第26-1話 老将軍の苦悩
バアル=ゼブルとアナトが、それぞれの思惑によってそれぞれの決意を固めた翌日。
自警団の団長の就任式を終えたフェルナンは、かつての将軍の執務室から兵士の詰所の片隅に用意された新しい執務室へ、苦虫を噛み潰したような顔をしながら仕事に使う荷物を運び出していた。
(やれやれ、年は取りたくないものじゃ)
持っている荷物の重さに加え、これから自分を待ち受けているであろう過酷な仕事の内容に、フェルナンは溜息をついた。
ジョーカーから聞いた自警団の規模は百人程度のものであり、かつて数千人規模の軍隊を預かっていたフェルナンから見れば人数自体は大したものではない。
問題なのはその構成だった。
人員の殆どが、文字の読み書きが出来ない民兵出身の者たちで構成されていたのだ。
主に貴族の子弟で成り立つ王国騎士団や、修道士が要職についている神殿騎士団からの報告は要点が既にまとめられた文書だったが、今度からはそうはいかない。
その内容も数人の言伝を経て上がってくる以上、聞いた内容をそのまま鵜呑みに出来ないことが今から容易に想像でき、フェルナンは頭を抱えたくなった。
(その上、あの乱闘が不味かったのう。しかし死人が出るまで殴りあうとは信じられん。一体なにを仕掛けたんじゃ魔族どもは)
そう、問題はそれだけでは無い。
昨日の酒宴で起こった乱闘騒ぎにより、主に民兵で構成されている自警団の内には、騎士団に対する反感が渦巻いていた。
結成式でフェルナンが見た限り、王国、神殿の両騎士団に対する申し訳程度に自警団に配属された騎士たちと民兵との間には、既に険悪な雰囲気が漂っている。
しかし早急に自警団を組織して活動に移さなければ、ジョーカーが言っていたように不安に駆られた民たちがどんな行動に移るか判らない。
今は敗戦の喪失感に打ちひしがれてはいるが、少し時間をおけば魔物たちに勝ち目のない戦いを挑む者が現れる可能性は十分にありうるのだ。
(ふう、これでは死んでいた方がマシだった、と言う奴じゃな)
フェルナンはボヤき、髪の毛より皮膚の方が多くの表面積を占めるようになった頭をペチリと叩いた。
(しかしジョーカーめ……敵ながら見事なものじゃ。かつては王都を守る仲間の間柄であった者たちを、こうまで徹底して反目するように仕向けてしまうとはな)
そして叩いたその手を目の前に移動させ、どうしても鋭くなってしまう視線を隠す。
(いつ誰が裏切るか判らんような状況にされてしまっては、こっそり反乱を企てることもできん。それに形としては市中の平和、市民の安全を守るものが魔族ではなく同じ人間で、更にワシを通して不満を陳情できる構造になっておるからな)
フェルナンは先ほどジョーカーに手渡された自警団の名簿を荷物の一番上に置き、息が上がった体を床に降ろすと、そのまま膝を投げ出して天井を見上げた。
(これでは反抗しようと考える者もおらんじゃろう……最初のうちだけは、な)
フェルナンがそう考えたのには、確固とした理由があった。
現在王都は封鎖され、外には出られないようになっている。
王都と言う性質上、その住民は殆どが商人や職人であり、農民は極少数。
よって畑が荒れるという不満はなかなか出ないだろうが、封鎖されたままでは物資の流れが滞ってしまう為、このままでは遠くないうちに必ず物資が不足する。
物資の不足は価格の高騰へと繋がり、下手をすれば暴動に発展するだろう。
また、行動を制限されると言うだけで人の不満は高まるものである。
目の前に敵がいれば、一致団結して数十日でも耐えるだろうが、得体の知れぬ魔物に占領された状態で行動を制限されてしまっては、平穏な状態は三日が限界と思われた。
(民衆が暴発し、無駄な犠牲を生じる前に市中を見回る隊を組み、長を決め、組織としての体裁を整える……まぁ無理じゃな。適当な所で見切り発車をするしかあるまい)
息が整ってくると、フェルナンは自警団を構成する人員の名簿に目を通す。
(ふむ、元騎士団の者たちは十名少々か……しかし彼らをそのまま隊長にしては、仲間割れをしてくれとこちらから頼んでいるようなものじゃな)
