措置を受けられる。日本政府に見捨てられたという意識も手伝い、米国籍を取得する元日本人は増え続けていた。特に二十代~四十代くらいの働き盛りは、厳しい条件をクリアしようと激しい競争を繰り広げている。
一方、それ以上の世代になると米国籍取得は絶望的だ。持っていたはずの財産は戦火に焼かれ、亡命政権に没収されている。年金などは支払われるはずがなく、生活保護で支給されるフードスタンプが命綱。暴動を起こせば米国籍取得に躍起になっている若者たちが手柄を立てようと目を輝かせて鎮圧にやってくる。
それでも田舎に農地を持っていた高齢者は一転勝ち組になっている。問題は都会暮らしの老人たちだ。彼らは都市から強制退去させられ、衣食住が何一つ保証されないまま郊外へ放り出された。畢竟、彼らは食い扶持を求めて都市に戻ってくることになる。財産と呼べる物を何も持たない老人たちには、ゴミ箱さえ宝の山だった。
こうしたホームレス老人は当局がいくら取り締まりを強化しても一向に減らない。そんな老人たちに米国籍取得者は嫌悪感を抱き、激しい衝突が起きるというのは大坂だと日常茶飯事だ。進は今まさに、亡命政権が抱える闇を目撃しているのだった。
進は北極星に目配せしてから、喚き散らしている男の前に出て行く。
「やめないか! 同じ日本人だろ!」
進の言葉に対し、男は脊髄反射で言い返す。
「日本人!? 合衆国民の俺をジャップと一緒にするな!」
男は全く聞く耳を持たず、なんと銃を進に向けてくる。
「さてはおまえもジャップだな! この町はジャップ立入禁止だ! 出て行け!」
「お、落ち着けよ! 俺を撃ったらあんたもただじゃ済まないぞ!」
進は目を白黒させながら害意がないことを示すため手を挙げる。男は進を鼻で笑った。
「バカか! ジャップなんぞいくら撃ったって裁判になりゃ100%無罪だ!」
進はあ然とする。異世界人が来る前のアメリカでは白人警官の黒人射殺事件が頻発して問題になっていたが、それ以上だ。江戸時代の切り捨て御免でもないだろうに、無茶苦茶である。
ここで嘆息して北極星が場を収めに入る。
「私たちを撃てば貴様はただでは済まぬぞ……? これを見れば愚鈍な貴様にも察しがつくであろう」
相手を刺激しないようにだろう、北極星は皇帝から下賜された元帥刀を鞘に収めたまま腰からはずし、掲げてみせる。男は元帥刀をしげしげと眺め、銃を降ろした。
「……あんたら、東の軍人か」
男は憎悪が混じった視線を進たちに向ける。北極星は堂々とうなずいた。
「そうだ。私たちに手を出せばどうなるか、わかるであろう?」
「……俺たちを見捨てて東に引き籠もってるくせに、いい身分だな」
男はペッと地面に唾を吐く。北極星は尊大な態度を一切崩さず、男に言い放った。
「ここは私が預かろう。この老人は私が責任をもって当局に引き渡す」
路面に這いつくばったままの老人がビクリと肩を震わせた。男は憤怒の形相を浮かべるが、引き下がる。
「……もし逃がしたりしたら、訴訟するからな」
そう吐き捨て、男は店に戻った。野次馬がまだ少数ながらいるので、こっそり老人を逃がすのは不可能だ。北極星は携帯電話を取り出し、警察へと連絡する。
警官はすぐにやってきた。恰幅のいい黒人二人組の警官は老人に手錠を掛け、連れて行く。
「ご協力、感謝します」
「うむ、ご苦労」
警官の敬礼に、北極星は敬礼を返した。進は複雑な気分になる。この場は収まったが、老人はどうなるのだろう。何も解決していないのではないか。思わず進は警官たちの前に出て、頼んだ。
「えっと……その、寛大な承知をお願いします」
ちなみに会話は全て英語である。進も一応パイロットの端くれなので、日常会話程度なら何とかなる。
黒人の警官二人組はにこやかに言った。
「大丈夫。郊外の日本人居住区まで送るだけですよ」
進はホッと息を吐く。処罰がないのなら悪い扱いではないだろう。老人は危険を冒して侵入した都市から何も得るものなく帰らなければならないが、仕方ない。
ここで思い出したように北極星が声を上げる。
「そうそう、その老人にはここに来るまで荷物を持ってもらっていたのだ。そういえば代金を払っていなかったな。代金だ、とっておけ」
北極星は財布からお金を取り出し、老人に握らせた。五ドル紙幣三枚ほどだ。
「ありがとうございます……」
老人は深々と頭を下げ、感謝の意を示してからパトカーに乗った。
警官と老人が去ると、野次馬は解散する。その流れに乗って、進たちも商店街に戻った。商店街を歩きながら、進は北極星に話しかける。
「何とかなってよかったな」
「うむ。根本的な解決にはなっておらぬがな……」
北極星は渋面を作る。西日本が亡命政権の支配下にある限り、先ほどのような光景はなくならない。北極星は九年前の戦争に勝ちきれず、亡命政権の西日本支配を許してしまっていることに責任を感じているのかもしれない。
進は努めて明るく言った。
「俺たちががんばって、西日本をアメリカから取り戻せばいいんだ」
「そうだな……」
北極星は少しだけ笑う。実際、その日は近いのだ。何も気に病むことはない。
○
進と北極星が商店街を歩くのを、見守る影があった。北極星に瓜二つの、青紫色の髪を風に靡かせた少女である。少女はつぶやく。
「もう一人の私はそれで納得しちゃうんだ……?」
この世界の進と出会ったことで、北極星はそう思うようになったのだろう。この世界の進──少女にとっての進が保有している情報はあまりに少ない。進は彼らを叩き潰すことを正義だとは考えていないだろう。
無論、北極星は彼らを警戒しているはずだ。だが、彼らと矛を交える決断はできない。進が乗り気ではないから。そうして北極星は火の粉が降りかかるのを待ち、彼らのシナリオに踊らされる。
少女は細く白い指を唇に当て、嗤った。
「日本が統一されたくらいじゃ、根本的な解決にはならないのよ……。次の戦争が起きるだけ……」
もし亡命政権が日本政府に屈服しても、彼らは中国かロシアあたりに接触して新たな戦争を始めるだけだ。まずは彼らをこの世から消滅させなければならない。
北極星にはできないだろう。だが、自分にはできる。別世界の進──ファウストに託されたから。