第249話 闇天使
「ベル君、何があったのか説明してもらえるかな」
フォルセール教会の一室、その中でも特別な部屋と言えるエルザの私室。
そこに置いてあるベッドに寝かされているアルバトールの顔は、計り知れぬ痛みに歪んでいた。
苦痛と言っても、肉体的なものではない。
自らが犯した罪の重さ、それに潰され、引き裂かれる魂の痛み。
物質として安定した人間ではなく、精神的な存在である熾天使となったことによって犯した罪への苦悩が直接的な苦痛と感じられ、アルバトールの全身を蝕んでいるのだ。
肌の所々に浮かぶ血管、その中を流れる血はドス黒く染まり、周辺を蠢くのは体に残る神気とせめぎ合うダークマターだろうか。
ジュリエンヌは我が身より大切な息子が苦しむ姿を見ながら、ベルトラムの口から今まで知らされていなかったことを次々と耳にしていった。
「……以上が今アルバ様の身に起きていることでございます」
「そっか……」
そして説明を聞き終わったジュリエンヌは溜息を一つつき、悲痛な顔をしたベルトラムを安心させるように、にこりと笑いかけた。
「安心していいよベル君。きっとエルザちゃんが助けてくれるから!」
「……そうでございますね」
ベルトラムは短く答え、アルバトールの手を取って握りしめるジュリエンヌと共に、アルバトールを見守る。
いつもの彼ならその笑顔一つだけで明るい気持ちとなれ、周りの雰囲気も和やかなものとなるジュリエンヌの微笑み。
しかし今日ばかりは、その笑顔を見てすら不安が消えることは無かった。
(アルバ様は守るべき民をその手にかけ、自らの罪にさいなまれて堕天寸前。ガブリエルはそれを救う為まさかの転生。尚且つ我らを率いるミカエルは……平然とはしているが、今までの無理がたたってその力は到底ルシフェルに及ばないものとなっている)
アルバトールを成長させる為にあえて困難な旅に出し、必要最低限の助けのみを行い、だがそれに溺れることの無いように基本的には遠くから見つめる。
だがそれ故にミカエルは……エルザは、必要以上の力を消費することとなっていた。
「では、私はアデライード様をお迎えに行ってまいりますジュリエンヌ様。リディアーヌ様との思い出話に華を添える菓子もお持ちしますのでお楽しみに」
「うん! すぐ戻って来てねベル君!」
一礼をして部屋を出て行くベルトラムに手を振るジュリエンヌ。
静かに扉が閉じられると、ジュリエンヌはベッドの傍らでアルバトールを見守るリディアーヌへと近づき、その膝に手を置いた。
「また会えるとは思ってなかったから、あたしとっても嬉しいよリディアーヌ様」
しかし、呼びかけた相手から返事は無い。
静かになった部屋に、次第にしゃくるような軋みが生じ。
どうやら謝罪に聞こえるその声は、程なく泣き声へと変わっていった。
「大丈夫! あたし頑張るから! だからリディアーヌ様は……これからあたしの分まで笑っててね」
ジュリエンヌはそう言ってリディアーヌをギュッと抱きしめる。
そのいつもの笑顔には、いつもよりやや強い意思が籠められていた。
「ベルトラム、お二人の様子はどうでしたか?」
「少しお疲れのようですが、落ち着いてはおられるようですね。司祭様はまだお戻りになられないのですかラファエラ」
「じきにフォルセール候を連れてお戻りになられるでしょう」
先ほど部屋の外に出たベルトラムは、扉を閉めるなり緑色の帽子をかぶった少女より話しかけられる。
その後ろには巨体のバヤールがおり、このような緊急時においても、やはり一見しただけでは彼女に動揺は見られなかった。
(いや……多少は眉間に走るしわが深いものとなっているか)
しかし小さいながらも普段との相違点を見つけたベルトラムは、なぜか妙におかしいものを感じて軽く噴き出してしまう。
「……人になってから、少し変わりましたねウリエルは」
「これも成長と呼んでいいのかは判りませんがね。それでは私は館へ」
そう言うや否や、ベルトラムの姿は空気に溶けるようにして消える。
