第66-2話 憤怒の天使
すべてが薄れゆく。
息を吐いたノエルは、その中に自分の大切な思い出が混ざっているのではないかと感じて手を伸ばそうとするが、その力すら今の彼女には残っていなかった。
五感が、力が、体を支える骨までが消えたかのように感じられなくなり、先ほどまでジョーカーに覚えていた怒りの感情すら消えていく。
闇に落ちた吸血鬼に、汚されたテオドールの誇りを回復することは許されないのか。
命の恩人を陥れた憎むべき相手に、怒りを覚えることすら許されないのか。
ノエルは自分の無力さに絶望し、しかしそれすら薄れて消えていく。
その恐怖から逃れようと目を閉じた時、ノエルの耳には彼女と同じように絶望に包まれた声が入ってきていた。
「治療は君の為じゃない。ましてや僕の身勝手な贖罪の為でも無い。ここから離れた場所に、君の仲間に吸血された、スタニスラスと言う一人の人間がいる。僕は彼を助ける為に……君に破門をしてもらう為に……ここに来たんだ」
その瞬間、ノエルの心に光が差した。
闇に落ち、穢れに堕ちた自分にも、まだ出来ることがあったのだと気付いたのだ。
――いや――
最初からそれが彼女のそばに在ったのではない。
それを持ってきてくれたのは、かつて憎しみの目で見ていた存在。
目の前で必死に吸血鬼である自分を治療している、天使という存在だった。
(破門……その人はまだ堕ちていない……なら教会に狙われることも……)
ノエルは抜け行く力を必死に押し留め、残された力を内に集わせ、そして放つ。
(あ……)
その瞬間、体の芯から何かがずるりと引き抜かれたような感触を感じたノエルは、指一本すら動かせなくなってしまっていた。
だが満足だった。
抜けてしまった所には、彼女がまだテスタ村に住んで居た頃には、まだ人間であった頃には日常的なものだった、じんわりとした温かさがかすかに感じられたのだから。
「しっかりしろノエル!」
ノエルに破門を頼むこと、それもまた自分の身勝手な贖罪であるとアルバトールは気付きながらも、必死に法術でノエルの回復をする。
そして彼は、弱々しい声でノエルが呟くのを聞いた。
「大丈夫です……その方はたった今、元の人間に戻りました……破門……まだ残っていた力で……」
アルバトールはその言葉に救われ、より一層の力を込めて彼女に力を注いでいった。
この世に満ちる存在、聖なる者であろうとも、邪なる者であろうとも、セテルニウスの下に生きるすべての者に分け隔てなく癒しの力を注ぐ、慈悲深き偉大なる存在。
聖霊の御力を。
だが今のノエルには、それすら届かなかった。
「バヤール! 法術を! 癒しの力を!」
「ですが我が主、私まで加われば聖霊の偏在が起き、却って回復が出来なくなる恐れがございます」
「くっ……なんで……なんで主は……」
アルバトールはその瞬間、心の中に燃えるようなざわめきを感じた。
だが今の彼に、それについて深く考える時間は無かった。
なぜなら目の前には生命を失いかけている少女がいて、そして彼はその少女をどうしても助けたかったのだ。
「大丈夫です……だいぶ楽になってきました……から……」
しかし既にノエルの真っ白な肌は透けるようなものとなっており、その内に生命の欠片すら残っていないように見えた。
「私は、ずっと考えていたことがありました……自分が考えなしに行った吸血鬼への転生で、かえって皆に迷惑をかけてしまったかも……いえ、かけてしまったことを……その為に皆は村を捨て、更に途中で私たちを逃がす為に、幼馴染を犠牲にして……」
「喋らない方がいい、ノエル」
「そして……つい先ほどは……信じていた教会を裏切ってまで私たちを守ろうと……してくれた騎士の方々も犠牲に……私の人生は……周囲の人をすべて……不幸にするだけのもの……」
アルバトールは眼の奥に何か燃え盛る炎のような物を感じながらも精神を集中させ、聖霊の御力を無駄にしないように、こよりのように寄り合わせて、ノエルの体の中心に染み渡らせようとする。
しかしその力は行きつく場所を見つけることができず、次々と再び聖霊の御許へと還っていった。
「大丈夫だ。きっと良くなる。君から生命が失われたのなら、僕がその生命を補ってみせる。だからもう……」
そこで彼の喉はひきつり、何も言えなくなってしまう。
