第45-1話 権利
無限に広がる蒼穹。
[やれやれ、何で俺の周りにはお人よしばっか集まってくるのかねぇ]
[自分の顔を鏡で見れば、少しは理由が判るかもしれんの]
その広大な大空と比較すれば、矮小と言うも愚かな二つの影が、輪郭を空の青に溶け込ませるほどに高い場所を、たわいない会話をしながら飛んでいる。
影の片方は、先ほどから愚痴をもう片方の影へこぼしながら飛んでおり、もう片方の影と言えば、その愚痴に対して皮肉を返すことで軽くあしらっていた。
[……どう言う意味だよ]
[そのままじゃ。いつものように得意な曲解でお主好みの意味に変えてもよいがな]
[俺はいつだって素直で正直者さ]
青い髪を風になびかせている青年のいかにも軽薄そうな返答に対し、なまずのような長いひげを風になびかせている老人が鼻を鳴らして応じる。
[ふん、ではワシもその正直さを見習って、今からあの若い天使に言ってくるかの]
[あ? まだ何か話すことがあんのかよヤム=ナハル翁。年をとると同じ話を何度でも繰り返すって言うガッ!?]
[守備兵に撃ったヤグルシを無効化させるため、わざと広範囲に発動させてワシを無理やり巻き込んだ間抜けが居たこと、聖天術を撃って力尽きた天使への止めを躊躇った結果、ワシが割って入る時間を作ってしまったお人よしが居たこと、などじゃの]
なぜか後頭部を抑えながら飛んでいたバアル=ゼブルは、その答えを聞くなり即座にそっぽを向いて誤魔化すが、そこにヤム=ナハルの容赦のない追い討ちの矢が飛ぶ。
[先ほどお主を起こした時、天使に聞かれぬために機転を利かせて耳打ちで済ませてやったワシの慈悲を省みても良いのじゃがの]
[ケッ、どいつもこいつも嫌になってくるぜまったく。お人よしだけで隊列を組んで、地獄の底に向かって行進しやがれ]
[奇遇じゃな、ワシも全くの同意見じゃ]
バアル=ゼブルは途端に口を尖らせ、拗ねた表情となってしまうが、すぐに真顔に戻った彼は、ヤム=ナハルにある質問をした。
[……セーレはどうやってやられた]
[判らん。ワシが判別できたのは槍を持った人間が一瞬で鎧を脱ぎ、槍を天に向けて突き上げたところまでじゃ]
[それほど戦闘に長けていないとは言え、あいつは仮にも上位魔神の一人だ。天使の付き添いに選ばれるほどの力を持っていようが、魔力を付与された槍や鎧を装備していようが、ただの人間が……鎧を脱いだだぁ!?]
ヤム=ナハルの説明を聞きながら、セーレの敗因を独り言で分析していたバアル=ゼブルは、その矢先に老人から告げられた事実に驚愕の声をあげた。
[ワシの目が衰えてなければ、の話じゃ。この目で見たワシ自身すら信じられんがな]
[ああ、もうお前さんも年だからな。神でも耄碌したら目が悪くなるのかもしれねえ]
…………。
[そして人間が槍を天に突き上げた直後、一瞬にして数え切れぬ程の結界が張り巡らされ、人間とセーレのやりとりがまったく知覚出来なくなったのじゃ]
[鎧を脱いだとなれば、結界の元になったのは槍か……? 俺が見た時は、確かに奴は人間にしか見えなかったからな]
バアル=ゼブルはたんこぶをさすりつつ、深刻に考えていると見えなくもないほどの深刻な痛みに顔を歪ませ、ヤム=ナハルに自らの私見を告げる。
[判らん……結界が消えた時には、既にセーレの大部分は灰と化していた]
ヤム=ナハルがそう言った後、まるで時間を誰かに止められたかのように二つの影はしばらく黙り込む。
だがその間にも二人の周囲では風を斬る音が絶え間なく後方へ流れており、その激しい音のみがかろうじて二人の時が止まっていない証を立てていた。
[仕方ねえ、天使討伐の任務が失敗した報告も兼ねて、ジョーカーに聞いてみるか]
そのバアル=ゼブルの意見にヤム=ナハルも頷いて同意し、そして頷いた後に、老人は話題に出なかったもう一人について、思い出したようにバアル=ゼブルに尋ねる。
[あの天使の方は考えなくていいのかの?]
