第43-2話 水の使者
「……さて、アルバ様の身支度を整えねば」
既に灰と化し、わずかな風にさえ散り行く塵となったセーレに背中を向け、ベルトラムはピサールの毒槍を地面から引き抜き、アルバトールと対峙しているバアル=ゼブルへと投じるために構えを取る。
しかし、当面の敵であったセーレを倒して少々気が抜けてしまったこと。
またアルバトールと戦っているバアル=ゼブルに集中する余り、周囲への警戒が怠っていた感は否めなかった。
[あ]
ピサールの毒槍をまさに今投擲しようとしていたベルトラムは、背後から聞こえてきた呟きにその身を震わせ動揺する。
しかして間を空けず、彼は後頭部に激しい衝撃を受けて手元を狂わせ、結果ピサールの毒槍は標的に正しくその効果を向けないままに発されて、バアル=ゼブルの足元で発動することとなっていた。
[すまんの~若いの~~、文句は後でこの馬に言うんじゃの~~]
その謝罪は、その場に残された誰の耳にも届くことは無かった。
そして少々時は経ち。
[……行くぞ、天使アルバトール]
セーレがベルトラムに斃されたことを未だ知らぬバアル=ゼブルは、いよいよ天使と決着をつけるべく、両手に魔力を込めて走り出していた。
(どちらにしろ、奴は聖天術でしか俺を倒すことは出来ねえ。それなら……!)
だが間合いを詰めるかに見えた彼は、アルバトールとは程遠い位置で急にマイムールを掲げ、走った勢いのまま力強い踏み込みの元に振り下ろす。
その瞬間、驚くべきことにアルバトールは突如として発生した巨大な竜巻に巻き込まれ、上空に跳ね上げられていた。
(小細工を仕掛けてくる前に相手の予想を遥かに超えた力をぶつけ、その動揺に乗じて一気に叩き潰す!)
[ヤグルシ!]
マイムールが作り出した竜巻の暴力的なまでの力に身動きがとれないまま、空中高く放り出されたアルバトールに向かって雷撃を繰り出そうとするバアル=ゼブル。
(なん……!?)
だが彼はその時、上空ではなく地上の視界の端に、光る一対の翼を認めていた。
動揺した彼は、その光る翼の正体を良く確かめもせずに慌ててそちらへヤグルシを撃つが、その先にいる標的はあるキーワードを呟き、二つに分かれて豪雨の中に消える。
「ヤタ……ノ・カガ・ミ」
たどたどしくアルバトールの口から紡ぎ出されたその言葉。
それは聖テイレシア王都自警団の副団長、八雲が初めて自警団と手合わせをした際に口にした言葉と同じだった。
(二体って何だそりゃおい! おまけに両方ともまったく同じ姿、同じ力、同じ根本に見えやがる!)
バアル=ゼブルは驚愕しながらも二体に分かれたアルバトールに対応し、まず自らの右手の方で動く影に向かってヤグルシを発動させようとした瞬間、彼の左側で動いていた影がその視界から消える。
不意に姿を消した影に若干の気を取られた彼は、その反動もあってか必要以上なまでに右に動いた影に集中してしまっていた。
(人は何か不慮の事態に出会えば無意識に左に避ける! こっちが正解だ!)
[ヤグルシ!]
しかし彼がヤグルシを発動した直後、再びバアル=ゼブルの左から光が発せられる。
その光は激しく、優しく、彼を包むように、しかし貫いたそれは、その後に一つの呟きを彼の耳にもたらしていた。
――クラウ・ソラス――
(そっち……かよ!)
バアル=ゼブルの目が閃光に焼かれ、視界が塞がれる。
そして次に周囲の景色が目に映るようになった時、彼の左腕は失われており、代わって左手があった場所に産まれた激痛が、彼の爪先から脳天を貫くように疾走していた。
意識が焼ききれんばかりの苦痛に耐えながら、彼は止血、と言うより左腕のあった場所から霧散していく力を身の内に留めようと、法術でその穴を塞ぐ。
(クッ……ソ……! これで暗黒魔術による回復は望めなくなったかよ……! 聖天術による負傷を癒せるのは法術のみとか、汚ねえぞ天主!)
