第242話 開かれた扉
守られているはずだった。
「自警団の副団長、そして魔族のバアル=ゼブルに話はしてある」
城に働きに出る時、確かにブライアンはそう言った。
だが現実は違っていた。
[バイバイ]
守ってくれるはずの堕天使は――つい先ほど濁流から守ってくれたはずの堕天使は――笑顔で自分を再び濁流へ放り込み、助けてくれるはずの副団長やブライアンはこの場におらず、上空に浮かぶエルザへ救いを求めてもその手は差し伸べられなかった。
そして自分を慈しみ、育ててくれた両親も既にこの世にいない。
――タスケテ――
それでも子供が助けを求めると、すぐに何者かの気配は現れた。
コチ ラ ガワ ニ オイ デ
その気配は誰にでも来る平等な結果、苦しみからの解放、あるいは救いを与える死神の手を子供の魂から叩き落すと、短くそう言ったのだった。
「怯むな! たかが魔物一体だ!」
突如として堀の中から現れ、襲いかかってきた白い大猿に対し、素早く斬りかかっていくテイレシアの騎士たち。
その姿を遠目で見ながら。
あっと言う間に体中に傷がつき、倒れていく大猿……子供を見ながら。
(アルバ……お前がここに居れば……)
シルヴェールは自分の決断が招いた結果に茫然と立ちすくみ、自分でも知らず知らずのうちに腰に下げたジョワユーズの柄を、折れよとばかりに握りしめたその時。
――救済の道を求めますか、若き王よ――
頭蓋が溶けてしまったのかと思うほどに、柔らかく優しい声が頭の中に響き渡り。
そしてジョワユーズの柄を持つ左手に灼熱の波動が宿り、全身に拡がっていく。
――ダークマターを退け、絶望の闇を希望の光と変える奇跡をあの魔物へ――
そして全身が浮き上がるような力に満たされたシルヴェールは、周囲の制止を振り切って前方の魔物へと駆けだしていった。
そしてシルヴェールが声を聞いていた頃。
≪はや……子供……魔……≫
≪最善を尽くします! 待っていてくださいエルザ司祭!≫
数々の光、轟音、爆風が乱れ飛ぶ領境の森に、アルバトールは到着していた。
(クッ……! 聖霊の偏在が始まっている! これでは念話が!)
そしてここで戦っているベルトラムたちに連絡を取ろうとするが、激しい戦闘で法術が既に幾度も使われているのか、念話が通じないことに気付いた彼は術で声を張り上げて連絡を取ろうとする。
だが返って来たのは返事ではなく、木々の間から彼に向かって放たれた数条の光。
「こちらが派遣したのは少数だし仕方が無いか!」
それらをフラム・ブランシュで絡めとり、光の剣で弾き返したアルバトールは、自分に向かって攻撃を仕掛けてきた上位魔神たちに同情しつつ、彼らを瞬時に葬り去る。
「ベルトラム! バヤール! ついでにガビー! どこにいるんだ!」
そしてアルバトールは叫びを上げつつ、木々の間を走り回って仲間の姿を探した。
(隠し通路の中では力が落ち、飛行術はおろか精神魔術すら上手く使えない。また王族以外の者が通ろうとすれば罠が発動し、下手をすればそのまま通路の中で朽ち果てる)
疾走する彼に、再び木々の間からイルカに似た水の攻撃が放たれ、だがそれらを一気に切り伏せたアルバトールは、そちらに向けて数十を超えるフラム・フォイユをまとめて撃ち込んで沈黙させる。
(よってその通路を突破するには、神馬であるバヤールの力が必要不可欠……! どこにいるんだバヤール!)
