第6話 晩餐の風景
「あらあら」
先に広間に入ったエルザの声に導かれるように、続けて入ったアルバトールは中の風景に視線を奪われる。
そこには簡素ではあるものの、趣向を凝らした飾りつけが並んでいた。
花弁は小さいが、優しい色合いを持つ春の野草。
周囲には白い造花が、やや弱いとも思えるその野草を支えるように、盛り立てるように配されている。
他にも訪れた人すべてが親近感を覚えずにはいられない、動物を模して折られた紙などなど。
テーブルの上に並ぶそれらはまるで、人を持て成すのに重要なのは懸けた金額の多さではなく、掛けた時間の長さなのだと主張しているかのようであった。
「さすがはベルトラム、と言ったところですわね」
誰もが認めざるを得ない。
そのようにも聞こえるエルザの感嘆の声にアルバトールも同意し、今更ながらにベルトラムの手腕が素晴らしいものであることを認識する。
そして彼が様々な飾りつけに視線を向けつつ、自分に用意された席へと座ってから数分後。
扉から両親である母ジュリエンヌ、そして父フィリップが広間に入ってきたため、アルバトールは背筋を伸ばし、その両名を迎えた。
フォルセールの現領主、フィリップ=トール=フォルセール侯爵。
年齢はすでに五十を超え、さすがに肉体の衰えは隠しきれない。
しかし背筋をまっすぐに伸ばして歩き、重々しく椅子に座るその姿は、領主に相応しい威厳そのものである。
その統治もまた彼の背筋と同じように真っ直ぐなもので、私腹を肥やすことはなく、それどころか私財を投じて堤防の強化などの公共工事を行うことすらあった。
そんな彼に対する領民の信頼は篤いものであり、次のようなエピソードがある。
以前フォルセールの近くに山賊が住み着き、フィリップを悩ませていたことがあった。
それを騎士団が何とか解決した後、すぐに自警団が結成され、民が自主的にフォルセールの治安を守り始めたのである。
少しでもフィリップの手助けがしたい、そんな思いがひしひしと伝わる逸話は、吟遊詩人によって王国の至るところに伝えられていた。
だがそれだけに他の貴族たちには疎んじられることも多く、余計な敵を作らぬためにもこれ以上の領地と身分を欲してはならぬ、と言うのが代々の教えだった。
そして先ほど化粧を直しに自室へ戻ったジュリエンヌも、フィリップの後にちょこまかと着き従って席に着く。
元より化粧が薄いせいか、泣く前とまったく変わっていないように見えるが、その口にはうっすらと紅を差しており。
更にアクセントとして、唇の端にビスケットと見られる食べかすをつけていた。
(母上……)
アルバトールは頭をかかえ、ジュリエンヌの脇に控えるアリアを恨めしく見つめる。
しかしその視線に気づいたアリアは、アルバトールの方へ冷徹な目を一瞬向けただけで、それ以上の反応を示すことはなかった。
(それほど母上の悲しみは深かった、と言う事か。これは夕食が終わり次第、すぐに母上に謝った方が良さそうだ)
アルバトールは深呼吸をして気を取り直し、父であるフィリップが簡単な挨拶を終え、食事の前の祈りをエルザに頼むのを横目で見る。
そして先ほどアリアが彼の目の前に置いた前菜であるニンジンのポタージュ、ピーマンのマリネを見て、食欲ではなく緊張のあまりに唾を呑んだ。
前菜なので、一人で食べきれない量と言うわけではない。
だがその分量はどう見ても、三人分はあった。
(うん、横から見たら器とオードブルが小さく感じられるな。これは新発見だ)
情けない事を考えながら現実逃避を図るアルバトールに、アリアから今日の献立についての説明が始まる。
「今日までかかった長い任務の疲れを癒すため、また明日からの激務に備えて栄養をつけていただかねばならない。そう思いましてほんの少しだけ量を増しております」
「なるほど、僕の健康まで気遣ってくれるとはさすがだね。ありがたくいただくよ」
(泣きたい)
食べる前から挫けそうになるアルバトール。
だが父の教え――強敵に立ち向かう事こそ、騎士の本分である――を思い出した彼は目を閉じ、呼吸を整え、目の前に立ちはだかる現実と言う困難に立ち向かうのだった。
(まずはポタージュだ!)
アルバトールはスープを陣形に見立て、中心のニンジンを避けて、スープから食べることを決定する。
(スープなら他の素材も混成してるし、少しはその風味が和らいでいるはず! ……あれ?)