周りには何人かの尼僧や孤児もいたが、ベルトラムの持つ緋色をした一本の槍の姿を認めていたゆえか、転移を見た全員が不思議にも思わず立ち去っていった。
「行きましょうバヤール。礼拝堂の準備がそろそろ整うはずです」
ラファエラは王都の方角を睨み付けると、バヤールと共にエルザの私室へと向かう。
残された最後の希望を導く存在、天使アルバトールを救い出し、復活したルシフェルを倒すために。
その頃、異変の大元である王都テイレシアの城壁の上では。
[あー、んで? 元のお前さんから分離した力? 高天原から投げ落とされた八雲と? 輝く火の神……迦具土が融合して復活したばかりだから? 魄……あー、要するに見かけと魂がルシフェルに戻りつつある最中ってわけか。難儀なもんだなお前さんも]
[仕方あるまい。俺は元々光の存在だった。そこから闇であるダークマターに穢されて堕ちた後、また天界に戻ろうと色々と手を尽くした。それが仇となったのだろう。まさかこんな異常事態で、無理矢理にこちらに引きずり出されるとは思わなかった]
[異常事態ってあの闇の柱……ダークマターの本性のことか?]
一人の堕天使と一人の旧神が、フェルナンの死体を挟んで座りこみ、話をしていた。
[あれが現れたことと、偶然にも八雲と迦具土が同じ場所にいたことで異常な潮汐力が働いたようだ。巨大な力と魂を持つ二人の神は崩壊し、ダークマターに吸い込まれ、ルシフェルとして再構成されてスイングバイではじき出され、セテルニウスに降臨した]
[スイングバイ? なんだそりゃ?]
[奈落の周辺では時空の歪みが激しく、過去や未来の事象に容易に接触できる。スイングバイはその歪みを利用して得た遥かな未来の知識の一つだ。詳しい説明は後でする]
そこまで話すと、やや八雲より表情が温和で、迦具土よりやや硬めの表情を持つルシフェルは一つ溜息をつき、フェルナンへと視線を落とした。
[ルシフェルになんなんとする……か。まあ成ってしまったものは仕方が無い。大事なのはこれからどうするかだ]
[どうするんだ? ルシフェル]
[既にヤム=ナハルとペイモンに人間の追討を命じてある。本来なら城にいるアスタロトとモートも増援に向かわせるのだが、なぜかモートが打ちひしがれて精神に大きな傷を残していてな。アスタロトは現在その看病につけている]
[そうか]
ルシフェルの説明を聞き、バアル=ゼブルは目を伏せる。
それを見て怪訝そうな表情になるも、ルシフェルは気にせずにバアル=ゼブルへとある命令を下した。
[と言う訳でだ、お前にも人間の……]
[いや、どうするんだ? って聞いたのはな]
[何だ? 話してみろ]
言葉を遮られ、ルシフェルはやや不機嫌となる。
[爺さんの遺体はどうするんだ?]
だが次にバアル=ゼブルが発した言葉を聞いたルシフェルは下を向き、やや考え込む素振りを見せ。
[……お前が団長の家に連れて帰れば良かろう]
そしてそのように魔族の指導者たるルシフェルがのたまうと、途端に二人の間で醜い言い争いが始まったのだった。
[いや、お前さん元自警団の副団長だろ? お前行けよ]
[いやいや、俺はもう八雲でも迦具土でもなくルシフェルなのだから関係ないだろう。魔族の指導者として命じる行ってこいバアル=ゼブル]
[いやいやいや、つーか俺は爺さんの遺体の崩壊を差し止める大魔術を使ったばかりで魔力の残りが少ない……]
[この時期にそんな物が必要なわけがないだろう。せいぜいが死斑を抑えるために血液の循環を強制的に行うくらいのものだ。誰かに見られた時に誤魔化すためにな]
そこで二人は口をつぐみ、フェルナンの妻エリザベートの顔を脳裏に浮かべた。
[誰かって、誰をだよ……そういや、セファールはどうした? 町の奴らの避難を手伝ってたんだろ? アイツなら爺さんと婆さんの二人とも仲が良かったしうってつけだろ]
数秒ほど経った後、話題を切り替えようとしてか、バアル=ゼブルはすねた子供のような口調で自警団のもう一人の副団長、セファールについてルシフェルに聞く。
だが、その問いに対しての返答はすぐには返ってこなかった。
[おい、ルシフェル?]
