第40-1話 囁き
闇の四属性の一人、水のヤム=ナハル。
またの名を不死身の龍帝。
その体はいかなる武器をも通さない鱗で覆われ、また何度打ち倒されてもその度に蘇って来たと言う。
「さらに海とも川とも例えられるその巨躯に据わった頭には、天と地を同時に飲み込むとまで評された巨大な顎が備わり、口から吐き出す炎は天空高く輝く、夜空の星すら滅すると称された……か」
ヤム=ナハルについての伝承を頭の中で諳んじたアルバトールは、セロ村で出会った小柄な老人にそのような力をまったく感じることが出来なかったどころか、人間では無いことすら見抜けなかったことを思い出す。
それから夢の不思議な内容について考えを巡らすが、その答えは天使である彼を以ってしても出ないものであった。
考えに考えた挙句、彼は答えを出すことを遂に諦め、夢で言い渡された『遠慮なく助けを求めよ』と言う言葉だけを頭に叩き込むことにしたのだった。
「そろそろ出発しようか」
小川のほとりで夢の話をした後、休息を終えたアルバトールとベルトラムの二人は再び馬を走らせ始める。
しかし、馬の体調に配慮したその速度はそれほど早くは無い。
馬に強化の術をかけ、速度を上げると言う手段も考えたのだが、それを施術しても今度は水と草の供給を早める必要が出てくる。
加えて魔術が理解出来ない馬に対し、強化の術をかけたとしても無理やりに走らされていると感じて足を止めるだけ、そう判断したアルバトールは馬なりに走らせるのが上策と考え、それを実行していた。
よって二人とも手綱を持ってはいるものの、既にそれがほぼ用を成さなくなってから数時間が経過している。
その間に馬に草を食ませ、水を飲ませるために馬を止める用途として手綱の使用はしていたものの、馬を早く走らせる指示を出すために使用することは殆ど無かった。
「しかしこうのんびりと馬を走らせていると、まるで物見遊山の気分ですな」
隣を走るアルバトールの厳しい表情を見て、ベルトラムは冗談めいた口調でそんな感想を述べるが、それはあまり意味を成さなかったようだった。
「とりあえず、次の宿場町に着けば事態は打破できる……と思う。それまでの辛抱だ」
アルバトールはベルトラムの軽口に何か気の利いた答えでも返そうとするが、一日の殆どを馬を操っている疲労のせいか、自分でもまるで信じていないことを口にする。
そしてそれは、彼らがようやく到着した次の街でも、早馬として待機させているはずの馬が出払っていることによって立証されるのだった。
「いないか」
落胆の意を隠そうともせずに、アルバトールは馬屋の管理人の前で肩を落とす。
「申し訳ございません、本来であれば一頭は残しておくのですが、領主のエドゥアール伯爵様の直々の御命令でして……」
「アルバ様、あちらに一頭残っているようですが」
「本当かい!?」
ベルトラムの言葉に瞬時に顔を明るくし、アルバトールはその指し示した馬房を見るが、横にいる馬屋の管理人にすぐに否定される。
「あちらは今朝与えた飼葉に蜘蛛かなにかが混じっていたのか、全身にジンマシンが出ております。申し訳ありませんがとても乗ることは出来ないかと」
「そっか……」
アルバトールは恨めしそうに口をへの字に曲げ、どんよりとした顔をしながらベルトラムに無言で詰め寄る。
「主人、すまないが僕たちが乗ってきた馬に水と飼葉を頼む。翌朝またこの馬に乗るから、他の者に貸し出しもしないでくれ」
そして息を深く吸って気分を切り替えたアルバトールは管理者にそう伝え、その足で馬屋を後にした。
その顔を焦りで満たして。
「参ったな……まさかここでも馬が出払っているとは」
宿の部屋で椅子の背もたれに体を預け、万策尽きたと言わんばかりに天井を見上げると、アルバトールは誰に言うともなく愚痴をこぼす。
目的のアルストリア領の領境は目前であり、後一日もあれば到着するはずである。
しかしそこからガスパール伯の居城であるアルストリア城までは、今の調子で行くと更に二日から三日の行程を要するだろう。
「本来なら、もうガスパール伯との謁見が済んでいてもおかしくないんだけどなぁ」
この時点で既に計画から二日ほど遅れが生じていることを思い、アルバトールは急に身を起こすと頭を抱えた。
「アルバ様、少し宿の厨房を借りてイチゴセーキを作ってみました。よろしければお召し上がりください」
