第41-2話 運用
[ほう、やるじゃねえか]
バアル=ゼブルの矛により、大地に沈むかと思われたアルバトール。
だが彼はその切っ先を体を捻ることによって交わすと、そのままの勢いで地面に転がり、バアル=ゼブルの死角に入って間合いを取ろうとする。
だがそこに待っていたのは、バアル=ゼブルの更なる攻撃だった。
[ま、ちょいと考えが甘かったな。ヤグルシ!]
術の名前と思われる、バアル=ゼブルの叫び。
だが術の対象であるアルバトールにとってそれは、かろうじて聞き取れる程度の声量にしかなり得なかった。
なんとなれば、バアル=ゼブルの左手から雷の如き光と轟音が発せられ、アルバトールに向かっていったからだった。
(耐えてくれよ……僕の体!)
精霊の動きを見切るべく、アルバトールはバアル=ゼブルの左手に目を凝らし、対抗魔法を即座に練って発動させる。
身に纏った退魔装備のおかげか、その発動は彼自身ですら信じられないほどの速度と精密さを以って、バアル=ゼブルの放った雷の威力を減じさせていく。
「つッ……ァ……」
だがそれですら、バアル=ゼブルが放った術の威力の全てを消滅させられず、アルバトールは凄まじい轟音と共に吹き飛ばされてしまっていた。
[なかなかどうして、大したもんだ。天使になったばかりと聞いていたんだが、ここまで俺とやりあえるとはな]
バアル=ゼブルが漏らした感想に嘘は感じられない。
しかし二人の実力差は、傍から見るものが居れば歴然としたものであった。
アルバトールが繰り出す攻撃は全てかわされ、挙句バアル=ゼブルに一撃も加えることも出来ずに彼は地に伏しているのだから。
だが一方的にアルバトールを追い詰めているはずのバアル=ゼブルは、地面に伏しているアルバトールから少しも注意や視線を逸らすこと無く、先ほどヤグルシを放ったままの姿勢で、近くで戦っているセーレに対して不機嫌そうな声を飛ばした。
[遊んでねえでさっさと始末しろ。お前がその人間を早く倒してこちらに加勢すれば、俺も楽になるんだからよ]
[……!]
傲慢そのものな命令に反論しようとしてか、明らかに呼吸と違う目的で口を開こうとしたセーレの機先を制するように、バアル=ゼブルは声に静かな怒りを秘め、吐き捨てるように魔神に告げる。
[この期に及んで四の五の言い訳をするなら、お前は俺の命に逆らう者として死んでもらう。いいな?]
[……承知]
任務に出る前の、飄々とした雰囲気とはまるで違うバアル=ゼブルの様子に、上位魔神セーレは気圧されて口をつぐむ。
その身から発する重圧で、有無を言わさず全てを捻じ伏せるその姿は、かつて彼らを率いていたルシフェルをセーレに思い出させるものであった。
[と言う訳だ人間よ。短い生を振り返る準備は出来たか?]
