第37話 因果応報
(さて、どうすっかな)
天使討伐の任を受けた後、バアル=ゼブルはジョーカーやフェネクス、セーレと別れ、どこへ向かうとも無く一人で廊下を歩いていた。
頭の後ろで手を組み、ぶつぶつと呟きながら歩いている彼の眼はどこを見るでもなく、単に天井の方へ視線を向けているだけと言った感じである。
しかし彼が持つ美しく澄んだ青色の長髪、そしてその後ろ髪を束ねる白く長いリボンは、時折窓から入ってくる光が透けるたびに細かい光を発し、その様子はまるで彼の髪とリボンが光のカーテンと化した如くに見える、非常に美しいものであった。
そんな際立った容姿を持つ彼、バアル=ゼブルは、魔族の中でも一際抜けた実力を持っている。
だがその優男風の容姿ゆえに、彼を良く知らぬものには見くびられることも多い。
おまけに彼自身もそんな非礼な輩たちの振る舞いを正さなかったので、かつて神として崇められていた頃と違って、彼の指揮下に入った魔族はその指示に従わないどころか、衆目の前で彼に逆らうことも少なくなかった。
その結果、現在の彼は単独で動くことが多くなっており、例え部隊に編入されたとしても、隊長の補佐に回るか、単独で部隊の支援に回るか、の二つに一つだった。
(しょうがねえか。いつまでも個人で好き勝手やってられる身分じゃねえしな)
しかし年貢の納め時と言うか、どうやら今回の天使討伐の任務では、どうやら彼は二人の魔神を率いることになりそうである。
幸い(と彼が考えているかどうかは分からないが)、フェネクスとセーレはどうやらバアル=ゼブルの実力を知っているらしく、敬意を以って彼に接してくれている。
しかし二人はやはり我の強い魔神であり、いつまでも素直にバアル=ゼブルの指示に従ってくれるかは不明だった。
尚且つ二人が今回の任務に付き従う理由は、目の前どころか目に見えない場所においてある餌、フォルセール侵攻時の従軍の権利である。(正しくはその侵攻の際に虐殺する民の魂だが)
つまりいつ侵攻を始めるか明言していない、いや実行するかどうかさえ怪しいフォルセールへの侵攻、その従軍の権利と言う餌を目当てにしての協力である。
またフォルセールへの侵攻が実現したとしても、他の魔神たちに不満が生じているとジョーカーが言った以上、この任務を無事に遂行しても二人が侵攻部隊に編入されるかどうかはあやしいものであった。
(なんつーか、調略を頼まれたときと一緒で、どうもジョーカーに上手く乗せられたって気がしてならねえな)
その二人のことを考えれば考えるほど、後悔の念がバアル=ゼブルの頭の中に後から後から押し寄せてくる。
それは彼にとって、後悔という感情が海の大渦と言う形をとり、彼を海中深くに引きずり込んで息をさせなくしているかのように思わせるものであった。
しかし好意的に、または前向きに見れば、バアル=ゼブルの能力を買ってくれた上でのジョーカーの差配であり、また扱いにくい魔神二人と言っても能力だけを見れば奇襲、急速離脱にもってこいの二人である。
これに加え、君ならば成功させてくれると信じている、と相手を持ち上げる発言でもあれば、お調子者であれば上機嫌で任務に出かけたことであろう。
(俺に手柄を立てさせ、闇の風としての立場を確立させる……つまり使える手駒を一つ仕立て上げたい、ってか? ま、そう甘い任務でもねえけどな)
なぜなら、この作戦は希望的観測に基づいて立案されている。
まずは領境で襲えば、その周辺を守っている兵が、どちらの管轄に入るかの判断に迷って出動しにくいであろう、と言うもの。
更に標的に気付かれる前に急襲を掛ける手はずとは言え、結界が未だそこかしこに存在する敵地を急速移動するということは、いつ結界に捕捉されるか分からない危険と隣り合わせでもあるということでもある。
最後の極めつけは、協力者二人が指揮官である彼に最後まで素直に従うとは限らない、不確定要素を孕んだ人材を押し付けられていること。
いくら今回の作戦に必要不可欠な能力を持っているとは言え、それが思うように使えないのであれば存在しないも同然、悪くすれば邪魔をする可能性すらあるのだ。
