第36-2話 堕天使の思惑
八雲は複数に分けた体を再び一つに戻すと、手合わせをした一人一人の背後に回って背中に左手を当て、力を集中させた右手を重ねていく。
するとそれによって苦しみが軽減されるのか、今まで声をあげることも出来ずに地面に伏していた彼らは荒げた呼吸を始め、苦しいながらも立ち直ったようだった。
しかし未だ脂汗を流して苦しむ様子を見せる彼らに対し、今度はセファールが法術による癒しを与え始め、それを見たフェルナンが思わず疑問を発する。
「ん? お主、法術も使えるのか?」
何故ならセファールが施術時に発する光が、暗黒魔術によるどす黒い光ではなく法術による淡く白い光であったため、思わず口に出して質問せずにはいられなかったのだ。
以前ジョーカーに、法術による癒しではなく暗黒魔術による還元によって両腕の治療を受けたフェルナン。
そこからフェルナンが予想したのは、自分たちは今まで勘違いをしており、実は魔物たちの治療は法術ではなく、暗黒魔術によるものだった、とのものだったが、セファールが法術を使っている所を見た今では、その認識を更に改める必要がありそうだった。
(ふむ、今のうちに確認しておくかの)
フェルナンは念の為に、詳細な説明をセファールに求める。
[私は旧神の流れを汲んでおりますから、簡単な法術であれば使えます。それに元天使である堕天使も法術を使えるはずです]
堕天使も法術を使える。
それを聞いて、たちまち頭に血を昇らせて怒りで顔を真っ赤に染めるフェルナンだったが、その様子を見たセファールが口に手を当ててクスクスと笑い始め、おっとりした表情で説明を始めるのを見た彼は、今度は羞恥心で顔を赤くした。
[法術では完全に消滅した肉体を元に戻すのは困難ですから。それに対して暗黒魔術は、術の対象の肉体を容易に復元できます。攻撃と還元を行う者が同一人物である時のみと言う条件付きですが」
セファールは黄色い目を細め、フェルナンの両腕を見つめた。
「おそらくジョーカー様にフェルナン様の両腕を元に戻したい理由があって、暗黒魔術による還元を行ったのだと思われます]
フェルナンと話している間にもセファールの治療は進み、最後の癒しが終わって、自警団の隊長格らしきものの顔色が元に戻って無事に立ち上がると、八雲はフェルナンに改めて自分の紹介をするように告げる。
そして彼の言を受けたフェルナンが閲兵場の中央に進み出で、涼しい顔をしたままの八雲がその脇に付き従った。
「それでは今日からワシの副官、また現場での指揮を務めることになるであろう者を皆に紹介する。と言っても先ほど名前だけは言ったが……まぁよい、ワシの左にいるこやつ、八雲が今日から君たちの上官に加わる!」
「八雲だ。まだ判らないことだらけだが、よろしく頼む」
その挨拶を聞いた自警団、及び元騎士団の目の奥には驚嘆と恐怖が同居をし、それらが住まう家屋であるところの顔には、興味と言う門を八雲に向けて開けていた。
そして八雲がテイレシア自警団に入団した翌日。
聖霊の偏在を修復しつつ、おそらくはどこかの領地へ使者に出た天使の討伐を行う為、本当の出陣をするべく魔族たちは動き始めたのだった。
ジョーカーの言葉に、ここ数日の出来事を思い出したバアル=ゼブルは頭を掻く。
[まぁ奴らに反乱を起こさせるために、主だった奴らを仮の出陣に随行させたお前さんの言い分は判った……が、それとこれとは別だ。今の俺が使える力じゃあ、お前さんの依頼を遂行することは不可能だ]
そして闇の風、バアル=ゼブルはジョーカーにそう伝えたのだった。
しかしその返答は予想していたものだったのだろう。
ジョーカーはすぐに二体の魔神を今回の討伐につけることを申し出る。
[上級魔神のセーレ、フェネクスにお前の手助けをさせよう]
その申し出を聞いたバアル=ゼブルは、感嘆の呟きを口に出さずにはいられなかった。
