第248話 暗雲
街の様子を見ながら城壁を降りたジョーカーが、王城へ戻ろうとした時。
[言っておいたはずだ。皆殺しにすると]
[む……? ぐおッ!?]
彼は背後より何者かから声をかけられると同時に、その姿を赤い霧と転じて消える。
[……ふん、なるほどな]
そして黒髪……いや、日陰ゆえにそう見えるが、良く見れば濃い紫色の髪をした男が不愉快そうに呟くと、冷気すら感じられるほどの輝きを持つ抜き身の剣を振って血潮を吹き飛ばし、城壁の上へと昇る階段へ歩を進めた。
[……誰だ?]
[俺だ]
[誰だよ]
男が登った城壁の上には、バアル=ゼブルが隣に安置されたフェルナンに何かを施術しながら、じっと地平線の一点を見つめながら座っていたが、登ってくる何者かの気配を感じた彼は視線をその男へと移し、不可解そうに眉根を寄せる。
やりとりから推測するに、どうやら紫色の髪をした男はバアル=ゼブルのことを知っているようだが、肝心のバアル=ゼブルは男のことを知らないようだった。
[お前は俺に会ったことがあるはずだぞ、バアル=ゼブルよ]
[あ? ……ああ、お前さんか。何でここに居るんだ? ルシフェル]
だが男が昔のことを思い出させるように呟くと、バアル=ゼブルは目の前の男の正体をようやく思い出したようだった。
魔族の本来の指導者。
かつては光をもたらす者として、主の隣に侍ることを許されていた天使たちの長。
魔王ルシフェルの名を。
そして先ほどバアル=ゼブルが見つめていた先、地平線の更に向こうの森では。
「ねーハニー。ミ……んなが戻ってくるみたいよ」
「ほむ、先頭にミ……えるのはエルザ司祭かの」
エンツォを先頭とした軍の上空で見張りをしていた二人の天使が、彼らの方へ向かってくる軍勢へと視線を向け、その正体を知って多少の驚きを覚えつつ報告をする。
それは王都を取り戻すべく攻め込んだはずのシルヴェールたち。
彼らの後詰めとして森を進んでいたエンツォが率いる軍が、前方でいきなり地面より噴出した泥水、もといカマエルとイオフィエルを発見した驚きから覚めぬうちに起きた想定外の出来事に、森の中はざわめきを見せた。
「うむう、事態はあまり面白くない方向に向かっているかもしれませんな」
報告を受けたエンツォは、口を少々歪めてカマエルに答えると腕を組む。
「ほいほい、エンツォ殿も何かをお感じになられたのかの?」
「然り。と言うより、カラドボルグに宿る数々の戦士の魂が、ですかの」
エンツォが背中の剣を見てそう説明をするのを聞いたカマエルは、とある昔馴染みの一人の戦士を思い出し、僅かながらに感傷に浸る。
だが、今こちらに向かってくる友軍の勢い、そして光の玉より発せられるただならぬ気配を感じては、昔の思い出に浸っている場合では無いことは明白だった。
よってカマエルはエンツォに断りを入れて再び上空へと姿を消し、その光の玉――エルザ――を出迎えに行った。
「カマエル! イオフィエル! この辺りの魔族はどうなっていますか!」
光の玉は二人の天使に近づくとエルザの姿をとり、ひどく慌てた様子で周囲の状況を問いただし始める。
「安全、安心、安定。して、これからはどのように?」
その問いにカマエルが短く答えると、エルザは周囲に視線を巡らせて手を組み、唇に軽く曲げた右の人差し指を当てる。
「……天使アルバトールが堕天しようとしています。私は今からアルストリア城へと飛び、フィリップ候を連れてフォルセールへと戻ります。貴方たちはシルヴェール陛下に着いて、何があろうともあの御方をお守りしてください。例えその身が滅びようとも」
「承知した」
カマエルが力強く即答すると、エルザは再び光の玉と転じて北東へ姿を消した。
「不満そうじゃな」
その姿を見届けた後、カマエルは傍らに浮かぶイオフィエルへと声をかける。
「ううん、あたしは満足してるよ。だってあたしたちは、とっくの昔に別れ別れになっててもおかしくない身の上なんだからさ。それがまだ一緒にいられるのは……」
二人は南西、つまりフォルセール領がある方角へと共に視線を向けた。
「物の見方を変えれば、アスタロトもそれを手助けしたと見えなくもないがの」
「それは無いから」
呆れた顔の前で手をパタパタと振るイオフィエルに、カマエルは苦笑いを浮かべる。
「ほいほい、何にしても受けた恩を返す機会を与えられると言うのは、この上なく名誉なことじゃ。ヘプルクロシアに残ったトゥアハ・デ・ダナーンの同胞の期待に応えるためにも、しっかりとお役目を務めねばのう」
人間であった以前とは違い、天使カマエルとなった今のアガートラームの姿は、旧神としての全盛期だった長い直毛の金髪に、赤い鎧を着こんだものとなっている。