馬屋からずっと落ち込んでいる様子のアルバトールを見かねたのか、いつの間にか部屋から姿を消していたベルトラムが、ふわりとした甘い空気と共に部屋に入ってくる。
手に持たれたトレイには、マグカップほどの大きさの器が乗っており、見れば中には牛乳にハチミツと苺を練り合わせたものを入れた、イチゴセーキがたゆたっていた。
アルバトールは器を受け取り、ベルトラムに謝意を伝えてイチゴセーキを口にする。
その舌を包んだのは、体の芯までじんわりと浸透するハチミツ特有の甘み。
それは彼のカサつき始めた心までをも包み込み、満たし、潤いを与えていく。
次に脳に軽く刺激を与えてくれる苺の爽やかな甘みと酸味と香り、そしてそれらを優しく包み込む濃厚な牛乳の味が、アルバトールの口の中へと広がっていった。
「……ありがとうベルトラム。少し落ち着いたよ」
「そう言っていただければ幸いでございます。そう言えば、あの夢の中の御老人に助けは求められたのでございますか?」
本気とも冗談ともとれぬ口調で提言してくるベルトラムに対し、アルバトールは何かを諦めたような顔をして首を横に振った。
「助けを求めよって言われたけど、どうやって助けを求めればいいのか言わずに消えたからね、あの御老人は」
ベルトラムは苦笑すると、それでもやれることはやってみてはどうか、と言い残し、借りた食器を返却しに階下へ降りていく。
「どうでございましたか」
「良い気分転換になったようです。甘い物ほど人を幸せにする物は、なかなか有りませんからな。貴重な甘みを譲っていただいて、感謝の言葉もありません」
「いえいえ、少しでも元気が出たならよろしゅうございます」
そして宿の主人と少し談笑した後、ベルトラムが再び部屋に戻った時。
彼が見たのは後ろ手に両手を組み、黄昏た顔と姿勢で窓から外の風景を眺めているアルバトールの姿だった。
「……他力本願はやっぱり良くないよ」
「左様でございますな」
寂しげにそう答えるアルバトールを見て、主人の素朴な性格について思い出したベルトラムは、次の励ましの手段を考え始めるのだった。
(その前に、人を疑うことを覚える必要がありそうだが……)
その思案している表情を、主人に気取られないように、こっそりと。
そんな出来事より遡ること数日、とある城の一室では。
[つーわけだ。なんとかしろ]
城に戻るなり、いきなりジョーカーの居る執務室に飛び込んで一方的に捲し立てた挙句、天使の討伐任務について条件の改善を要求するバアル=ゼブル。
しかし流石の彼も言うことが尽きたのか、先ほどの一言を言った後は何も言わず、息を荒げながら目の前の堕天使の反応を待っていた。
[やれやれ、相も変わらず賑やかな男だ]
そしてその彼の苦情を、ある書物を見ながら黙って聞き流していたジョーカーは、バアル=ゼブルが押し黙って少し経った後に、それまで開いていた分厚い書物を閉じると、それを器用に指の上でくるくると角を支点にして回し出す。
[一つ、早馬に細工をして天使の足止めに成功した。二日は休息が取れるはずだ。一つ、アギルス領のエカルラート・コミュヌにアルストリア領との領境を脅かすように話をつけている。人間どもに侵入が露見しても、いつものような迅速な対応はとれまい]
ジョーカーが進めていた入念な下準備を聞き、バアル=ゼブルは舌を巻いた。
[ほう、そりゃ助かるな。まったく最初に言ってくれれば、俺もこんな風にお前さんに詰め寄ることも無かったんだがな]
[説明する前に居なくなったのはお前だろう。まぁ、私もあの場で説明するつもりは無かったがな]
そう語るジョーカーの目の奥に、バアル=ゼブルは何か怪しい光を感じ、ジョーカーに詳細を聞こうとする。
しかし彼から聴くまでも無く、その前にジョーカーは言葉を続けていた。
[あの場で説明をすれば、セーレとフェネクスが天使一人如きに何を気弱な、と不満を漏らすことが目に見えていた。……まぁいい、それに関連する最後の一つの条件だが]
もったいつけて間を取るジョーカーに、バアル=ゼブルの頭は警告を告げる。
それでも先ほどの条件を聞いた彼は、ジョーカーの次の発言に対して耳を澄まし、期待を持って待たずにはいられなかった。
[セーレとフェネクスが命令に逆らうことがあれば、その場で殺してもいい。それが出来なければ囮に使うなどして天使に殺してもらえ。もちろん天使を討伐することが最優先ではあるがな]
だが任務の成功とは相反するその内容に、バアル=ゼブルは絶句した。