つまり任務を成功に導く要素が、すべて失敗に繋がる条件と渾然一体となっており、作戦の失敗と成功、どちらの要因にも成り得る厄介なものとなっているのだった。
(あ~あ……やっぱ断ればよかったぜ。でも一度引き受けちまったしなぁ……)
バアル=ゼブルはボヤキながら、旧神を束ねる主神だった頃のガムシャラに働いていた自分を思い出していた。
(いや、今でも一応はそうなのか)
そして転生してからも、気が向いた時に限るとは言え、長きに渡って魔族のために暗躍を続けており、その経歴はジョーカーやヤム=ナハルを別格にすれば、モートを凌いで一番長いものであった。
(立場には責任が着いて回るが、その責任に応じた利権もついてくる。以前の俺なら何も考えずに今回の話に飛びついたかもしれねえ)
数々の巨大な柱によって支えられる荘厳な神殿。
かつて彼が腰を落ち着けていた豪華な玉座があったその場所を思い出し、彼は一つ溜息をつく。
(しかし、今の俺は特段に欲しい物があるって訳じゃねえんだよなぁ。俺も丸くなったもんだ……それとも枯れちまったのかね。今現在、一番欲しているものが神殿や財じゃなく、美女でも美食でもない。俺の言葉や仕草に対する人間たちの反応とは)
バアル=ゼブルは頭の後ろで組んでいた両手を腰の両脇に当て、今度は長い溜息をつくと窓の外を見つめた。
[……フェルナンの爺さんでもからかって気分転換すっかな]
そう呟くと、彼は街の自警団本部へ歩き出す。
王都テイレシアが陥落する前は、王都すべての騎士団を率いる立場であった元大将軍であるフェルナンは、なぜか魔族を支配している者たちに人気が高かった。
しかし。
「お主か。また仕事の邪魔に来たんじゃな? 帰れ」
自警団本部に着いたバアル=ゼブルは、目的の部屋のドアを半分も開けてもらえず、それどころか中に居るフェルナンから、人間の顔の構造で作り上げることが出来る最大限の渋面を作られ、同時にドアを全部閉められる。
[おい爺さん! この前は悪かったって! 風で飛ばした報告書はきちんと回収してやったろ!? 今日は真面目に仕事の手伝いに来たんだって!]
そう言って激しくドアを叩くバアル=ゼブルには、彼の全身を震わせるほどの激しい怒鳴り声が部屋の中から返ってきていた。
「偽造した書類を代わりに持ってくるのが回収と言えるか! 今度言ったらその舌を引っこ抜くぞ!」
[まぁ抜かれても神だからすぐに復活するわけだが……こう言うのを人間の間じゃ二枚舌って言うんだっけか?]
フェルナンの怒鳴り声に対し、ドアの外でしたり顔をして呟くバアル=ゼブル。
ついに彼の耳から頭の中心にかけて、取り付く島もないと言った怒声が木霊した。
「もうお主には騙されんぞ! 帰れ!」
……フェルナンがここまで怒っているには理由がある。
数日前、暇を持て余していたバアル=ゼブルは、フェルナンの仕事を手伝うと言って自警団の各支所からの報告書を受け取っていた。
だが彼はその受け取ったばかりの報告書をフェルナンの目の前で風に飛ばし、その反応を見て笑い転げると言う趣味の悪い遊びをしてしまったのだ。
しかし、その報いは即座に彼の目の前に、美しい女性の姿を取って現れる。
[……あれらの報告書をまとめないと、私の今日の仕事が終わらないのですが]
それは副官に就いたばかりのセファール。
静かな怒りを秘めた彼女の笑顔にひるんだバアル=ゼブルは、渋々街へ回収に向かった……ように見えたのだが。
当然と言うべきか、案の定と言うべきか、回収作業の途中で飽きてしまった彼は、似たような書面を魔神の一人に偽造させることで誤魔化そうとする。
[おや、字を書けるようになったばかりの団員たちにしては達筆でございますね]
だがそれは即座に書類を受け取ったセファールにその場で見破られてしまい。
「貴様と言う奴は……!」
そしてとうとう堪忍袋の緒が切れたフェルナンが抜剣し、バアル=ゼブルを街中追いかけまわすと言う一件を経た結果。
フェルナンは部屋に誰かが来訪した時の合言葉を決め、しかもそれを毎日、酷い時には正午を境に変更するなど、用心深く疑り深い性格になってしまっていた。