しかしその話しかただけは体に染みついてしまったものであるために、そうそう簡単に変えられるものでは無いようだった。
「過去の不幸な出来事を遺恨とするか、良き思い出とするか……」
遠くから迫りくるのは旧神ヤム=ナハル、上級魔神ペイモン。
そして彼らが率いる魔族の数を見たカマエルは、知らず知らずのうちにダインスレイフを持つ手に力を籠める。
「その分かれ目、この一戦に有り。行くぞイオフィエル」
「それじゃ下に居る陛下たちにも知らせないとね。でっかい花火あげちゃうよ!」
イオフィエルはそう言うと天に向けた人差し指に力を籠めて、こちらに向かってくる魔族へと力強く振り下ろす。
「ヘルズ・ライトニング!」
天の四方より集まってきた稲光が、たちまちにして周囲を轟音でつんざく。
彼女たちに向かってくる魔族に撃ち込まれたそれらすべてが、遥か手前であらぬ方向へと転換したのを見たアガートラームは、魔族の先頭を飛ぶ老人へと斬りかかる。
だがダインスレイフすら弾き返されたのを見た彼は、冷や汗をかいてその老人ヤム=ナハルへ語り掛けた。
「ほむり。龍神の監視も天使の勤めとは聞いていたが、まさか討伐の任まで遂行せねばならぬ事態になるとは思っておらんかったわい。のう、ヤム=ナハル」
[昔ティアちゃんが世話になったらしいが、恩着せがましいことを言って付け入ろうとしないところを見ると、どうやら噂とはだいぶ違う性格のようじゃなアガートラーム]
「遺恨を持っていた強敵と再会し、不幸な出来事は良き思い出と変化した。ただそれだけのことじゃよ。ほっほ」
二人が話している間にも、下に広がる森を礎とした結界が構築され、彼らから離れた所ではイオフィエルとペイモンの戦いが始まっていた。
「ではワシらも始めるとするか。不死身の龍帝と称されるお主の真偽、このダインスレイフでしかと確かめさせてもらうぞ。旧神アガートラーム改め、天使カマエル参る」
[やれやれ、こちらは先ほどまでエルザと死闘を繰り広げていたと言うのに、あの怠け者のせいで休む暇も無しじゃ。それでは行くぞ、天使カマエルよ]
そして戦いは王都から領境付近の森へと場所を移し、その規模は王城の堅牢な結界が無くなったことによって、先ほどよりも大きいものと変化していった。
(陛下……ご武運を!)
遠くで始まった戦いに、魔族、テイレシアともに徐々に犠牲が増えていくのを感じ取りながら、エルザはアルストリア城へと飛んでいく。
(闇の柱、ダークマターが王城から立ち昇った瞬間に感じ取ったあの気配は、間違いなくルシフェル。今までの紛い物とは違う本物のルシフェルが、どうしてこの時、あの場所に居たのか……!)
エルザは焦りを隠そうともせずにそのままアルストリア城へと降り立ち、正体を聞いてくる兵士たちへ自らの身分を告げるとそのまま中へ入ろうとする。
だがあまりに性急すぎるその振る舞いを怪しみ、止めようとする兵士たちを見たエルザは彼らを一喝すると、自分へ向けてくる槍を一瞬で光の粒子と変え、城の中へと早足に入り込んでいった。
(経緯は分かりませんが、王都でルシフェルが復活したのは事実。ならば天使アルバトールを救済してルシフェルにぶつけ、勝利して貰って彼にルシフェル以上の存在、主の御業を手伝えるほどの力を身に着けてもらわねば、世界は永劫に堂々巡りのまま)
エルザが歩いている間に非常事態の鐘が鳴らされ、城の中は一気に緊張が高まる。
そんな中、彼女は集まってくる兵士を無力化しながらついに大きな二枚扉の前へと立ち、即座に押し開くとその中に集まった人々の一人を緊張した眼差しで見つめた。
「一大事でございますフォルセール候。ただちに城へお戻りくださいませ」
中に居る人々が揃って腰の剣に手を伸ばしている中、ただ一人苦笑を浮かべていた人物、フィリップはそれを聞いて目を見開く。
「……陛下のご意向や如何に?」
そして彼は、私人ではなく公人としての返答を口にしていた。
「事は性急を極めます。またこれは国ではなく教会の、引いては天魔大戦の行く末に関わること。よって陛下の判断は求める必要はありませんわ」
敢えてエルザは詳細を口にせず、フィリップを見つめる。
「しかし私は……」
その目を見て何かを察し、だが未だ決心に至れずに迷うフィリップ。
「問題ありませぬフィリップ候。それとも我ら兄弟がそれほど信用できぬと?」
パーヴェルとニコライの二人がいる故に少々つっけんどんではあるものの、その背中を押して送り出したのはジルベール。
「フィリップ候のありがたき教え、このエクトルしかと実践して御覧に入れましょう」
そしてエクトル。
「一大事と聞いて、尚フィリップ候をアルストリアに押し留めておいては後で我々が陛下に叱責を受けることとなりましょう。ミュール家に於いて、それは挽回しがたき失態となることは間違いありません。なにとぞフォルセールにお戻りくださいませ」