それもそうだろう。
両者共に魔神の中でも上位に位置する実力者であり、尚且つ高速で移動を可能とする飛行術の熟練者であるからだ。
特にセーレは他者が操る飛行術を強化する術を使うことができ、今までに幾度も人間相手に奇襲をかけ、成功させている。
ジョーカーが立てた今回の作戦に、まさに必要不可欠と言える魔神だった。
[しかし、アイツらが本当に来てくれるのか? ここを落とした時に逃げ出そうとした街の人間をかなり虐殺して満足したようだし、なまなかな報酬では動きそうにねえんだが]
[それに関しては問題ない。そう遠くない時期にフォルセールに攻め込む可能性が高いので、今からフォルセールに連れて行く戦力を考えている、と奴らにはモートから伝えてもらっているからな]
[やれやれ、また鼻面に餌をぶら下げるのか? いつになっても手が届かない餌に興味を示すほど、愚かな連中とは思えねえけどな]
バアル=ゼブルは呆れたようにジョーカーに忠告するが、それに対してジョーカーは含み笑いをすると、右手の人差し指を一本だけ立てて、横に振った。
[新しい餌を用意すれば、多かれ少なかれ意識がそこに向く。この場合の目的は奴らに褒美であるところの餌を与えることではなく、新しい餌になる予定の次の目標、フォルセールに意識を向けさせることだからな」
[あのエルザがいるフォルセールにか? いつまで経っても食いつけそうに無い餌だな]
[どっちみち餌を与えても与えなくても、連中が我々に素直に従うと言うことは未来永劫考えられん。フォルセールに攻め込む為の準備の一つとして、今回の天使討伐には精々彼らに気張ってもらうとしよう]
仮面の下に隠されている顔は見えないものの、楽しそうな声で雄弁に語るジョーカーを半眼で見つめると、バアル=ゼブルは腕を組んでやや仰々しく溜息をついた。
(そりゃこんな性格じゃあ組織の頂点には立てねえよなぁ……頑張れよモート)
自らが頂点に立つ、そんな考えは全く頭にないバアル=ゼブル。
そしてそんなバアル=ゼブルの様子に気付いているのかいないのか、ジョーカーは相変わらず楽しそうに含み笑いを続けていた。
一時間少々の後。
執務室にはバアル=ゼブルとジョーカーの他に、二体の魔神の姿があった。
[で、俺たちはそのアルバトールって天使を倒せばいいのか? それにしてもたった一人の天使如きに俺とセーレを出すとは、随分と楽な仕事をさせてくれるもんだなぁ。ええ? ジョーカーよ]
[全くだ。それも標的は天使になったばかりのヒヨっ子だと言うではないか。そのヒヨっ子に我々二人のみならず、バアル=ゼブル殿まで討伐に出すとはどう言う了見だ?]
上級魔神フェネクスとセーレ。
二人は執務室に入ってきた時には機嫌が良さそうに見えたのだが、ジョーカーから任務の説明を受けた直後からとたんに不機嫌な感情を見せるようになっていた。
執務室に呼び出されたのは、フォルセールに攻め入る軍の一員に決まったことを伝える為、と彼ら二人が勝手に思い込んでいたこともあるのだろうが、本当の原因は他にある。
そもそも魔神は、その出自や経歴が雑多に過ぎて統率が取れなかった為、魔族の頂に立つルシフェルが直接に支配していたのである。
しかしそのルシフェルが遠い昔に起きた天魔大戦に敗北し、長きに渡って奈落に封印された結果、魔神たちを統率する者が不在になってしまったのだ。
いや、正確にはルシフェルが封印されてから後に、アバドンと言う魔族の中でも屈指の力を持つ魔神が仮の統率者として任命されたのだが、先の天魔大戦で敗れた際にそのアバドンも、つい最近まで奈落で封印に従事する羽目になっていたのである。
当然、その間は魔神たちの統率に当たることは出来ない。
それに対して他の魔神たちは、アバドンが奈落に封印されている間も魔族の働きに従事しており、そのためにアバドンが戻ってきた時には、何もしていない無能に統率者の資格なし、と糾弾する者が殆どを占めるようになっていた。