しかし、覚悟を決めて口に含んだ味わいは、彼の記憶とは違う優しいものだった。
その味に驚いた彼は、そのまま皿の中央にある小さな正方形のニンジンを慎重に掬いあげ、口に運ぶ。
昔エルザと食したニンジンと違い、臭みもエグみも殆ど感じられない。
それどころか、春を感じさせる柔らかな日差しにも似た、全身を包むほんのりとした甘さと、淡い香りが彼の口の中を満たしていく。
(いつも口にしているニンジンより赤みがかっているが……種類が違うのか?)
彼は知らなかったが、このニンジンは東方で主に作られているニンジンであり、このフォルセール地方では入手することが難しい種のものであった。
(ではこちらのピーマンも?)
アルバトールは、ポタージュスープの脇に置かれたピーマンのマリネを取り、口の中に放り込む。
そして即座に口に広がったその味わいに、彼は驚嘆した。
(グワアアアアアアアアッ!?)
油断だった。
ニンジンはピーマンを丸ごと口に含ませるための罠。
本命はこのピーマンだったのだ。
更にこのピーマンを食した事で、先ほどまでずっと味わっていたい、とまで感じていたニンジンのポタージュですら、このピーマンのマリネの引き立て役であったのか、とすら思える味わいに変化している。
アルバトールはニンジンという囮に釣られ、知らず知らずの内に何者かが仕組んだピーマンという罠にはまっていたのだ。
(ぐ……! 舌どころか、臓腑まで侵食してくる苦味……! 頭の頂点まで染みとおる臭みは、酢やレモン汁の香りで消されるどころか、相乗効果で更に破壊力を増している……! この味わいはまさか!)
その味は、昔を思い出して懐かしむ類のものでは無かった。
例えるなら、繊細な感情を持つ子供の時期特有の、何の変哲もない物にも恐怖を感じる、未知のモノに対する恐れ。
(間違いない! これはあの味! 一時は緑色の物を見るだけで、恐怖を覚えるようになったあのマリネ……!)
そう、それはアルバトールが幼少の頃、エルザに付いて回っていた時に何度も味わう羽目になり、彼の心的外傷後ストレス障害の原因となったマリネそのものであった。
「あら、このマリネは私が持ってきたものですの?」
「その通りです。アルバ様が幼少の頃によく召し上がっていたと聞きましたもので、急遽お出しする事といたしました」
何気なく発したエルザの質問に、アリアが眼鏡を光らせつつ無表情で答える。
「アルバ様が騎士となられてから、城にお戻りになることがめっきり減ったもので、昔を思い出す懐かしい味をお出しすれば、少しご家族様のことも気にかけてくださるようになるのではないか、と思いまして」
(はい、今度からマメに戻るようにします)
アルバトールは反省し、濁った視線を目の前の敵である緑に向ける。
「あらあら、私のような者が作った料理を領主様にお出しするなんて、気恥ずかしいですわね」
「いえ、司祭様が作ってくださる手料理は、孤児院の子供たちにとって天から差し込んだ光に等しいものでした」
「あらあら」
いい話のはずなのに、なぜか緊張感がエルザとアリアの間に漂う。
「ねーねー、アリアちゃん、このニンジンって凄く美味しいんだけど何でー?」
それに気付いていないのか、恐れげもなくジュリエンヌの発した明るい質問に重い雰囲気は吹き飛び、アリアはやや表情を柔らかくして質問に答えた。
「はい、そのニンジンは孤児院の皆が、日頃からお世話になっているお二人とアルバ様に是非ともお返しをしたいと言う事で、数年がかりで作ったニンジンでございます」
「あらあら、そういえば何を作っているのか皆に聞いても、秘密としか答えてくれませんでしたわね」
アリアはエルザに軽く頷いた後、ポタージュが入っている皿を見つめた。
「アルバ様がニンジンを好まれないことは、みなさま御存知のことと思います。実は孤児院の者たちが、こちらに収めたニンジンをアルバ様が食されないと聞き、自分達の作ったニンジンに何か問題があるのではないかと、大変不安がっておりまして」
(え)
それを聞いたアルバトールは慌てて濁った目を見開き、ポタージュのニンジンを凝視する。
「それを聞いて何とかしなければと思い、アルバ様にニンジンを食していただくために仕事の合間を縫って四方に手を尽くして調べあげ、ようやくこのニンジンの存在を知ったのですが、それは東方にしか存在しないものでした」
「そうか、息子のためにそこまで……」
フィリップの感嘆の声にアリアが頭を下げ、アルバトールは心の中で頭を抱える。
「ですが、決して安くはないその値段に諦めかけていたところ、それを知った孤児院の子供たちも協力してくれる事になりまして……申し訳ありません、少し涙が」
目の端に手をやるアリアを見て、アルバトールも泣きたくなる。
「懸命に仕事をして得た小遣い銭を、アルバ様のために、と小さな手で差し出してくるその姿に、私も涙せずにはいられませんでした。そしてようやく種を取り寄せ、更に数年の歳月をかけて、やっと今年満足できるものが収穫できたのです」
(……どうしよう、これ残したら、この場にいる人どころか、孤児院の子供たちにも顔向けできない)
アルバトールは完全に退路を断たれていた。
女性陣から放たれる柔らかな光のような雰囲気とは対照的に、彼の目の前はどんよりとした闇そのもの。
(スキュラとカリュブディスの間……か。進むも地獄、退くも地獄……ならば!)
