第250話 天使が織り成す世界
「ラファエラ! ラファエラは居ますか!」
いつものように静かな、だがいつもに増して荘厳な雰囲気をかもし出している今日のフォルセール教会に、エルザの声が響き渡る。
「お帰りなさいませ司祭様。侍祭ラファエラここに」
そしてその声が響き渡るとほぼ同時に、緑色の帽子をかぶったおかっぱ頭の少女がエルザの前に姿を現していた。
「ふむ、なかなかの力を持つと聞き及んでいたが、どうやらその範疇に収まり切れぬ力をラファエラ侍祭もお持ちのようだ」
「いえ。力を持てども、それを活かす術を知らぬ子供でございますフィリップ候」
しかしエルザと共にフィリップまでいたとは知らなかったのか、それとも別の理由によってか。
話しかけてきたフィリップの顔を見たラファエラは、軽く目を見開いて驚いた様子を見せ、だがすぐに平常の顔に戻るとエルザへ準備は出来ていると告げる。
「ではフィリップ候とラファエラは先に礼拝堂へ。私はジュリエンヌ様をお迎えするために一度部屋に戻ってからすぐに参ります」
それを聞いたエルザは手短に指示を出すとすぐに立ち去り、フィリップとラファエラもすぐに礼拝堂へとその足を向ける。
その姿は、もはや一刻の猶予も無いことを察するに十分なものであった。
「では、よろしいのでございますねジュリエンヌ様」
「うん、それでアル君は助かるんだよね?」
辺りをはばかるような、小さな話し声が漏れ出てくるエルザの私室。
先ほどまでベッドに寝かされていたアルバトールは、先ほど礼拝堂に作られた臨時の祭壇へと運ばれており、既にここには居なかったが、そこには三人の女性がエルザの到着を待っていた。
ジュリエンヌ、リディアーヌ、そしてアデライード。
その中の一人がいつもと変わらぬ笑顔を浮かべているのに対し、他の二人は今にも息を引き取ってしまいそうな、青白い顔をしていた。
「一応お聞きしますが、ラファエラからはきちんと説明があったのですか? もし失敗してしまえば、ジュリエンヌ様の……」
「エルザちゃん」
珍しく迷う様子を見せるエルザ。
戸惑い、そして何かを恐れるように話すエルザを、ジュリエンヌの笑顔が遮った。
「今エルザちゃんがするべきことは、失敗した時のことを話してあたしを思いとどまらせることじゃなくて、このままアル君を放っておいた場合どうなるかを話すこと、じゃないかな」
「ジュリエンヌ様……」
エルザは、現在の天使長ミカエルは、その笑顔を見た途端に吹っ切れたように、あるいは釣られたように、いつもの穏やかな笑顔を取り戻す。
「このまま天使アルバトールを放置しておけば、彼の魂は闇に穢されて堕天し、人にとって、天使にとって、大きな災いとなりましょう。あるいはそうなる前に主の怒りが下り、魂が粉々に砕け散って散華し、未来永劫に復活することはないでしょう」
「じゃあ決まりだね! 先に行ってるよエルザちゃん!」
ジュリエンヌはそう言うと、自分一人で扉を開けて飛び出してしまう。
その淑女とはかけ離れた姿にエルザがくすくすと笑い始め、続いて扉をくぐろうとした瞬間。
「司祭様。すぐに終わりますので、儀式の前に少しお話がしとうございます」
やや表情に生気を取り戻したアデライードが、エルザを呼び止めたのだった。
「では、お集りの皆様に簡単に説明をさせて頂きます」
礼拝堂に作られた臨時の祭壇に寝かせられているアルバトール。
その周りには実に多くの人々、あるいは神々が集まっていた。
フォルセールに住まう人は勿論、オリュンポス十二神で彼と交流がある者、またヘプルクロシアに居るはずのモリガンや、クー・フーリンの魂が宿ったゲイボルグ。
「ダークマターか……まさかこのような形で再び相まみえようとはな」
そしてティルナ・ナ・ノーグにて謹慎の身となっているはずのルー。
「ガッハハ! だがこの俺様が来たからには安心よ! で、どうやって小僧を救うのだ司祭エルザ!」
そして現在のトゥアハ・デ・ダナーンを率いているダグザだった。
「まさかアポローンとアルテミスを遣わしてすらこないな目に遭うとはのう。難儀なこっちゃでまったく。ところでモルガンとか言ったか。このワシとどこかで……会ったこと無いみたいやな」