そして時が過ぎるにつれて魔神たちの内情は統率とは無縁のものとなり、また元々力こそ全てと考えていた彼らは、昨今では仲間同士の争いも珍しくない。
従って身分としては彼らと同等であるはずのジョーカーが、自分たちを尋ねてくるのではなく、自分たちを執務室に呼び出したと言う事実。
それが彼らの自尊心をいたく傷つけていたのだ。
しかし不満を漏らす彼らに対し、ジョーカーは懐柔するという姿勢をまるで見せない。
むしろその口をついて出た言葉は辛辣そのもので、彼らの働きを否定するものだった。
[嫌ならばそれでも良い。他の者をこの任務に充てるだけだ。実はお前たちがここテイレシアを落とす際に不要なまでに人間共の魂を喰らった故に、他の魔神たちから不平が出ている。俺達の食い扶持はどうなっている、とな]
実際にジョーカーはその不平を聞いたわけではない。
しかしジョーカーが口にした言葉を聞いたフェネクスとセーレは心当たりがあるのか、顔を歪めて俺たちは言われたとおりに任務をこなしただけ、と主張をする。
だがジョーカーは、それを一顧だにしなかった。
[確かに私は逃げ出した人間を殺していいとは言った。しかし、未だ城壁の内側にいる逃げそうな人間、及び城壁の近くにいただけの人間まで殺していいとは言ってはおらん!]
雄弁なれど、声を荒げることは滅多にないジョーカー。
その姿を見たフェネクスとセーレは、思わず首をすくめて視線を下に向ける。
[執務室に入って来た時のお前たちの顔を思い浮かべるに、自分たちが当然のようにフォルセール攻略に加われるとばかり思っていたようだが、現在の我々にとって最大の脅威であるフォルセール、その攻略には全員が一丸となって当たらねばならん]
ジョーカーは右手を二人に向け、彼らに更なる叱咤をする。
[そんな大事な一戦に当たる者たちに、私の指示を聞かずに勝手に自分の判断で動くような無能な輩を加えると思ったか!]
王都テイレシアを魔物たちが落とした時。
フェネクスとセーレは上空から王都を見張り、逃げようとする者が居ればそれを捕らえ、適わぬ時は殺せ、と命令されていた。
最初のうちこそ任務を忠実に遂行していた彼らは、次第に逃げる人間たちが少なくなっていった後は、城壁の中にいる人々の虐殺を始めていた。
泣く子供を庇う母親、年老いた両親を逃がそうと自ら盾になる男たち。
彼らはそれらを殺すことに飽きると、その人々が守ろうとする対象を、目の前で惨殺していくことに夢中になった。
子供だけは助けてくれと叫ぶ母親。
その願いを叶えた後、彼らは残された子供へこう語った。
[お前はこれから死ぬほど苦労した上に野垂れ死ぬだろう。その時に何で自分だけを助けたのだと、なんで一緒に死んでくれなかったのだと親を憎むだろう。いいか、お前は親に見捨てられたのだ]
そして彼らは、泣き叫ぶ子供の手足から一部を残し、指を奪い去ったのだ。
何故なら人々が発する怒り、悲しみ、絶望、逃避、それら全ての負の感情は彼らにとって極上の甘露となり、彼らの糧と変えられていくのだから。
彼らにとってそれは暮らしの営みの一部であり、必要不可欠な食事だった。
[ま、まぁそれに関しちゃあ……ほれ、人間たちに逃げ出そうという気を起こさせなくする為の非常手段って奴よ。俺達も三人で逃亡を防げってお前に言われて難儀したんだぜ?]
フェネクスの弁明は見え透いたものであったが、ジョーカーはこの一件をこれ以上深追いすると魔神たちがヘソを曲げてしまう可能性があると考え、あえてそれ以上の追求を避けておく。
[それでは頼んだぞバアル=ゼブル、フェネクス、セーレ。今はまだ未熟なれど、強壮かつ強大な天使になる可能性があるアルバトールをこの世から消し去ってくれ]
それに応じる声、表情は皆取り繕っていても、その内面は一様に冷めた物であった。