覚悟を決め、マリネの味を洗い流すべく勢いよくアルバトールは水を口に含んで激しく咳込む。
なぜなら普段なら心地よく口の中を通っていく水ですら、マリネが蝕む領域を全身へ拡げていく触媒にしかならなかったのだ。
(万策尽きたか……)
彼は天を仰ぎ、それでも何らかの手立てが無いか周囲を見渡し、そしてベルトラムと目が合う。
瞬間、アルバトールはベルトラムに向かって助けを求めるように手を伸ばしかけるが、厳しく自分を見返してくるその眼差しに、先ほどの忠告を思い出して手を止める。
――戦場では、自分以外の誰にも責任を被せる事はできない――
(なるほど……この状況が僕の不注意で招いたものである以上、責任を取って一人で解決するしかないと言うことか)
偶然にも、食事前にベルトラムがアルバトールに授けた忠告は、上級魔物と彼が対峙した時にエルザが言った事と似ていた。
――孤立した時はどうするのか……一人で対峙する事になった時に、その経験は必要なものとなるでしょう――
(まぁ経験を積む前に死んでいた訳だけど)
彼は深呼吸を幾度か繰り返し、覚悟を決め、ピーマンのマリネを口に含む。
しかしその瞬間に硬直し、動きを止めたアルバトールは、少し涙ぐんでベルトラムへ子供のような顔を向けた。
その様子を見たベルトラムが肩をすくめ、動き出そうとしたところで、アルバトールはようやく安堵の息をつく。
だがベルトラムが踏み出そうとした足を止め、怪訝そうな表情を浮かべたのを見て、何となく背後を振り返ると。
「……アルバ様、何か食事に不都合でもございましたでしょうか」
ベルトラムが足を止めた原因、無言の圧力を発するアリアを見て、アルバトールも思考が止まるが、さすがにこの時ばかりはアルバトールも必死であった。
迷うことなく彼はアリアに苦言を呈し、自らの保身を図る。
「マリネなんだけど、ちょっと臭いがきつくないかな~なんて」
弱気な口調で。
とにかく彼は、非難してはいけないニンジンを避け、ピーマンを攻撃したのだった。
しかしこの場合は、その作成者である女性がすぐ隣に座っている事も考慮すべきであっただろう。
「あらあら、言いたい事があるならはっきりとおっしゃればいいのに。私の手料理がお気に召さない、そう言う事ですわね?」
「いや、食べ合わせが良くなかったのかなー……みたいな?」
「アルバ様。何か御不満があるならハッキリとおっしゃってください。御指摘くださらなければ、どこを直していいかもわかりません」
「え? え?」
アルバトールは、神に助けを求めたい気分になる。
エルザの言うとおり自分が本当に天使になっているのであれば、天を仰いで祈りを捧げた途端、光が降り注いで何らかの救済が得られるかもしれない。
もちろん現実にはそう言う事は起きないので、自らの力でこの場を切り抜けなければならないのだった。
「あらあら、煮え切らないお方ですわね。アリア、ちょっとアルバトール卿の背後にお回りなさい」
「回りました」
(え? いつの間に……って、この体勢はもしや、挟み撃ち!?)