「司祭エルザ! 私たちの役目を早く教えてください!」
≪……同意だ。何か体を動かさなければ、このような輩と一緒に押し込められているだけで吐き気がする≫
ゼウスがモルガンへ差し出した手がゲイボルグの穂先によって止まり、その隣では両眼を血走らせ、落ち着きなく親指の爪を噛むディアン・ケヒトが、カチャカチャとうるさく剣を鳴らしながら患者の姿を目で追い求める。
「えっと、皆静かにしてくれる? アル君本当に危ないんだよ」
だがアルバトールの横に居る小柄な女性が全員をたしなめると、その言葉に何かの力が籠められているかのように不思議にその場は静かなものとなった。
「皆様方に集まってもらったのは、堕ちようとしている天使アルバトールを救うため。その秘術に必要な糸を提供していただくためです」
「ほう、糸とは興味深いですね。我が施術にも糸を以って体を縫いつけ、補修の助けとする技術がありますが……」
糸と言う言葉を聞くなり、先ほどまでまるで落ち着きが無かったディアン・ケヒトが、エルザの説明に目ざとく食いつく。
しかしエルザはそちらへやんわりと首を振ると、物理的な糸では無いと答えて再び顔を正面へと戻した。
「今まで世界を旅してきた彼が、各地で出会った人々や神々と紡いできた絆と言う名の糸。それによって織り成された、アルバ=トール=フォルセールと言う名の天使の世界。つまり天使アルバトールと絆をお結びになった皆様方に、今お持ちになっている一端を引っ張り上げて頂くことで、彼は堕天せずに済みます」
再び礼拝堂の中は、騒ぎにまではならないものの軽いどよめきを見せる。
それはアルバトールを助ける目途がついた安心感から来るものであり、ジュリエンヌの小言を誘発させるものでは無かったが、それでもアルバトールの手を握るジュリエンヌの顔は、いつもの笑顔とは違うやや緊張したものであり。
「大丈夫だジュリエンヌ。アルバはきっと助かる」
そのジュリエンヌの手に自らの手を重ねたフィリップの顔も、やや硬いものだった。
「それでは儀式を執り行います。まず天使アルバトールに繋がっている運命の糸を引っ張る必要がありますが、その際に彼の世界がそのままほつれて消失してしまわないように私から力を与え、意識を覚醒させます」
「だがエルザ司祭、運命の糸を引っ張ると言ってもどうやれば良いのだ? 運命の三女神モイライの紡ぎたる糸であればまだ判るが、それとはまた別のものなのであろう?」
今までに見たことが無いほど気弱な顔で、心配そうにアルバトールを見つめるエレーヌがそう質問すると、エルザはジュリエンヌとフィリップの二人へ頷く。
「最も天使アルバトールに近い、彼の世界が産まれる因となったお二方に、糸の取りまとめをお願いしました。私がお二人を通じて生生流転の魂の流れ、その中で他者と手を取り合った証である絆を制御し、皆様方にも知覚できるように致しますわ」
「判った。では司祭様にすべてを委ねよう」
「私が合図をしたら目を閉じ、胸に手を当て、感じ取ってくださいエレーヌ様」
エルザは微笑むとアルバトールが寝かせられている祭壇へと近づき、その横に膝をついて語り掛け、祝詞を捧げる。
「ただ安らかなる魂として目覚める時。砕け、腐り、朽ちる前に。汝天使アルバトールがここに在ることを覚まし、醒ませよ」
同時に一時的ではあるだろうが、アルバトールの肉体に起こっていた異変は消え、その寝息が安らかなものとなり、すぐにその目を開ける。
「あ……れ……王城じゃ……王城!? ここにいた女の子は!?」
「安らかなれ。迷うことなかれ。汝が魂はたゆたう器なり」
「エルザ司祭……」
目を覚ましたアルバトールは状況が飲み込めないようだったが、周囲にいる者たちの顔、そしてエルザの顔と発する気に何かを察し、すぐに静かになる。
「天使アルバトール、貴方を掬います。貴方を形作っている世界、その素となった外との世界との関わり、関わってきた者たちとの絆、運命という糸を以って」
「……判りました」
不思議なことに、アルバトールはすんなりエルザの言ったことを理解した。
