第50-2話 感情の狭間
「天使アルバトールと遠ざけられた恨みを、昨日はここぞとばかりにぶつけてくれましたわね……新しい鉱脈の発見に気を取られていたのは迂闊でしたわ」
エレーヌにさんざん絞られた明くる日。
エルザはずっしりと重そうな皮袋を持ち、フォルセール城に登城する。
彼女を迎えに出る役目は決まってベルトラムだったが、彼はアルストリアに旅立って不在の為、出てきたのはメイドのアリアだった。
「あらあら、昨日教会に来ていたのに、私に挨拶にも来なかったアリアではありませんか。御機嫌よう」
「いつもに増してご機嫌麗しゅうございます司祭様。ジュリエンヌ様は自室でお待ちでございます」
エルザの嫌味に対し、さほどの動揺も見せず部屋へ案内するアリアを見てエルザは不満気に口を尖らせ、何かを思いついたのか更に追い討ちをかける。
「メガネは本当に便利ですわね。私に対する敵意を隠すにも、特定の男性への好意を隠すにも、ね」
しかしその軽口に対する反応は、エルザの予想を超えて過剰であった。
背中越しにも判る動揺をエルザに見せたアリアはそのまま立ち止まってしまい。
「あ、あら……? アリ……ア?」
その様子を不審に思ったエルザが横に回りこみ、覗き込んだアリアの顔は歪んでおり、そこに幾筋もの涙が流れ落ちていた。
「……アリア、フォルセール教会の司祭として話があります。後で時間はとれますか?」
アリアが肩を震わせながら黙って頷くのを確認すると、エルザは素直に彼女に謝罪をし、再び二人は歩き出す。
そしてジュリエンヌの部屋に入る前に、エルザは一つの頼みを口にした。
「すぐに戻りますので、こちらで待っていてもらえますか?」
頷いたアリアの顔を見たエルザは、五分程度でジュリエンヌの部屋から顔を出し、手招きをする。
同時にジュリエンヌが扉の隙間から姿を現し、アリアに笑顔を向けた後に謁見室に行くといって歩き出す。
アリアはすぐさまジュリエンヌの後を追おうとしたのだが、エルザに止められてそのままジュリエンヌの部屋の中へ招き入れられていった。
「二人きりで話せる場所がここしか思いつきませんでしたので、思い切ってジュリエンヌ様に訳を話したところ、快くお借りすることが出来ましたわ。話す途中で随分とおかんむりにさせてしまいましたが」
ジュリエンヌが自分の好意に気付いていなかったらどうするつもりだったのだ、と言わんばかりにアリアは非難の目を向けるが、その視線に気付いたエルザはあっさりとアリアに一つの指摘をしていた。
「おそらく……気づいていない、気付かれていないと思っているのは貴女と天使アルバトールくらいではありませんか?」
アリアはその指摘に、再び激しい動揺を見せる。
「わかりますか……?」
揺れるアリアの瞳をエルザがまっすぐに見つめ、ゆっくりと頷くと、アリアは再びその瞳に涙を浮かべていた。
そして胸に秘めた思いをエルザに打ち明けていき――
――アリアの話を聞き終えたエルザは、静かに口を開く。
「なるほど、貴女の悩みは判りました。ですが――」
エルザはそこで言葉を区切り、アリアの視線を自分の顔へと誘う。
「なぜ私と話す時のように、お二人にその想いを伝えないのですか? 私に対してあれほど遠慮なくずけずけと物を言う人間など、そうは居ませんよ?」
エルザは機械的に答える。
感情を込めず、アリアの感情に判断を左右されまいと、人の想いに自らの存在を左右されまいと、すべての自分の感情に杭を刺すかの如く、エルザは静かに問うた。
「司祭様は昔から知ってますから、話しやすいだけです……お二人に話さないのは、私のような孤児……にも優しくしてくれるアルバトール様……アデライード様……両想いのお二人……思いを遂げられたほうがいいから……」
「なぜ貴女の想いを無視するほうが、お二人にとってつらいと思わないのですか」