[おーい爺さん、人の上に立つ者はどうしたって自分以外を信用して動かさなきゃならねえんだからさ、自分の期待に応えられなかった者を一度で見限るのは早いと思うぜ]
バアル=ゼブルの助言に対して返って来たのは謝意ではなく、ドアも砕け散らんとばかりに響き渡る大音声。
その予想通りの反応をバアル=ゼブルは耳に指を入れて済ました顔でやり過ごし、続いて聞こえてきたフェルナンの声に(それでも十分な音量であったが)耳を傾ける。
「やかましいこの大うつけが! 一度の裏切り行為ですべてを失った愚か者も過去に腐るほど居たのだと覚えておけ!」
(やれやれ、俺の挑発に対してきっちり忠告を返してくるあたり、本当にこの爺さんはお人よしだぜ)
バアル=ゼブルは後ろ頭をポリポリとかいて苦笑いを浮かべ。
(だからこそ放っておけないんだが……)
と独り言をいうと、かつて人々に神として崇められていたこともある彼は、その美しい顔に笑みを浮かべ、何もしないからちょっとだけ相談を受けて欲しい、と中のフェルナンに頼み込む。
するとその言葉を契機に部屋の中はシンと静まり返り、辺りは今までの騒ぎが嘘であったかのように静寂に包まれる。
(しつこくしすぎたか? 爺さん、とうとう俺を無視することに決め込んだのかね)
それでもバアル=ゼブルがドアの前で立ったまま相手の反応を待っていると、遂に自警団のドアが開く。
「躾けも年長者の務めであるからして仕方がない……中のモノを動かしたり触れたりすることはおろか、見ることもしないと約束するなら入ってもよいぞ」
途端にバアル=ゼブルはしたり顔でニンマリと笑うと、フェルナンに対して右手を差し出し、握手を求め。
[最大限の努力をすると約束しよう]
「やはり帰れ」
そして天岩戸は再び閉じられることとなった。
…………。
[爺さん、さっきのは冗談だ。このバアル=ゼブルの名に賭けて自警団団長、フェルナンの言に従うことを誓おう。これは神聖なる誓いであり、盟約であることをバアル=ゼブルは明言する]
部屋のドアを閉められた後、長い時間放置された彼は、その間にドアの前を行きかう人々や魔族の視線に晒されることとなり、とうとう耐えられなくなった彼は降参の意をドアの向こうにある部屋の主に伝えたのだった。
[どうぞ]
要望どおり部屋に通されたバアル=ゼブルは、少々暖かくなってきたこの時期に、フェルナンの副官であるセファールからドライプルーンのみを素で出され、客人としての最低限……より少し低めのもてなしを受けていた。
[セファール、このドライプルーンはお前さんが作ったのか?]
[それが何か?]
素っ気ないセファールの返事に、バアル=ゼブルは不穏な空気を感じる。
彼女は旧神の流れを汲む者であり、バアル=ゼブルとは魔族の中でも親しい間柄のはずであるのだが、この冷ややかな返答は一体……?
[いや、ヨーグルトに入れたり紅茶に入れたりすると一層美味しくなるんだよなぁって思い出しただけなんだが……あー、えーと、セファールちゃん、なんか怒ってる?]
[は?]
[…………]
怒っている?
いや、怒っている。
理由は分からないが、しかしそのセファールの剣幕は見た全員が思わず黙り込んでしまう程の物で、実際にバアル=ゼブルは身を縮めて黙り込んでしまう。
美しく、優しく。
穏やか、淑やか、にこやか。
人間ではなく、魔族であることを差し引いても、自警団の男連中の間で人気の高いセファールには珍しく機嫌が悪い。
そう、まるでアナトのように。
カウチに座り、さも重大な悩み事があるかのように深刻な面持ちをし、元気のない様子で振舞っていたバアル=ゼブルは、カウチの横に置いてある机で、彼の監視をするついでに仕事を始めた、と言いたげなセファールの顔をチラチラと見て様子を伺い。
(戦略的撤退、っと……)
さもセファールの横は居心地が悪い、と言わんばかりにバアル=ゼブルは移動を決意し、カウチの正面にある机に目を向けると、そこで書類に目を通しているフェルナンにそっと近づいて耳打ちをする。
[おい爺さん、仕事中すまねえが、まず新しく発生した悩み事について相談を受けてくれねえか?]