あるいは意識の外で、エルザの話を聞いてでも居たのだろうか。
「しかしエルザ司祭、絆と言うのであればアデライードがここに居ないのは不自然ではありませんか? えっと……ああアリア、アデライードはどこに?」
壁際で小さく震えていたアリアにアルバトールが声をかけた瞬間、エルザからアデライードについての答えが返る。
「こちらに参られる最中に馬車が故障したとのことです。もうすぐ御姿をお現しになりますわ。ただ急を要する治療なので、先に集まった方だけで儀式を始めるだけです」
「そうですか」
この時アルバトールは、先ほどからずっと自分の手を握っているジュリエンヌの表情が、やや変化を見せたことに気付いていた。
だがその時の彼には時間が無かったのだ。
その変化について考える時間が。
「お二人を通し、貴方が紡いできた絆、魂の流れを知覚してもらいます。今の貴方であれば、神気を制御することが出来るようになった貴方であれば、必ず出来ます。決して運命の糸を離すことが無いように」
「二人を……通して?」
「私が責任を持ってお二人の補助をいたします。貴方は平常心を以って事にあたるようにして下さい」
そして儀式は始まった。
アルバトールの織り成してきた世界が闇に染まる前に。
その身を闇から引き上げる儀式が。
それは主が営み、主が行う奇跡。
「ぐ……ぅッ!?」
「んッ……ああッ!!」
魂のみそぎ、穢れのはらえ。
禊祓の奇跡だった。
「父上! 母上!?」
「安らかなれ。迷うことなかれ。汝が魂はたゆたう器なり。天使アルバトール、今貴方がすべきは心を安んじ、お二人を信じてただ魂が掬い上げられるのを待つことです。貴方の世界から糸が切り離されないように、ただ落ち着くのみを心がけなさい」
「……!」
この世に生まれ出でた魂は時と場所を移ろい、魂を成長させて聖霊の御許へと戻る。
だがその時に世界で経験した知識、力と共に、苦しみ、穢れも持ち帰ってくるのだ。
主はそれら無数の穢れをその身に受け、浄化し、再び安らかな魂として送り出す。
聖天術レペテ・エルスの苦しみ、それを数万倍にしたものを未来永劫に味わいながら、それでも人の成長を信じ、人がいつか自らと同じ高みに達することを信じて。
主は一人、遥かなる高みでいつまでも苦しんでいるのだ。
自らの半身たる聖霊に、浄化の痛みを押し付けた後悔にさいなまれながら。
自らの分身たる人の子らの魂が、穢れに蝕まれ続けることが無いように。
奇跡の御業を助けてきたルシフェルが闇に落ち、サンダルフォンを助けるためにメタトロンまでが力を失って転生し、誰も居なくなった天界の中心で。
ミカエルがいつか、自らを手助けできる存在を連れ帰ってくれると信じて。
いつまでも、いつまでも。
(父上……! 母上……! くそ! 早く消えてくれダークマターの穢れ!)
アルバトールは隣で苦しむフィリップ、ジュリエンヌを見て焦りを覚える。
(消えればすぐにでも王都に戻って……戻って……戻って何をするんだ?)
だがふと頭に浮かんだ考えに、アルバトールは計り知れない恐れを抱いた。
(王都に戻って……魔族を滅ぼす……バアル=ゼブル、アナト、モート、アスタロト、ヤム=ナハル……い、いや、彼らは旧神であって魔神じゃない……だけど倒すべき魔族の一員……)
「天使アルバトール! 心をしっかり持ちなさい!」
エルザが叱咤する声も、今のアルバトールには遠く。
(天使に戻れば……確かジョーカーはエルザ司祭に呪いを……共に戦いに挑んだ仲間たちが次々と倒れ……寿命で先に死んで……そう言えばアデライードは? ……先ほどの母上の顔……まさか!?)
天使の予言。
必ずやその命を以て、聖テイレシアの危機を救う存在となるだろうと。
アルバトールがその不安に胸を引き裂かれそうになった後、変化は起こった。
「アル君」
アルバトールはその声に、心なしか光を帯びてきたジュリエンヌの姿を見る。
「頑張るんだよ。ここで諦めたら三人ともいなくなっちゃう。だけどアル君が頑張って戻って来てくれたら、二人は……ううん、四人は助かるんだからね」
(何を……母上!?)
