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第25-2話 乙女の研鑽


[お兄……兄上! アナトでございます! 兄上に再びお会いできる時を、アナトは一日千秋の想いでお待ち申し上げておりました!]


[お、おう。そうだろうな俺もそうだろうな]


 呼びかけに応えるバアル=ゼブルの顔を見ないまま、アナトは彼の胸に突っ込む。


 頬を朱に染め、輝かんばかりの笑顔を以って見上げようとする彼女の姿は、先ほど戦場に立っていた時の勇ましい鎧姿とはまるで別物であった。



 ゆったりとした布で体を包みこむキトンと呼ばれる優雅な衣服の上には、うっすらと緑色の光を放つ薄絹のヴェールをかぶり、髪には油を塗って結い上げている。


 小さめの顔には艶めかしく紅をさした唇、バアル=ゼブルの横顔に視線を送ろうとする目は控えめなアイライン、アイシャドーで縁取ったものであり。


 彼女の鋭い視線を和らげる、あるいは逸らすように目立たせているそれらの化粧は、彼女をより一層美しく輝かせていた。



 しかし、その美しいアナトを受け止めたバアル=ゼブルの顔は浮かない。



 一応抱きしめてはいるものの、その姿勢はアナトの首の後ろに手を回してきつく引き寄せているもので、自分が何を考えているかをアナトに悟られないように、彼女の視界に自らの顔を入れないようにしたものであった。


 そのままの姿勢で周囲を見渡したバアル=ゼブルは、少し離れた所に立ってこちらの様子を伺うジョーカーとモートの出方を伺うが、彼らが動く気配は無い。


 と言うより困っている彼を見て、二人は明らかに楽しんでいた。


(よし、後でアイツら殺すか)


 バアル=ゼブルは本気の決意を固め、次は彼の胸に身を委ねているアナトへの処方に思考を傾けていく。


(この俺としたことがまんまと嵌められたぜ。確かに美人に惚れられるのは大歓迎だ。けどよ、こんなおっかねえ奴に付きまとわれる側の気持ちになってみろってんだ)


 アナトが動く気配を感じ、慌てて彼女の腰を引き寄せるバアル=ゼブル。


(大体、女ってのは追っかけるもんであって、断じて追っかけられるモンじゃねえよ)


 同時にバアル=ゼブルは、彼の体を万力のように締め上げるアナトの腕にそっと手を触れ、その感触に顔を上げたアナトの顎の下に右手を滑り込ませて口付けをした。


[あっ……]


 アナトをとろけさせ、その力が抜けるまでお互いの口を絡ませた後、バアル=ゼブルは彼女の背中と膝に両手を滑り込ませて抱きかかえる。


[久しぶりだなアナト。ちょっと顔を合わせない間に、随分と女ってモンが判ってきたんじゃねえか?]


[は、はい……兄上から言われたとおりに努力いたしました]


 顔を赤らめ、手を組んで何やら服をいじり始める少女のような姿のアナトに、バアル=ゼブルはとびきりの笑顔を浮かべて優しく語り掛けていった。


[神ってモンは、黙って威を示すだけじゃ信徒はついてこねぇ。信徒をいたわり、ねぎらう。これをやって初めて人間達は崇めるってことを始めるのさ]


 そしてアナトの努力を労った後、今度は声色をやや苦し気な声色へ変化させる。


[かなり昔だが、俺の信徒に雨ごい勝負を挑んできた奴がいてな。エリヤだったか? その時俺は、竜神でもあるヤム=ナハル爺のメンツもあるから黙って見てたのさ。だがそれがマズかった。たまたまエリヤって奴の時に雨が降っちまった]


 そこに重々しい声で、モートが口を挟んでくる。


[あの時の勝負か……確かお前の信徒の他に、アーシラト女神の信徒もいたようだが]


[ああ、単に優劣を決めるだけかと思ってたら野郎、俺の信徒とアーシラトの信徒を皆殺しにしやがった……と、話が逸れちまったな]


 バアル=ゼブルは頭の後ろを掻きながら話を続けた。


[要はたまに褒美や加護をやらねえと、信徒はどんどん消えちまうってこった。ま、この分ならお前は大丈夫そうだな。きっちりと信徒を女神の愛で包みこんでそうだ]


[は、はい! ……あ、あの、お兄、様。それで、その……]


 小声で返事をした後、何か言いたそうにアナトがモジモジとするのを見て、バアル=ゼブルは殊更に笑顔を作ってみせる。


[ん? 何か言いたい事があるのか? アナト]


 アナトはその笑顔を見ると、また真っ赤になって下を向いてしまうが、やがて決心をしたのか、顔を上げてバアル=ゼブルに一つの懇願をした。


[お、お兄様! お兄様の言いつけをちゃんと守りましたので、その、あの……ご、御褒美をいただけたら、と思いまして……]


[おう、そうだな。何が欲しい? 異国の物でも何でもいいぞ]


 その言葉を聞き、アナトの顔は一気に輝きを増す。


[で、では! お兄様と久しぶりに契りあいとうございます!]


[そいつぁダメだ]


 が、そう即答されたアナトの顔は一気に曇り、今にも泣き出しそうになっていた。


[……なぜ……なぜでございますか?]


[いや、何で、つってもよ……ほら、そこに見ている奴等がいるだろ? 寝所に不審者を入れて営みをする夫婦がいるか?]