「もう……疲れ……でも……私……死んだら……村の皆さんも……テオドール公……亡くなら……れて……生きる意味……皆……疲れ……」
「もう喋るな! 俺がすべてを背負う! 君の罪を! 村人の呪いも! 全部だ! だから……生きるんだノエル!」
アルバトールが叫ぶと同時に、ノエルは先ほど体の芯に感じた温かさが自分の頬を伝うのを感じる。
その温かさに力を得たのか、先ほどまで殆ど表情が見られなかったノエルは柔らかな笑顔を作り上げ、そしてアルバトールにはっきりとした言葉を告げる。
それはこれから口にすることが、彼に告げる最後の言葉になると悟ったノエルが、力を振り絞った結果だった。
「ありがとう。貴方がここに来てくれたから、貴方が助けを求めてくれたから、私は人生の最後に、一人の人を本当の意味で助けることが出来た。ありがとう、私の人生に意味をくれた天使。貴方に会えて……最後に会えた天使が貴方で……本当に良かっ……」
そしてノエルは純白の灰に姿を変え、掴もうとしたアルバトールの手の間をすり抜けて、虚空に還って行く。
いつの間にか泣いていたアルバトールの涙を拭うかのように、その頬を撫でた後で。
[ふむ、法術による回復を受けていたとは言え、随分と粘ったものだ。これが吸血鬼に身を堕とした者の執念なのかもしれんな]
伸ばした手を茫然と見つめるアルバトールに、感心するような声が掛けられる。
「ジョーカー……」
堕天使ジョーカーは静かにそこに佇んでいた。
何かを待つように。
「……炎の森」
アルバトールは呟いた。
ただそこに居る堕天使を滅する為に。
彼の言葉に応じ、扉の向こうに集いし精霊たちは物理界に姿を現し、力をアルバトールのイメージ通りに展開した結果、その中心にいたジョーカーはたちまちにして無数の炎の柱に包まれる。
[んんん~ん? 八つ当~たりかね~アルバトール君。言って~おくが、ノエルが死んだ~のは君たちがオーブを割ったか~らであ~る]
仮面を再び反転させ、アルバトールをからかう様な口調で攻め立ててくるジョーカーに対し、アルバトールは返答しなかった。
ジョーカーは軽く身を乗り出し、反応が見られない目の前の天使を見つめる。
(ほうほう、これは思ったより簡単に堕ちそうであるな。奴の性格なら、今ごろ自らの落ち度を責め立てている筈。それに加えてこの炎の術の威力……間違いなく憤怒に駆られているのである。後もう一押しすれば簡単に奴は堕天するであろう)
[自~分たちがオーブを割ってお~きながら、自分たちの~罪を認めずに我輩を滅~ぼしてウサ晴ら~しとは、天使はやはり~我々と同じ、非道な輩なのであ~る]
アルバトールはやはり答えない。
しかしその怒りの感情は膨れ上がり、それに連れて術の威力が見る間に向上し、ジョーカーはその威力を抑えることができなくなりつつあった。
(むむ、これは危険なのである。ここまで憤怒の感情が膨れ上がれば、奴の堕天は間違いないところなのであるし……仕方あるまい。最後まで見ていたかった所だが、ここはひとまず離脱をするのである)
ジョーカーは唯一炎に包まれていない頭上を見上げ、そこから逃げ出そうとする。
だがそれは叶わなかった。
何故ならアルバトールが繰り出した次の術により、彼の頭上はあっさりと防がれてしまっていたのだ。
「炎の葉」
(こ、これは……どう言うことであるか!?)
ついにジョーカーは炎の柱に周囲を囲まれ、頭上は柱から噴き出した無数に舞う炎――葉のような、羽のような、もしくは眼のような――数々の紅蓮で塞がれていた。
[馬鹿な!? なぜ憤怒に身を任せながら貴様は堕天せぬのであるか! なぜ貴様は……貴様……貴様の中には……まさか……]
ジョーカーが見つめる先のアルバトールの目と髪は、その色を転じていた。
それは底知れぬ深い赤。
その背には聖天術の使用に伴う天使の羽根ではなく、孔雀の羽根の様な無数の眼を持つ翼が、一目では数え切れない程に拡がっていた。
[炎の柱……無数に飛び交う羽と眼……まさか……憤怒の天使メタトロンか!?]
逃げ切れないと見たジョーカーはすべての力を振り絞り、アルバトールに突っ込む。
「炎の枝」
その途端ジョーカーの体は炎の柱より突き出でた枝のような形をした無数の炎に絡めとられ、突きぬかれ、空中に固定されてしまっていた。
[ぐううぅぅぅ……おのれ……オノレェェェェェエエエ!!]