セーレは腰を落とし、その手に持つハルバードの穂先を揺らし始める。
どこを突くか、いつ突いて来るか。
槍の狙いを判りにくくし、獲物を貫くための動きに徹し始めたセーレの姿をバアル=ゼブルは横目で見届けると、地面に伏したままのアルバトールに向かって声をかけた。
[いつまでそうしているつもりだ? 聖霊と常時接続している天使が、かなりの自己治癒能力を持つことは知ってるんだぜ。さっきの傷くらいならもう回復してるだろ]
体力の回復を図ろうとしていたアルバトールは、その指摘を聞いて動揺する。
しかしそれは体がびくりと震える、一目で判るほどの動揺ではない。
それでもバアル=ゼブルは猫なで声と言ってもいい優しい声で、アルバトールに立つように勧めた。
[立ち上がるつもりが無いなら手を貸してやってもいいぜ? もっとも、俺はお前を殺そうとしてる敵だがな]
アルバトールはその言葉に従うようにゆっくりと立ち上がる。
その身体には、確かに先ほどマイムール、ヤグルシで負った傷の後は認められない。
しかしその顔は、苦渋に満ちたものであった。
「相手に一撃を加えると共に、相手の周囲に真空の刃を発生させて敵を討つ……と言った所か。ヤグルシの方は雷の刃かな」
歯を食いしばりながら述べるアルバトールの指摘に、感心したようにバアル=ゼブルは手を打ち、的確な解であると称賛する。
[流石は天使、と言った所だな。良く精霊の流れを見てるじゃねえか。だが俺の武器の正体が解った所で、その力を打ち消せなければお前さんには死が待っているのみだ。おまけに同時に二つより多く術を行使することは、お前さんまだ出来ないだろ]
その指摘は正しく、また言葉の裏に潜んだ意味はアルバトールに絶望を植えつけた。
"まだ出来ない"
つまり、世には二種類より多く術を同時行使できる者がいる事実をその言葉は指しており、そして目の前にいる者はその術者を知っている、あるいは自分がその術者であることを表していた。
そしてその推測を証明するかのように、目の前の旧神バアル=ゼブルは、マイムールとヤグルシを右手と左手にそれぞれ同時に顕現させ、尚且つ飛行術を発現させて宙に飛び上がり、大地に足を着けたままのアルバトールを見下ろした。
[悪いが、セーレがあちらの人間を倒すまでの間、お前さんの力を削らせてもらうぜ]
そう言って更に安全な高みへと昇ろうとするバアル=ゼブルに油断を見たアルバトールは、天使の輪を浮かべ、その身に神気を降ろして聖天術の発動体勢に移る。
[……聖天術には欠点が多い故に、一対一の実戦ではまず使われることは無い。何故だか判るか?]
アルバトールがその質問に答えないまま、背中から天使の羽根を生やした時。
[……まず一つ]
バアル=ゼブルは目にも止まらないほどの高速、かつ不規則にその姿を移動させ始めていた。
[威力は高いが効果範囲が狭く、相手が油断でもしてねえ限りほぼ当たることはねえ]
「この……! くそっ! 神気の制御が!」
バアル=ゼブルの動きを見切ろうとしてアルバトールは意識を集中させるが、途端に体に降ろした神気が暴走の気配を見せたため、彼は慌てて術の制御に意識を戻す。
[一つ、聖天術に必要な神気は暴走しやすく、少し術者の意識を乱すだけで簡単に術の行使を阻害できる]
拳を握り締め、バアル=ゼブルの忠告を聞くしか出来ない我が身の不甲斐なさを嘆くアルバトールだったが、逆に言えばこれは聖天術の欠点を知る好機でもある。
そう考えたアルバトールは、聖天術の行使を相手にちらつかせながらバアル=ゼブルの口上を聴くことにする。
[それに加えて、いくら術の展開がこの世界の法則に縛られることなく、一瞬で終了すると言っても、術自体の照準は術者が合わせるしかない]
そう言った途端バアル=ゼブルは一瞬だけその動きを止め、それを見て慌てて手を動かすアルバトールを嘲るかのような笑みを浮かべた後、また移動を開始する。
[このように高速で動き回る俺の姿をお前さんが捉え切れなければ、先ほど言った術の効果範囲の狭さと相まって俺に当てることは不可能だ]
そしてバアル=ゼブルは左手を振りかざす。
[ヤグルシ]
その言葉と共に彼の左手にヤグルシの光が宿り、一気に行使される。
だがアルバトールが待っていたのは、まさにその瞬間。
術の力が開放されるその瞬間、心にほんの僅かな油断が到来するであろうその時。
(今なら……なにッ!?)