 横でこちらをニヤニヤしながら見ているジョーカーとモートの顔を見たアナトは。


[ではすぐに片付けますので少々お待ちを]


 落ちてある紙屑を片付けると言った口調で、気軽に彼らの処刑を始めようとする。


[待て待て待て! 片付けるとか言う前に、まず出て行ってくれないか相手に聞くのが先だろう! ましてやここは謁見の間であって、お前達に割り振った寝所ではないぞ!]


 どこからともなく出てきた、アナトの身長ほどもある両手剣。


 それを片手で彼女が軽々と振りかぶると、モートが慌ててそれを制止する。


 その指摘を尤もだと思ったのか、アナトはきょとんとした表情のまま振りかぶっていた両手剣を下ろし、モートとジョーカーを見つめてニコリと笑った。


[そうだな、お前は一応我らの指導者ではあるし、ジョーカーは兄上の帰還を教えてくれた恩義がある。有無を言わさず押しつぶすのは礼儀に欠けると言えよう]


 その笑みは肌を刺すような冷たさに満ちたもので、艶やかな唇から発せられる言葉も、薔薇を感じさせる甘い香りから、鋭いトゲを持つものへと変化していた。


(どうやら流れが変わったようだな)


 先ほどまでの差し迫った状況が一変したことを見て取ると、バアル=ゼブルは一気に片をつけるべく、アナトの説得に取り掛かる。


[そうだろ? だから今日の所はだな……]


 しかし、バアル=ゼブルは最後までその言葉を言いきることはできなかった。



[すまぬなアナト。これは明らかに我らの落ち度だ。かつては仲睦まじい夫婦だった男女が久しぶりに再会した。それだけでここを去るべき理由になると言うのに、それに気づかずいつまでもここに居てしまうとは何たる非礼か]



 彼の話を遮り、ジョーカーがモートを連れてさっさと退出してしまったのだ。


(おいおいおいおいおいィィィィィィィイイイイ!?)


 迫りくるアナトを抑えていた二人が居なくなったことで、バアル=ゼブルの計画は一気に崩壊する。


[お兄様……邪魔者はいなくなりましたわ……]


 謁見の間に残されたのは二人の男女のみ。


 当然アナトは身体中から肌で感じ取れる質量を持った色気を発し、バアル=ゼブルににじり寄る。


 その標的であるバアル=ゼブルは、棒立ちのままそれを眺めているように見えた。


(ジョーカーの野郎、日和ひよりやがったな!? 天魔大戦を生き延びてきた最古参だから立ててやりゃあ調子に乗りやが……って、今はそれどころじゃねええええええ!)


 だがその実、頭の中では目まぐるしく対策を練り上げようとしていたバアル=ゼブルが気がつけば、アナトは彼の目の前までにじり寄ってきていた。


(……これだッ!)


 その時、一秒が数分に感じられるほどのプレッシャーを乗り越えた彼は、その場を切り抜けるたった一つの案を思いつく。


[……待て、アナト]


[どうなされたのですか?お兄様]


 まるで獲物に襲い掛かるヒグマのような、両手を振りかぶった状態で立ち止まるアナトに対し、バアル=ゼブルは告げる。


[お前も知っての通り、今の俺は神殿を持たない根無しの神だ]


[ええ、ですからお兄様に再び神殿を持っていただくために、あの忌々しいジョーカーたちに協力しているのですわ]


[問題はそこだ。一から神殿を作り上げるより、既に存在する建物を神殿に作り変えたほうが早くねえか?]


 そのバアル=ゼブルの提案にアナトは首を傾げるが、すぐに察したようにバアル=ゼブルに詰め寄る。


[では、この王都テイレシアを神殿に……?]


 そのアナトの質問に、バアル=ゼブルは首を振った。


[いや、どうもここはジョーカーがあらかじめ使い道を考えていたらしい]


[構いませんわ奴を消しましょう]


 あっさりと言ってのけるアナトに、バアル=ゼブルは内心で冷や汗をかきつつ彼女の説得を継続する。


[その必要はねえ。ここの他にも……いや、ここよりも神殿に相応しい建物が、地理的にも信者が集まりやすいある土地があるんだ。お前はフォルセールを知ってるか?]


[はい。あの忌々しい天使共の根城ですね]


 アナトは答え、爪を噛みながら悔しがる。


 今までの天魔大戦で、何度も煮え湯を飲まされた天使たち。


 それを産み出す存在であるエルザが住まう城塞都市フォルセール。


 街道が集中する交通の要所たる土地に建てられた城塞都市は、確かにかつて栄光に満ち溢れた存在であった兄、バアル=ゼブルの神殿を新たに建立こんりゅうするに相応しい場所であった。


[今の俺は根無しだ。とてもお前に釣り合った存在とは言えねえ]


[そんな事は……]


[これはお前の問題じゃなく、俺の矜持きょうじの問題なのさ。もしフォルセールを落とし、そこに俺の新たな神殿を作ることが出来れば、誰にはばかることも無く、胸を張ってお前とまた夫婦になったと宣言できる。その時に改めて契りを交わそう]


[……判りました]


 不承不承ながら首を縦に振ったアナトの肩を抱き、バアル=ゼブルは告げる。


[お前もつらいだろうが、俺も本当につらいんだ。判ってくれ。俺もフォルセールの地を手に入れる為にがむしゃらに頑張るから、お前も協力してくれ]


[判りましたお兄様!]


 機嫌を直したアナトよりとびきりの笑顔を送られると、バアル=ゼブルは彼女を寝室へ送り届け、その後にひきつった笑いを浮かべて拳を握り締め。


[さて殺そう]


 ジョーカーとモートのところへ走って行った。

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