[ああ、彼女なら俺の密命を帯びて、人間たちの間に潜入することになっている]
[密命?]
[密命だ。よってお前にもその内容を話すわけにはいかん]
[まぁいいけどよ。お前さんは俺たちの指導者だ。だからお前さんが詮索するなと言うのなら俺は何も聞かねえよ]
[当然だな]
当たり前のように言い放つルシフェルにバアル=ゼブルは肩をすくめ、そしてフェルナンの亡骸の横に膝をつくと、そのまま抱き上げる。
[二人で行くか]
だがそう提案した途端、城壁の下から一人の道化師が姿を現した。
[お前には天使どもの追討のほうが相応しかろう。フェルナンの家には私が行く]
それは先ほどルシフェルが斬り捨てたはずのジョーカーだった。
[ご帰還おめでとうございますルシフェル様。あなた様の復活のサイクルを早めんが為のダークマター召喚だったのですが、まさかその拍子にこちらに降臨されるとは……まさに僥倖、思わぬ幸運でございました]
[……ふん、やはり生きていたか]
祝いの言葉を捧げるジョーカーに対し、吐き捨てるように答えたルシフェルの言葉に、バアル=ゼブルは怪訝な表情をする。
[そいつぁ出来ねえ相談だなジョーカー。それに相応しい、相応しくないで言えば、爺さんを殺した張本人のお前さんが弔問に行く方がよっぽど変な話じゃねえか?]
だが、今はそれを気にしている場合では無かった。
フェルナンを抱えたバアル=ゼブルは、ジョーカーを冷ややかな視線で見つめる。
目の前の堕天使が何を企んでいるかは分からないが、息子二人を相次いで亡くし、更には夫も亡くしてとうとう一人になったあの夫人に、この堕天使が何を言うか分かったものでは無い。
時折、見ているこちらが胸が締め付けられる顔をする、あの老婦人に。
[……判った。お前がフェルナンを連れて帰れジョーカー]
[承知いたしましたルシフェル様]
だが唐突にルシフェルが放った信じられない一言を聞き、バアル=ゼブルは慌てる。
[おいおいおい!? お前さん一体どういうつもりだ!?]
その問いに答えることなく、ルシフェルはジョーカーへ幾つかの確認を取っていた。
[この俺が復活した以上、これからの魔族は俺が率いることとなる]
[勿論でございますルシフェル様]
右手を左胸にあて、ルシフェルにうやうやしく一礼をするジョーカー。
[そして現在の魔族がこの王都テイレシアを本拠地とし、人間たちを支配していると言うことは、人間も俺の支配下に入ると言うことになる]
[……当然でございますな]
やや時間を置いた後、ジョーカーが承諾したのを聞いたルシフェルは、目の前で下げられている頭へと傲然と言い放った。
[よって新しく俺の支配下に入ることになった人間どもは、これより俺の直属とする。魔神どもは今まで通りアバドンが率いろ]
[承知いたしました]
渋々と言った、だが織り込み済みと言った感じのジョーカーの返答。
だがいつまで経っても顔を上げても良いとの声が無いのを不思議に思ったのか、それともルシフェルが他に何か言いたいことがあるのかジョーカーが聞こうとした瞬間。
[だが天魔大戦の最中でもある故、俺も色々と忙しい。よって人間どもを直接に率いるのはジョーカー、お前がやれ]
[……!]