膝を握り締めている両手に更に力を入れたアリアの掌へ、エルザは優しく自らの両手を重ねてゆっくりと唇を開いた。
「貴女はお二人に遠慮しているのではなく、自分の告白がお二人の優しさに付けこむことになりはしないか、また自分の告白が人の弱みに付け込む卑怯な物と認めることを、恐れているだけなのではありませんか?」
途端にアリアはそれまでにない激しい反応をエルザに見せ、そして動きを止めた。
「人は人を愛し、子を為し、種族の命を愛を以って受け継いでいく。貴女がやろうとしていることは愛の放棄です。隣人を尊ぶことも確かに重要ですが、だからと言って自らを押し殺していいと言った物ではありませんよ」
その言葉を聞いたアリアはいきなり顔を上げてエルザの手を振り払い、彼女の顔を睨んだ後に叫びを上げる。
「司祭様に、何が判るんですか!?」
彼女の心から溢れ出す感情は自己嫌悪から怒りへと代わり、告解は詰問へと変貌していた。
「私が告白しても、アルバ様とアデライード様を困らせるだけです!」
「アリア」
「何ですか!」
「それは貴女が、お二人を信用していないからです」
「……!」
アリアはエルザの指摘を聞き、アデライードがフォルセールに来てから彼女に見せた素顔、そして心の奥底をも見せてくれたことを思い出す。
祖父であるテオドールの裏切りを聞いた時の動転した顔。
その後の周囲の関心の目に耐える悲しそうな顔。
自分の世話をしてくれるアリアに心を許し、初めて見せてくれた――笑顔。
「……アデライード様は私を友人と、卑しい出自の私を友人と言ってくれました。私を友人と言ってくれた、私に身に余る光栄を授けてくれたあの方に御恩を返したい。だからこそ自分がどうしたいか、どうすべきかが全然判らなくて困ってるんです」
口を引き結び、力強く言ったアリアの顔に感じ入る物があったのか、エルザは優しく微笑むとゆっくりと語りかける。
「では、まずアデライード様に自分の気持ちをお伝えなさい」
だがエルザの言った唐突な内容に、アリアは驚いて何も言えずに押し黙ってしまう。
「そして、その後に二人で教会へ来なさい。今のまま一人で抱え込むより、二人で共有した方がいいでしょう」
「でも……」
「大丈夫です。今よりきっと良くなると、私が保証いたしますわ。もたもたしていると、エレーヌ様が何をしでかすか判ったものではありませんわよ」
「判りました」
煽り立てるようなエルザの説得にアリアは即答し、お辞儀をするとジュリエンヌの部屋を出て行く。
そしてその場に一人残されたエルザはしばらく天井を見つめ、しばらく後にアリアと同じように部屋を出ていった。
フードを深く被り、周囲に自らの顔を見せないようにうつむき、表情を翳らせ、苦悩、苦悶、苦痛に歯を食いしばり、廊下を歩くエルザ。
純粋な天使であるエルザ――ミカエル――にとって、それはどれほどの痛みなのか、何に起因する痛みなのか。
そして誰にも弱音を吐かないままに教会へ戻り、誰にも顔を合わせないままに自室に篭ったエルザは、心配するラファエラに仕事を任せ、寝具に倒れこむ。
「今回は少々、深入りをしすぎましたわ……ね……」
日頃より軽口を叩き、人の関係に、人の感情に深入りをしないようにしていたエルザでも、流石に今回ばかりは介入しない訳にはいかなかった。
――安定した存在であるが故に持つことが出来た、人の複雑な感情に対する介入――
それは、一つの揺るがぬ価値観の元に下される主の命、正義の名の下に動くことが主である天使たちにはほぼ味わうことのない、体が引き裂かれるような、エルザの存在の根底を揺るがされる苦痛をもたらす物だった。
「網を……アリア、王女様……来た……ら………」
そう独り言を呟くと、エルザはそのまま深い眠りについた。