王国騎士団からは五名、神殿騎士団からは七名の騎士が名簿に名を連ねていたが、いずれも退役間近で、貴族や騎士の上下関係に頭が凝り固まった者ばかりである。
そして民兵の方は血気に逸る若い者たちばかりであり、いわゆるまとめ役がいない上に、元々騎士団の下について働く組織であった為、隊長格の経験者もいない。
仕方なく隊長が務まりそうな人材を民兵から探そうにも、情報が少なすぎて誰を任命すべきか判らない。
かと言って騎士団から選んでしまっては、彼らが民兵に対して高圧的な態度を取ることは疑いなかった。
その理由の一つが、自警団の多数を占める民兵に対して騎士団は少人数であること。
また下のものは上のものに従うのが当然と考えている貴族出身の彼らが、自警団の大半を占める民兵が反発するような状況に追い込まれた時に、柔軟な対応が出来るかどうかはなはだ疑問であった。
フェルナンは恨めしそうな顔つきになると、横に居るジョーカーを睨み付ける。
この堕天使はフェルナンが引越しにかこつけて機密文書の焚書、廃棄などをこっそり行わないように、執務室にある文書を読みながらフェルナンに付き添っていた。
机に腰掛けながら機密文書を読む彼の周囲には、透けて見える黄金色のプレートのような物が数枚ほど絶えず浮かび、その表面にフェルナンが今まで見たことの無い文字が次々と刻み込まれては消えていく。
フェルナンにはまるで理解出来ない術であったが、ただ今まで国の大事としていた情報が漏洩した事実だけは頭に刻み付けられた。
[欠落している情報がかなりの範囲に渡っているな。貴様らが新しく開発した術や、退魔装備の詳細を知ることも侵攻の目的の一つだったのだが]
抑揚のない声でジョーカーが呟くと、フェルナンは殊更に強がって答えて見せる。
「ふん、機密事項はその情報の一文字につき金貨一枚の価値がある、との初代王の教えに従ったまでじゃ」
[だがそれ以外にも興味深い情報は得られそうだ。フェルナンよ、持ち出すものがこれ以上無いのであればこの執務室は封鎖させてもらう。異存は?]
「異存はあるが、言っても詮無きこと。慣れ親しんできた執務室を離れるのが不快と言う、理由にもならん理由だけじゃ」
それを聞いたジョーカーは顔を上げると、文書を持った手を軽く振ってそのまま本棚へと投げ入れた。
[それだけが理由なら封鎖する。何か他に持ち出すべき物があった場合は私に伝えれば封を解くこともしよう。もちろん私の立会いの元でのみ、だがな]
「断じてお断りじゃ……と言いたい所じゃが、背に腹は変えられぬ。今から何が必要になるか、まったく検討がつかぬ五里霧中の状態である以上、何か困ったことがあれば遠慮無しに言わせて貰おう」
渋面のまま率直に答えるフェルナンを見て、ジョーカーは少しだけ笑い声を上げた。
[私が居ない時はモートに言うがいい。モートもいなければ、先ほど就任式の時に居た水色の髪の男バアル=ゼブルに。間違ってもアナトには言うな]
仮面のせいで表情は見えないが、その声色を聞く限りでは妙に真摯に感じられる忠告をフェルナンは聞き入れ、一つの要請をした。
「ひとつ頼みがある。人間の副官、しかも有能で若く、体力がある者を寄越してくれ。この老骨を過労死に追い込みたくなければな」
[判った。だが人間一人を遣わすわけにはいかん。こちら側から選出した副官も一人つけるという条件であれば飲もう]
「……仕方あるまい。なるべく速いうちに頼むぞ」
[なるべく、だな。判った]
「気が変わった。すぐに頼む」
[やれやれ、今言った事を即座に訂正するとは……まぁいい、面従腹背と言うことが無い様に頼むぞ。フェルナンよ]
そう言い残すと、すいっとジョーカーは部屋から出て行く。
一人で部屋に残されたフェルナンは本棚に張り巡らされた赤い光に目をやると、ずっと不思議に思っていつつも、結局ジョーカーに聞けなかったことについて考えた。
(なんであいつ等、ワシらとの戦いが終わった後の方が負傷しておるんじゃ?)
隠し通路でジョーカーが負った傷はまだ判るが、今朝の就任式でジョーカー以外にもモートやバアル=ゼブルまで負傷していたことを思い出し、フェルナンは首を捻った。