聞くやいなや、フェルナンの片方の眉は釣り上がり、とびきりに嫌そうな顔となる。
その表情をしたまま、フェルナンは返事もせずにしばらく書類にサインをしていたが、それを続けられるほど彼は意地の悪い人間では無かった。
次第にインクが薄れてきた書面に気付いたフェルナンは、ペン置きに羽根ペンを挿し、ぎょろりとバアル=ゼブルを睨んで短く告げる。
「天は自ら助くる者を助く」
その言葉に何を感じとったのか、バアル=ゼブルは言葉を失って額に掌を当てて苦悩する様子を見せると、こっそりと後ろを見てセファールの気配を伺う。
すると彼女は彼女で、何かの計算の結果を自警団のリストと比較しながら悩んでいるようだった。
そんな彼女を見た後、バアル=ゼブルは再びフェルナンに耳打ちをする。
[爺さん、ひょっとしなくてもこの前の一件か?]
きぃ……。
だがその質問に返って来たのは、フェルナンの答えでは無かった。
そしてセファールが何かをしたと言う訳でもない。
ただ彼女が座っている椅子から、使用年数に応じたきしみ音がしたと言うだけだ。
単にそれだけのことで軽く身構えるバアル=ゼブルに憐憫の視線を送ると、フェルナンは豊かな口ひげを左手でつまみ、反対の右手で羽根ペンを再び取ると、インク壷に差し入れる。
「ワシには判らん。だから天は自ら助くる者を助く、と言ったのだ」
顔を左右に振りながらそう告げると、フェルナンは髭をつまんでいた左手をバアル=ゼブルの肩に置き、慈しむようにポンポンと数回軽く叩いてから真摯な顔となる。
「死ぬなよ……まだお主にはやることが残っているのであろう」
[おいばかやめろその言い方だと天から助けどころかお迎えの方が来るだろ!]
セファールを刺激しないよう、二人がすべてのやりとりを小声で済ませると、その内の一人、青い髪を持つ男が覚悟を決めた顔をしつつもその肩を落とし、ペンを忙しく動かす女性の机へ重い足を引きずるように歩いていく。
[セファール、闇の風であるバアル=ゼブルの名に於いて問う。……俺、なんかお前に悪いことしたっけ?]
しかしそのバアル=ゼブルの問いに答えたのは、セファールが書類に走らせるペン先の音のみ。
[なぁ、おい……俺にも一応立場ってもんがあるんだが。ヤム=ナハル爺に連なる者だからって、そうそういつまでも甘い顔はしてやれねえぞ?]
仕方なくバアル=ゼブルはセファールに軽い脅しをかける。
と、直後に彼女のペンの動きが止まり、そして何の咎も無いペンが、彼女の指の間で溶けて消え去っていった。
(うぉい!? 何だこれ!? いくら羽根ペンっつっても、こんな一瞬で固体から液化、そこから更に気化分解とかヤム=ナハル爺なみ……いや、それ以上だぞ!?)
いつのまにこれほど成長したのか。
セファールの上達ぶりに、バアル=ゼブルは戦慄する。
そして慄く彼の背後から、今度は重々しい声が頭の中へ染み入ってきていた。
「セファールはどうやら仕事の邪魔をされたくないようじゃが……どうするんじゃ? バアル=ゼブル」
声に反応し、振り返ったバアル=ゼブルの眼に入ったのは、机の上に置いた両手を顎の下で組み、鋭い眼光を光らせる威厳に満ちた老人。
その表情は、つい先ほどまで彼の一言ごとに一喜一憂していた与しやすい老人ではなく、まるで限りない年月の修行を経た結果、神と等しい力を持つに至ったと言われる存在、東方の神仙を思わせるものであった。
先ほどとはまるで見違えたフェルナンの雰囲気に息を呑むバアル=ゼブルの耳に、今度は椅子を引く音が入ってくる。
獲物を待ち伏せ、蹲っていた巨竜が動きを見せた、そんな連想をさせる存在。
一歩ごとに気が増大しているのではないかと思わせるほどの強大な気配。
湿り気を帯びて重くなった空気と共に、次期闇の水の最有力候補、セファールがバアル=ゼブルの背後に立っていた。