しかしバアル=ゼブルの術は、アルバトールを狙ってはいなかった。
ヤグルシが向かった先にはセーレと戦っているベルトラムがおり、果たしてその術に巻き込まれたベルトラムは苦悶の表情と呻きをあげ。
[さらばだ人間よ]
すかさずセーレが振るったハルバードの重い一撃で、槍ごと吹き飛ばされていく。
「ベルトラム!」
それに動揺したアルバトールは聖天術を撃つタイミングが遅れ、暴走しかけた神気を押さえつけて放った聖天術の光は、バアル=ゼブルから離れた所を通り過ぎてしまう。
それを見た彼は慌てて主へ感謝の祈りを捧げ始めるが、それが適うことは無かった。
[これが最後の一つだな]
背後から聞こえてきたその声に、アルバトールは慌てて振り返ろうとする。
だがその前に、彼は息が出来なくなるほどの強烈な一撃を背中に喰らい、地面に転がって悶絶を始めていた。
[術を行使した後は、感謝の祈りを捧げなければ堕天する。聖天術は確かに強力だし、下級天使が俺のような最上位に属する魔族に対抗するには必須とも言える術だ]
バアル=ゼブルはそこで言葉をいったん区切り、呆れたように首を振る。
[しかし俺から見れば、聖天術ってのは遠距離から集団で行使し、敵の戦力を削り取るってのが最も有用な使い方だ。お前さんに術を教えた奴が何を考えているのかは知らんが、俺から見ればよっぽどの低能だな、そいつぁ]
バアル=ゼブルが説明している間を縫い、アルバトールは神への感謝の言葉を捧げ、何とか立ち上がって剣と盾を構える。
自分の力量不足を知り、なお強敵に立ち向かうその姿。
――それは蟷螂の斧か、それともまだ何か打つ手がある故か――
[じゃあな、結構楽しかったぜアルバトール]
マイムールを右手に顕現させ、切りかかってくるバアル=ゼブルの一撃を、アルバトールは盾で受け流しながら大きく離れて再び構えを取る。
再びアルバトールの全身を包む傷。
しかしそれは、最初に彼がマイムールの洗礼を受けた時のものより、遥かに浅いものとなっていた。
[ほー、なるほどなるほど]
その姿を感心したように見つめると、バアル=ゼブルは再び間合いを詰めて連続して切りかかる。
しかし今度はアルバトールの全身に傷が入ることはなく、何合か剣が交えられ、それどころか逆に矛の一撃を受け止めた盾で殴りつけられたバアル=ゼブルは、思わぬ逆襲と意外に響いてきたその痛みに身を退かせた。
「油断したかバアル=ゼブル!」
そこにアルバトールが気合の声と共に剣で切りかかるが、それはバアル=ゼブルの左手から発せられたヤグルシによって阻まれる。
何とか雷撃を盾で防いだものの、絶好の機会を逃したことにアルバトールは歯噛みをし、そのまま油断なく構えをとった。
[マイムールの特徴を掴んだか?]
バアル=ゼブルは嬉しそうに笑うと、アルバトールに声をかける。
「どうだろうね」
顔には余裕を見せた笑みを浮かべ、その全身は草や泥で汚した姿でアルバトールは返答するが、その内心は惨憺たるものであった。
再び膠着を始めた戦いに、アルバトールはとうとう玉砕の考えすら頭に浮かべ、眼前の敵を見つめる。
しかしそれを行動に移そうとした瞬間。
――戦場ではとにかく最後まで諦めない事が肝要――
――大抵の人間は追い詰められると単純な攻撃をしてくる――
彼の脳裏にある教えが閃く。
それは彼の師の一人、エンツォからかつて教えられたことだった。
踏み出そうとした足を止め、頭を冷やし、改めてバアル=ゼブルの一挙手一投足に目を配り出すアルバトール。
だがその時。
[あ? なんだありゃ]
「あれは……警備隊?」
彼らの方へ、遠くから騎馬隊が押し寄せてくる。
それは先ほどアルバトールたちが魔物から助けた隊商が、領境の警備隊に向けて出した救援要請に応じた、領境の警備隊の面々であった。