音も無く自分の背後に回りこんだアリアに、アルバトールは慌てて新しい水を持ってくるように頼もうとするが、もはや手遅れであった。
「では、私の真心を込めたマリネを召し上がれ」
眼前に差し伸べられたマリネから逃れようと身をよじるアルバトール。
しかし背後に回ったアリアがガッチリと頭を固定して動けない事が分かった彼は、全てを受け入れる気になって全身から力を抜いた。
(ああ、世界はこんなにも美しい……というか、しつけだからって言っても、メイドが主人の頭をつかんでいいんだろうか)
などと考えている彼の耳に、救いの言葉、救いの手は差し伸べられた。
「アリアちゃん、このマリネもう少し欲しいから持ってきてくれる?」
(イイヤッフォゥゥゥウ! さすが母上!)
ジュリエンヌがマリネの追加を頼んだのを聞き、アルバトールは神と母親に感謝の言葉を捧げる。
これが天の助け、そう思って不覚にも涙が零れ落ちそうになった瞬間。
「ではアルバ様がこのマリネを食された後にすぐにお持ちいたします」
「だそうですわ。さあさあ、早く食べないとお母上がマリネを食べられませんわよ」
(おいィ!?)
やはり神はいなかった。
よって直後に最後の抵抗をするべく、再びアルバトールはもがき始める。
「食事中に暴れることはマナーに反します。御観念を」
「二対一とは卑怯な!」
しかし、エルザの持ったピーマンのマリネが口の中に入ろうとした瞬間、彼は不思議な光景を目にしていた。
(ん……? エルザ司祭の掌から光がマリネに……?)
フォークを持ったエルザの掌から細かい光の粒が光がマリネに放たれており、その光が当たったマリネは淡い金色の光に包まれている。
不思議に思った彼が、暴れる振りをしながらその光を遮ると、マリネの金色の光も失われ、通常の緑色に戻るのだった。
(ひょっとしてこれが原因……か? そう言えばエルザ司祭の手料理を食べるようになってから、ニンジンやピーマンが苦手になったような)
何しろ幼い頃であるので定かではないが、試してみる価値はあった。
(問題は、この金色に光るものが、どちらの結果を生み出すかだが)
普通に考えるなら、先ほどマリネを口に入れた時はエルザも食事をしており、自分にちょっかいを出す時間は無かったはずである。
よってこの光るマリネを食べてみる、と言うのが選択肢では一番上に来るだろう。
しかし日頃のエルザの行動や先ほどの言動を思い出した彼は、そのマリネにおいそれと手を出す気にはなれなかった。
(と、なると)
一計を思いついた彼は、エルザの掌とマリネとの間に自らの掌を置いて光を遮り、それからエルザの顔を見つめる。
(ふむ)
そして体を椅子に預け、エルザが手ずから食べさせようとするマリネを口に含んだ。
(これは……)
思い出の中にあるピーマンとは違う、少し刺激的だが品のいいハーブのような爽やかな香りが、次のメインディッシュのために口の中を洗い流していく。
「……美味しいです」
そしてアルバトールは体の中で、何かが変わっていくのも感じていた。
それは不安をもたらすものではなく、世界との交わりが少し深まったと感じるものであり、やすらぎをもたらすものだった。
「お粗末様でした」
エルザが笑顔で返し、自分の席へ戻っていく。
気づけばアリアは部屋の隅で待機しており、フィリップとジュリエンヌは済ました顔で、前菜であるポタージュとマリネを食べ終わっていた。
(夢……なわけはないか)
今の出来事が、夢で済ませて良いものではないことをアルバトールは直感的に悟る。
今のやりとりは、天使としてとても大事なことに思えたのだ。
(聖別ですわ。多少形式は違いますが)
いきなり心に響いたその言葉に、アルバトールは慌てて周囲を見渡し、そして隣のエルザと目が合う。
(貴方の味覚は、既に人とは異なる物へと変質しつつあるようです。ですが今日の晩餐は私がついているので御心配なく)
(……なるほど、つまりこれが人と共に生きることは出来ても、交わる事はない、と言うことですか)
その問いに対して答えは返ってこなかった。
なぜかと言うと、広間の扉の向こうから蓋がされたメインディッシュが運ばれてきた以外にも、甘い匂いが厨房の方から漂ってきたからである。
ふとベルトラムの方を見ると、彼もまたアルバトールの視線に気づいたようであったが、待機の姿勢のまま動くことは無かった。
(さて、今日のメインディッシュはなにかな)
気分を切り替え、アルバトールは蓋の中のメインディッシュについて思いをきたすが、彼はついにそれを口に出来なかった。
何かを知らせる軽い地響きがしたしばらく後に、城内で騒動が起きたとの急報が入ってきたのである。