次の瞬間、ジュリエンヌの身体は光の粒子となって虚空に消えた。
「母上!?」
「心を虚に! 暴れもがいては、貴方の世界がどんどんほつれて消えてしまいます!」
「し、しかし!」
「アルバ」
「ち、父上……?」
問いかけてくるフィリップの姿は、やはり光に包まれていた。
「子が親より先に逝くは、最大の親不孝であることを心に留めおくのだ。そして領主が務めるべきは、領民すべての親であること。決して我が身のみを厭うことが無いようにせよ。我が身に何が起ころうとも、子の手を引き、導いていくは親の責任である」
「父上!」
そしてフィリップの身も光に包まれ、虚空へと散っていった。
あまりのことにアルバトールは我を失い、茫然として二人が消えた場所を見る。
散華。
人の身に過ぎた力を行使した故に、人の身で主の御業を続けようとしたが故に。
フィリップとジュリエンヌは、未だ還らぬアルバトールを救うために魂と肉体を光と変え、還っていった。
「天使アルバトール。まだ貴方だけは間に合います。どうか心を安らかなものとしてください」
「エルザ……司祭……まだって……まさ……か……」
(エルザ司祭……僕の親のような……消えたら一人に……いや、そうじゃない。エルザ司祭が消えたら天使が生み出せなく……消えるはずが……消えてはいけない……)
次第にアルバトールの身体から赤、緑、茶、青の光が発せられ、そして目の前のエルザからも先ほどのフィリップとジュリエンヌのような白い光が発せられる。
(大丈夫……間に合うと……しかしそれがメタトロンのように嘘だった……ら……)
その考えに至った時、アルバトールは心の中で叫びを上げ。
「……優しいですね天使アルバトールは。いつでも、どこでも、誰に対しても」
「エ、エルザ司祭……?」
エルザから優しい、この上なく優しい言葉が、彼にかけられる。
同時にアルバトールの身体から発せられていた光は弾け。
「そして、自分に対しても」
反してエルザの身体から発せられる光は増え、体の輪郭がぼやけていく。
「ですがそれは貴方の美徳……後はその優しさを向ける相手を間違えないように……するのですよ……」
そしてエルザは虚空へと消えた。
アルバトールのために、力を使い続けて憔悴しきった天使ミカエルが。
「う……あ……うあああああああああ!!」
伸ばそうとした手の行き先を見失ったアルバトールが祭壇の上で咆哮を上げ、豹変した彼が暴走を始めないように周辺に居た神々が押さえつける。
「アルバ様」
そこに一人のメイドが近づき、アルバトールへと手紙を渡した。
アデライードのサインがなされた、一通の手紙を。
「もしも……もしもの時には……この手紙をと……」
唇を噛みしめ、服を握りしめたアリアは、手紙を渡すと同時にすがりつくべき物を無くしたとでも言うように、せき止める物が無くなったと言うように涙を溢れさせる。
そこには今までの礼が、いくつもいくつも書き連ねてあり。
――我が息子、クレイのことをお願いします――
ついにアルバトールと家族になれなかったアデライードが。
天使の予言のことをテオドールに聞いてから、アルバトールのことは諦めていたアデライードが。
だが、クレイのお陰で。
家族を持つことを諦めていた自分が、子を育てることを諦めていた自分が、家族を持ち、そして子を育てる喜びを知ることが出来たと記されていた。
そして天使の予言は現実となる。
「……父上」
「なんやヘルメース、見張りを頼んどったろ。今は……」
「王都テイレシアを闇の壁が包んだ。どうも様子がおかしいので見て頂きたい」
礼拝堂へ入ってきたヘルメースの言葉に、ゼウスが外へと走り出す。
続けてアルバトールも動こうとしたが、彼の身体は言うことを聞いてくれなかった。
そこに近づいたのは、緑色の帽子をかぶった一人の少女。
「おそらく隠し通路を利用して王城に近づいた、アデライード様とリディアーヌ様による不完全な停滞による障壁でしょう。あれは一人で成し得る術ではありませんから」
「ラ、ラファエラ侍祭……」
天使ラファエルをその正体とするラファエラがアルバトールに近づき、闇の壁について説明をしていく。
「二人の術者が励まし合い、もし停滞に向かう最中に一人が止まればもう一人が励まし、そしてより完全な停滞に向かう。それに力ある者が触れればたちまちにして吸い込まれて分解し、ですが力なき者であればやや疲労を覚えるだけで通り抜けられる」
ラファエラは外から中を覗き見る者たちへ顔を向け、そして厳かに告げた。
「障壁は少なくとも十年はもつでしょう。これで聖テイレシア王国はしばらくの間、平和が保たれます。また天使アルバトールの体を脅かしていたダークマターも、どうやら取り払われたようです。皆様方、ありが……ありがとう……ござい……ました……」
ラファエラは下を向く。
それが礼なのだと全員が気付いた時、ラファエラの足元にはいくつかの染みが姿を現しており。
そしてアルバトールは。
「みん……な……」
魂の抜けた顔で、いつまでもいつまでも、王都の方角を見つめ。
――こうして、天高く羽ばたくはずだった彼の翼は折れたのだった――