最後にジルダの説得を聞き、フィリップは顔を歪ませる。
「我が全力を以って事態の収拾にあたり、手段を尽くして迅速に戻ってまいりましょう。決して結論をあせることなく……」
「時は決して逆しまに回ることはありませぬ。一刻も早く出立を。このアルストリアを治めるミュール家を信じてもらいましょう」
口上を述べるフィリップを見たジルベールは、その未練を断ち切るかのように力強く頷き、そして手を差し出して小声で別れの言葉を述べた。
「もはや事態は変容を遂げました。うつけとの印象がどこまでヴェイラーグに通用するかは分かりませぬが……再び会う日を心待ちにしております」
その言葉に見送られ、フィリップとエルザは扉の向こうへと姿を消した。
「フィリップ候を送り出してよろしかったのかな? ジルベール殿。我々としては候が居ない方が交渉がやりやすいし、歓迎すべきことだがな」
「まったくですな。それにしてもこの我々との交渉を差し置いて一大事とは、テイレシアもいよいよ長くはないのではありませんか? ジルベール殿」
突然の乱入者に中断された、アルストリア領とヴェイラーグ帝国の和平交渉。
まさか自分たちとの和平交渉の間に、魔族との戦いが始められていたとは知らなかったパーヴェル、そしてニコライは、何かの罠なのかと疑いの目をジルベールに向ける。
「我らは国の存続に、また地域の平安に力を尽くすべき存在。国の一大事と聞いて、その解決にあたらぬような役立たずでは無い。そうではありませんか? パーヴェル殿」
「これは一本取られたな。確かに我らは賊とは違う。フェストリアと我が国との国境で暴れ回っていた奴らとはな」
「そう。昔から我が領地も、辺境に現れては強奪を行う賊どもに悩まされたものです」
何の気なしに発せられたジルベールの発言に、ヴェイラーグ帝国の二人は気色ばむ。
「今の侮辱聞き捨てならんぞジルベール殿! テイレシアは我らが賊を装ってアルストリアの民衆を害してきたとでも言いたいのか!」
激高したパーヴェルの前に立ちはだかったのは、あの気の弱いエクトルだった。
「パーヴェル殿。ヴェイラーグ帝国では、食い詰めた民が賊とならぬ保証があるのですか? 我が姉ジルダより聞いた話によればそれらを放置、むしろ裏で推奨すらしている節が見受けられたとのことですが」
エクトルの指摘を聞いたニコライの顔が若干歪んだのを見て、パーヴェルは疑いの目を隣にいる信頼できぬ臣下に送るが、この場においては彼は仲間であった。
「一片の紙で得られた情報は、時に一軍の戦力に勝る」
続けてエクトルが呟いた言葉を耳にしたパーヴェルは、我知らずの内に歯噛みをして目の前の少年を睨み付ける。
が、その時パーヴェルを庇うかのように、彼の目の前に一人の人影が進み出でる。
「いいでしょう。そちらがその気なら、こちらとしても交渉を再開するに何の不満もありません」
「ニコライ……」
動揺を包み隠し、再び平然とした態度を取り戻したに見えるニコライは、先ほどまで話していた条件を書いた紙を書記より受け取り、下卑た笑みを浮かべた。
「しかし先代のガスパール伯もそうですが、昨今のアルストリアは散財が過ぎるのではありませんか? いくら民がいても、耕す畑が余っているわけでは無いでしょうに。そんな役立たず共のために貴重な財を使うとは、馬鹿らしくありませんか?」
そして持っている紙をヒラヒラと馬鹿にしたようにはためかせるニコライに、ジルベールは不敵な表情で、その非礼を断じるように力強く言葉を発した。
「財を産むは人、財を使うも人。ゆえに財が産み出す欲に、断じて人が使われるようなことがあってはならぬ」
その言葉にニコライは動きを止め、パーヴェルすら気圧されたように目を見開く。
「貴方たちの目には、我々は何も知らぬ若造に見えましょう。ですがその中には先人の教え、賢人の戒めが脈々と流れている」
「男子三日あわざれば刮目して見よ……でしたか兄上」
微笑むエクトルにジルベールもまた笑みを浮かべ、ジルダは二人を頼もしそうに見つめた後に空へと思いをきたす。
(アルストリアを、テイレシアを……そしてアルバトール殿をお守りください父上)
「では始めましょう。二国の間に平和をもたらすための話し合いを」
「……承知した」
自分たちより遥かに年下であるはずのジルベールとエクトル。
フィリップが居なくなったことにより、一気に彼らの優勢になるはずだった交渉の機先を制され、パーヴェルとニコライは動揺を隠せないままに同意をする。
そして交渉はジルベールたちの優勢に進められるも、決してその進行は早い物ではなく、窓の外では雪がちらつきまじめ。
「アル君!?」
舞台は暗雲漂うフォルセールへと場所を移すこととなる。