[俺の直属である人間たちの統率。大変だとは思うがよろしく頼むぞ。それと判っているとは思うが……]
やや楽しそうに聞こえるルシフェルの声がその場に響く。
[お前を人間の統率者に任命した以上、おかしなことが人間たちの身に起きればその責任はすべてお前がとることとなる。心してかかることだ]
[勅命、謹んでお受けいたします]
仮面によってその表情は見えぬものの、やや肩を落としたように見えるジョーカーがフェルナンの遺体をバアル=ゼブルより受け取り、静かに城壁の下へと降りていく。
それを見送ったバアル=ゼブルは複雑な表情となり、やや不機嫌そうにルシフェルへと向き直った。
[さっきお前さんがジョーカーに言った、生きていたかって何のことだ?]
[ついさっき奴を斬った。だが生きていた。それだけのことだ]
[斬ったって……物騒な話だなオイ]
[理由は二つ。一つ目はフェルナンを殺せば貴様らを皆殺しにすると八雲が言ったこと]
[ああ、うん]
それを聞いたバアル=ゼブルは、少し嫌な顔をしてルシフェルから一歩体を引く。
[二つ目は奴の正体を知ることだ。そして先ほど奴の身体を斬り、奴が今まで経てきた世界との繋がり、時の流れと切り離すことで、ようやく正体を知ることが出来た]
[おいおい、因果を切り離すなんてそんなこと出来んのかよルシフェル様。しかしそんなことしたらこの世に存在する根源、根拠から引き剥がされて、存在そのものが無かったことに……でも普通にアイツ喋ってたな]
バアル=ゼブルが不思議そうに頭を捻ると、ルシフェルが鋭い視線を遠ざかっていくジョーカーへと向けた。
[つまりあいつはこの世界に根源を持たぬ者。ダークマターより生み出された天使……言わば闇天使だ]
[闇天使ねぇ……向こう側には魔神以外にもそんな奴らがいるってか。つか闇天使とか初耳だが、ジョーカーの他にも居るのか? 今更新しい魔族が増えても名前を憶えるのが面倒だがどうするんだよルシフェル]
ごくりと生唾を飲み込むバアル=ゼブルに、ルシフェルはぽつりと呟く。
[ああ、困ったことに]
[困ったことに?]
[何も起こらん]
[オイ]
半眼となったバアル=ゼブルに、ルシフェルが面倒そうな顔を向ける。
[そもそもあちらの影響を受けた存在は魔神でひとくくりにしていたのに、堕天使に潜り込んだ奴がいたとは想定外だった。しかも何かあったのか、すっかり自分を堕天使の一人だと思い込んでしまっている。ならば波風立てずにそっとしておくほうが得策だ]
[そういやテスタ村でメタトロンと戦ってから、しばらく様子がおかしかったなアイツ]
[ほう、メタトロンか。奴は今どうしているのだ?]
[転生中らしいぜ。それと相反するようにサンダルフォンは復活したがな]
[ふむ、前回の天魔大戦から変化した状況が多過ぎるな。一度王城に戻るぞ]
言い放つや否や、ルシフェルはバアル=ゼブルの返事も待たずに姿を消す。
[やれやれ、何がどうなってるんだかね]
続いて水色の髪が風に舞ったかと思った瞬間、バアル=ゼブルも城壁の上から姿を消していた。
「……では、息子を救うために我が身命を賭けよと?」
「その通りでございますわ。フィリップ候」
そしてその時、フォルセールの東の空ではある儀式の説明が為されていた。
「魔王ルシフェルを打ち倒すための鍵。天使アルバトールの復活のために、フィリップ候とジュリエンヌ様にはその命を賭していただきます」
とうとう復活を遂げた魔王ルシフェルを貫くために。