失われた左腕が戻ることの無いまま、法術による治療を終えたバアル=ゼブルが左を向くと、そこには先ほど聖天術で開けた穴に身を隠していたと見られるアルバトールが、穴から上半身のみを出してこちら側に頭を向け、地面にうつ伏せに倒れていた。
鎧をどこかに脱ぎ捨てたその右手には聖銀ミスリルの剣が握られており、その剣からは光の粒がふわり、ふわりと少しずつ天へ昇っていく。
そしてそれを持つ天使の口からは、神への感謝の言葉がのろのろと漏れ出ていた。
(ヘッ、後味がわりぃもんだな。敵とは言え、死にぞこないの止めをさすってのは)
つい先ほどまで死闘を繰り広げ、更に自分に深手を負わせた相手が力尽きている姿を見ても、バアル=ゼブルの胸に不思議と憎しみは湧かない。
それほど疲労しているという証かも知れなかったが、バアル=ゼブルはそういった類の物ではない、もっと深い感情を倒れている天使に抱いていると感じていた。
足を踏み出すたびに激しい痛みを伝えてくる左肩を一瞥すると、天使が倒れている場所へのろのろと近づきながら、バアル=ゼブルはなんとも言えない気分に沈んでいく。
(槍の攻撃に紛れて上空へ飛び、聖天術で身を隠す場所を作り出した、か……偶然の結果かも知れねえが、いい戦術だ。無茶な攻撃で自分に気を引き付けることも含めて……って、さっきマイムールが飛ばしたのは奴の鎧かよ。ま、いい戦いだった、ぜ)
しかし、残った右腕に魔力を集中させてマイムールを発動させようとしたバアル=ゼブルは、その途端に意識が地の中に吸い込まれていくような感覚に襲われる。
(あー……さっき喰らった聖天術でこっちも力が尽きちまったかよ……仕方ねえ、普通に……斬る……)
いつの間にか片膝を着いた姿勢で息を荒げていたバアル=ゼブルは、マイムールの矛を顕現させるべく、精神を集中させ始める。
しかし、当面の敵であったアルバトールを倒して少々気が抜けてしまったこと。
また未だ姿を現さないセーレ、あるいは銀髪の人間へと考えがいく余り、周囲への警戒が怠っていた感は否めなかった。
[あ]
[ぶべっ]
間の抜けた声と共に、バアル=ゼブルの美しく青い髪が、風ではなく蹄の衝撃によって無残に散らばる。
先ほどまでの雨もやみ、雲の隙間から初夏の陽光が降り注ぎ始める中を、バアル=ゼブルの青く透き通る長髪が舞い散り、光を反射したそれは更なる煌きを見せ。
無残とも幻想的とも言える景色の中、姿を現したのは馬に乗った闇の水、ヤム=ナハルであった。
辺りを包む清廉な空気、その爽やかな風景に一つのアクセント(その景色にそぐわぬ、と言うのは流石に失礼であるゆえに)とも受け取れる老翁の容貌をしたヤム=ナハルは、数日ぶりにアルバトールの前に姿を現していた。
最初に会った時や、夢で見た時とは違い、ヤム=ナハルは巨大な赤毛の馬にその身を委ねている。
額には美しい銀色の星のような模様が入っており、瞳は馬特有の優しい物であったが、その奥には理性的な光が宿り、ただの馬ではないことを示していた。
[すまんの~バアル=ゼブル~~、文句は後でこの馬に言うんじゃの~~]
先ほど息も絶え絶えになっていたバアル=ゼブルをこの馬で轢いたヤム=ナハルは、まるで謝罪になっていないのんびりした声で詫びをいれる。
しかしその謝罪は、その場で戦っていた誰の耳にも届くことは無かった。