「炎の根」
その声と共に地面より巨大な槍のような炎が噴き上がり、串刺しにされたジョーカーの体は炎に包まれる。
苦し紛れに何らかの術を放つも、それは無数に伸びた炎の枝と空に舞う炎の葉によって防がれ、アルバトールには届かなかった。
「炎による結界と浄化……貴様が如何に不死身を誇ろうとも、この術の前では滅びを免れ得ぬ」
深き赤を纏ったアルバトールはそう呟き、完全に術の対象が消失したことを確認すると術を解いて後ろを振り向き、そこで片手片足を地につき、臣下の礼をとっていたバヤールにねぎらいの言葉をかける。
「護衛ご苦労。久しぶりだなバヤール」
「あのような穢れた存在に御力を行使なされる状況を招いてしまったこと、このバヤール深くお詫び申し上げます」
「これもまた我が使命。気にすることは無い」
そうバヤールに告げた直後にアルバトールの眼と髪の色は元に戻り、一変した周囲の状況に軽く驚いた様子を見せる。
「これは一体……バヤール、何があったのか……いや、いい。この話をするのは故郷のフォルセールに戻ってからにしよう」
「承知いたしました、我が主」
立ち上がるバヤールからアルバトールは視線を外すと、礼拝堂が建っていた場所に佇む十字架を見つめる。
いつの間にか日はかなり傾いており、その為にノエルが幽閉されていた、十字架の西に位置する部屋は彼にとって逆光になり、中は良く見えないものとなっていた。
「ありがとう……なんて言われるようなことは……できなかったのにな……」
アルバトールは呟きながら、ノエルが居た部屋に近づく。
ジョーカーの障壁によって完全な消滅を免れていた部屋の一部には、崩落した屋根から一筋の光が差し込んでおり、そこには紫色の花がひっそりと咲いていた。
「スミレか……花言葉は誠実……小さな幸せ……ノエルはそれすら手にすることを赦されなかった……」
アルバトールはノエルが最後に見せた顔を思い出し、全身を包んだ激情に駆られた彼は思わずスミレの近くの地面に拳を叩きつける。
「我が主、ここで時間を無駄にしている訳にはまいりません。天魔大戦は未だ終わったわけではないのです。それに随分と顔も汚れております。どこかで顔を洗い、ベルトラム殿と合流を」
「うん……そうだね」
アルバトールは地面を殴りつけた為に血が流れ始めていた右手を使い、頬についていた汚れを拭い取る。
その汚れに彼の血が着いた瞬間――
「……なんだ!?」
――光は射し込んだ。
眩き光は、崩壊した屋根から射し込む物だけではなかった。
礼拝堂に残っていた十字架が、いつの間にか周囲の光を集め光り輝き、みるみるうちに巨大に成長し、周囲を柔らかな光で満たしていく。
――そして――
アルバトールの拳から流れる赤き血が、頬に残りしノエルの灰に力を宿らせ。
力を宿した灰より出でし緑の意思が渦を巻き、散華せし白き灰を呼び寄せる。
呼び寄せられ、集った灰は、小麦の穂のように黄金色に輝き始め。
最後に天使の……その青き涙によって全てを融合させた。
光の園と化したテスタ村で、かつてここに住んでいた吸血鬼ノエルは。
いや、かつて吸血鬼であった少女ノエルは再びこの世に、アルバトールの腕の中に姿を現していた。
「ノエル!」
「え、えっと……なんで私……キャアア!」
自分が全裸であることに気付いたノエルはアルバトールを殴り飛ばし、両手で体を隠そうとする。
「やれやれ、我が主を殴り飛ばすとは無礼な奴だ。まぁ今回は見逃してやるがな」
その様子を見たバヤールは呆れたように呟き、自らが着ていた上着を脱ぐとノエルに手渡す。
巨大な体躯を持つ彼女の上着は、ノエルが着るとその膝辺りまで覆う物となり、十分とは言えないまでも、年頃の少女の体の殆どを隠すことに成功していた。
「では戻りますか、我が主」
バヤールは上着を脱いで露わとなった筋肉の鎧を周囲に見せ付けた後、姿を馬のものへと戻していななきを上げる。
「ああ、戻ろう! アルストリア騎士団の皆の所へ!」
明るい顔で宣言すると、アルバトールは戸惑うノエルの手を取り、馬上へ彼女を引き上げた。
「大丈夫。君は僕の命に代えても守ってみせる。それじゃあ少し飛ばすから、しっかり捕まっていてね」
「は、はいっ!」
ノエルに後ろからしっかりと抱きしめられたアルバトールは、女性を後ろに乗せることが初めてだったことに気付き、背中に一筋の冷や汗を流しつつアルストリア騎士団の本陣へ戻っていく。
その途中。
「あれは……? もしかしてスタニックさんたち!?」
「ノエル! 天使殿!」
そしてノエルが人として復活したことにより、かつて神殿騎士団として生きていた彼らも、ノエルたちを守る為に吸血鬼として生きることを決めた彼らも。
スタニック、アルノー、エミリアンの三人も復活し、この世に戻ってきていた。
そして。
≪ご、ごめんねバヤール。五人も乗せちゃって……≫
≪お気になさらず我が主。悪いのは吸血鬼の身体能力に任せた移動しかしてこなかった、この横着きわまりない人間共でございます≫
そして今度は本当に、全員を乗せたバヤールはテスタ村を出立したのだった。
憤怒の天使とありますが、実際には憤怒は七つの大罪の一つであって天使の称号には存在しません(多分)
フィクションと言うことでお許しを