反撃が来ないのを確認したアルバトールは背中を向け。
「ちょ……っと……アンタあたし……に……」
流れ弾がアルバトールに当たりそうになり、慌てて飛び出した為に反撃のフラム・フォイユが直撃したガビーを残し、彼は遠くへ姿を消した。
[やれやれ、ようやくおいでなすったか]
そして遠くで水色の長い髪を持つ男が呟き。
[思ったより早く再戦の機会が訪れたか。少々複雑な心境ではあるがな]
頭頂の辺りで黒髪をまとめ、背中に流している少女が首を振る。
彼らが動きを見せた途端、大地は震え、空が呻き、森は嘆き始め。
「どうやら我が主の到着のようだな」
魔神たちを引きつれ、数時間ほど森の中を走り回っていたバヤールが、一筋の息の乱れも見せずにニタリと笑みを浮かべる。
バヤールは唸る風のみをその場に残して更に速度を上げ、追ってくる魔神たちを引き離すと彼女の主人と合流をすべく咆哮を上げた。
「随分とこちらの領境は賑やかなようだ! これならエンツォ殿は楽に退路が確保できそうだな!」
やがて絶え間なく魔族の攻撃を受けるようになったアルバトールは、少々足を止めてフラム・フォレを展開し、炎の領域を展開して魔族を一網打尽にする。
「この声は……西か!」
そして大気を割いて耳に届いたバヤールの嘶きを聞き、アルバトールが移動を開始しようとした時、何かが北東の方角から木々をなぎ倒しながら彼に襲い掛かる。
「フラム・ブランシェ!」
黒い硬質な鱗を持つ大蛇にも似たその攻撃を、炎の枝が貫いて沈黙させると、続いて上空から透明感を持つ炎を噴き出す剣が、それを持つ少女がアルバトールに迫った。
[久しぶりだな天使よ!]
「アナトか!」
アルバトールが持つ光の剣と、アナトが持つ神剣レーヴァテインがぶつかり合い、せめぎ合い、生じた余波が周囲の木々を両者の威にひれ伏させる。
「この……力! ポセイドーンの祭壇で戦った時より更に腕を上げたようだな!」
[ふん! 癪なことだがこの力は私ではなくこの剣に由来する物! 神剣レーヴァテインによるものだ!]
「レーヴァテイン!? ……うおっ!?」
次の瞬間アルバトールは吹き飛ばされ、代わりに彼が立っていた位置に黒髪を舞い上がらせながらアナトが降り立つ。
[ほんの一部ではあるが、まだ聖霊がこの世界に満ちる前、法則が世界を支配する前の威を、剣の持ち主に取り戻させてくれる神剣よ]
「……なるほど、剣身に光るその文字……どこかで見た覚えがあると思ったら失われた古代文字、ルーンか」
[現在に意味は残れど過去の意義は無し。しかしこの神剣レーヴァテインに刻まれた物は残滓を今に残すそれらとはまるで別物だ。混沌の時代の情景をそのままに表すため作られたルーンの力、その身で思い知れ天使よ!]
だがアナトがレーヴァテインを振りかざしたその時。
「残念だけど、今は君と戦っている場合じゃないんだ」
大量のフラム・フォレがアルバトールとアナトの間に湧き上がり、視野を遮る。
「迎えに参上しましたぞ! 我が主!」
「これ以上ないタイミングだバヤール!」
その隙に乗じたアルバトールは、バヤールに跨ってその場から逃げ去り、当然アナトはその後を追おうとしたが。
[待て天使よ! ……何ッ!?]
彼女の視界を四方八方から撃ち込まれた熱線が埋め尽くし、アナトは自分の意思以外、他者の意思の介入によって前に進もうとした足を止めさせられてしまう。
「それはこちらの台詞ですよアナト」
続いて一人の銀髪の男が疾風の如き速さで現れ、涼しい顔で槍の連撃を繰り出し、その攻撃に耐えきれずアナトは先ほどのアルバトールのように吹き飛ばされていた。
[とうとう姿を見せたか。炎の槍を持つ男よ]
「見せずばなりますまい。主人の邪魔をする不埒な輩が現れたのですからな」
緋色に輝く一本の槍を携え、執事服を着たその男ベルトラムは、中腰にピサールの毒槍を構えると、アナトへ微笑んでそう言ったのだった。
≪どちらに向かわれますか我が主!≫
≪向かうは隠し通路の入り口! ここより北に向かった所だ!≫
バヤールに跨り、隠し通路へ突き進むアルバトール。
後ろからアナトの追撃が来ないことを、少しも不思議に思わずに。
(頼んだよベルトラム!)
何故ならここには彼が全幅の信頼を置くベルトラム、そして。
「やっと見つけたわよアルバ! アンタさっきはしびゃああああ!?」
突き進んでいたバヤールが、横からいきなり飛び出してきたナニかを吹き飛ばす。
≪はて、ガビーが居たような≫
≪彼女が痛い目に遭うのはいつものことだ放っておきたまえ。ってメタトロンが前に言ってたから大丈夫だろう。それよりもうすぐ隠し通路がある……!? 何だあれは!≫
バヤール、ベルトラムと共に陽動のために派遣されていたガビーの力を信用し、後事を託して突き進むアルバトールの遥か前方に、複雑に捻じれた草木の姿が目に入る。
(あれは……まさか王城と同じ時空の捻じれか! どうしてこんなことに!?)