[あー、アレね……]
バアル=ゼブルはその質問にすぐには答えず、未だ彼に痛みを訴えてくる自らの左肩に目をやる。
[アレはダメだ]
[ダメかね。お主の有様を見るとそうは思えんが]
[今までの奴らと違って芯が細すぎる。十中八九、中途で心が折れるだろう。下手をすれば精神がガラス細工の如く砕け散る可能性すら秘めている。天使の奴等が何を考えているかは知らんが、残酷なこった]
[お主がそう言うのなら、そうかも知れんな]
ヤム=ナハルはそう言って口を引き結ぶと、視線を前へ向けた。
(じゃが、だからこそ我々が見たことのない境地を切り拓く、恐ろしい存在となるかもしれんぞ、バアル=ゼブル)
そして二つの影は、王都テイレシア方面へ恐ろしいほどの速さで飛んでいった。
――領内におけるすべての権利は領主に帰する――
聖テイレシア王国での基本的な法の一つとして、上記の物がある。
無論これは形式上のことであり、民が得た財の一部などを税として領主に納めることについての理由付け、方便としての法である。
つまり民は領主の財を借り、それを元手に更なる財を得て、その一部を財の借用に対する利子、及び謝礼と言う形で領主に税を納める、と言うわけである。
それ故に、領内の物を民が勝手に私物化することは許されていない。
開拓権の許可を得ないまま、秘密裏に荒地を開拓して田畑とし、そこから得られるすべての収穫を自分の財産とすることは硬く禁じられており、また領内に住む動物を勝手に狩ることも、上記と同じ理由で禁じられている。
もし開拓や狩猟をするなら領主へ申請し、許可を貰って、その許可の下に得た財を正確に申告して、その一部を上納せよ、と言うことになる。
また領内の動物を勝手に私有し、それを元手に益を得ることも許されていない。
それは人の法則外に生きている、神馬と謳われるバヤール馬も例外ではなかった。
アルストリアとベイルギュンティの領境に程近い位置にある、アルストリア領の街の一つファーレンターム。
その街を守備する兵が所有する建物の一室で、アルバトールはアルストリア騎士団の隊長の後頭部を見つめる羽目になっていた。
「……誤解も解けましたし、そろそろ顔を上げられては如何でしょう?」
「しかしこんなことで済ませてしまっては申し訳が立ちませぬ! 主君への使者であるばかりか、フォルセール侯の嫡男でもあらせられ、此度の天使にも選ばれたアルバトール殿に盗っ人の嫌疑をかけるとは、わが不徳の致すばかりでございます!」
「いえ、お役目に忠実であっただけですし、逆にその労をねぎらわねばならないくらいですよ。それより先ほど言ったとおり、僕の任務は時間が何よりも貴重。新しい馬の準備をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「それはもう……しかしもう日も暮れかけておりますし、今宵はこの街に泊まっていかれた方がよろしいかと」
「夜は魔の眷属の時間ですしね。では、お言葉に甘えて」
涼やかな笑いと共に、アルバトールは騎士隊長へ了承の返答をした。
その後、平身低頭の隊長に見送られて建物を出たアルバトールは、宿へ向かう道の途中で今日一日の出来事を思い出す。
下級魔物から隊商を救ったこと、その後にバアル=ゼブルたちと死闘を繰り広げたこと、そしてバヤール馬に乗ったヤム=ナハルに窮地を救ってもらい、その後に駆けつけたアルストリア騎士団に馬盗っ人に間違われて捕縛されたことなど。
騎士たちに言われるがままに連行されてこの街に着けば、街の門には先ほどアルバトールの前で平伏していた騎士隊長が出迎えに来ており。
遠目にも満面の笑みを浮かべていたその騎士隊長は、お互いの顔がはっきりと見えるようになると不意に怪訝そうな顔をして、慌てて彼らの近くまで走りよる。
そしてアルバトールの顔を確認するなり、騎士隊長はその顔を真っ青にして護送してきた騎士たちを叱り飛ばすと、手枷の鍵を懐から取り出すのすらもどかしげに、その場で即座にアルバトールたちを解放したのだった。
そして先ほどのやり取りが交わされたのだが。
その原因になったバヤール馬と言えば、街の近くまで彼らに着いてきていたはずが、いつの間にか掻き消すようにその姿を消していた。
「まったく、あれだけ人を振り回しておいて自分だけどこに行ったんだか」
そう言いながら、アルバトールは自分たちの止まる宿から漏れる温かい光の中へと歩んでいった。
中世ヨーロッパでは馬が大変重要視されていたそうです。
北欧からのバイキングの侵入、東方からの騎馬民族の略奪に対応するには、馬による情報の伝達や、軍の移動が不可欠だったそうで、大きな街では人と馬の通行する場所がハッキリ分けられていたとか。
一方、日本は太平の世の中が江戸幕府によって長い間もたらされていた事と、馬に乗れる身分が侍のみと、ほんの一握りであった為に、人と馬の通行がハッキリ分けられておらず、明治時代に入ってからも人と馬(馬車、後には自動車)の区別が無い道路設計にならざるを得なかったようです。