アルバは目の前に起きている異変に思考が追いつかず、思わずバヤールの手綱を引いてその速度を落としてしまう。
≪我が主! 上に何者かの気配が!≫
そしてその動揺を見逃さない恐るべき敵が、アナト以外にもこの森には居たのだ。
[元気そうで何よりだアルバトールそして死ね]
大気を引き裂く雷鳴、それすら追いつかない速度で迫る稲光。
「毎度のことながら、実にいいタイミングで現れるな君は!」
フラム・ブランシェで、あるいはバヤールとの息を合わせた騎乗で、アルバトールはすべてのヤグルシを避けると上を睨み付ける。
そこには天空に溶け込むような、青い髪と白い肌を持つ旧神の姿があった。
[それが神様って奴だからな]
闇の風、旧神バアル=ゼブル。
風の矛、マイムールを右手に持つ暴風神が、後ろに数々の精霊の光を浮かばせながら彼らに迫っていた。
「君に構っている暇は無い! こうしている間にも……」
[そっちに無くてもこっちに有りゃあ十分だろ! 子供じゃあるまいし、やるべきことから逃げ出すのは良くねえぜ!]
天空より大地に向けて次々と落ちてくる轟雷。
たまらずアルバトールは隠し通路へ向かう進路から外れ、バアル=ゼブルを迎え撃つべく森の中へと逃げ込んでいく。
[どうしたアルバトール! 今日はやけに大人しいじゃねえ……かッ!?]
その後を追い、森の中へ飛び込もうとしたバアル=ゼブルの脇を一本の矢が通り過ぎ、地面へと着弾したそれが大爆発を起こして大量の土砂を巻き上げると同時に威勢のいい、だが幼い女の子の声が森に木霊した。
「待たせたなアルバ! 助けに来てやったぜ!」
「その声は! アルテミス……? だよね?」
アルバトールが空を見上げれば、そこには一頭のペガサスに乗り、なぜか何者かの手で目隠しをされたアルテミス。
「個人の正体を追及しないその呼びかけ! なかなかに節度を守ったいい挨拶だよアルバトール君!」
そして巨大な熊の毛皮を着こみ、両手をアルテミスの顔に回している何者かが彼女の後ろに居た。
[なッ……! アルテミスって言やあオリュンポス十二神の一人じゃねえか! 天魔大戦には中立、不介入を決め込んでたはずのテメエらが何でここに居るんだ!]
驚きを隠そうともせずに叫ぶバアル=ゼブル。
だがその驚きは、アルテミスの一言によってすぐに混乱へと変化した。
「宴会芸の練習」
[……は?]
「いやだからさ、宴会で出す余興の練習」
[何だそれまったく意味が分かんねえんだが。おいアルバトール通訳……いねえ]
アルテミスの言っていることが理解できず、更には説明を求めようとしたアルバトールがいつの間にか姿を消していたことに気付き、途方に暮れるバアル=ゼブル。
自分の置かれた状況がまったく把握できずに弱った彼へ、救済の手を差し伸べたのは熊の毛皮に包まれた謎の男だった。
「私が説明してやろう。どこかで見たような顔のバアル=ゼブル君。我々がオリュンポス神殿で一年中宴を開いていることは君も知っていると思うが……」
[つまりその宴で出すのが俺に向けて次々と矢を撃ち込んでくることかよ危ねえ!]
この時バアル=ゼブルに矢を撃ち込んでいるのはアルテミスなのだが、どうもその狙いを定めているのは後ろにいる熊の毛皮を被った何者かのようだった。
「その昔、我々の神殿にネクタールを求めてやってきた客人が見せてくれた宴会芸でね。東方では二人羽織と言う芸らしいのだが、これがなかなかに危険な芸でね。矢を撃つ人間は前が見えないから、的を外してどこか他に矢が飛ぶことがあるんだよ」
[あー、東方ね……八雲のヤロウ、後できっちり問い詰めてやるからな……つーかアルテミスだっけか? お前さっきアルバトールに助けに来たぞって言ってたよな?]
「劇だからな」
[そうか、劇じゃあしょうがねえ……おいやっぱり意味が分かんねえぞ! アルバトールどこ行ったテメエ! まさかヘプルクロシアに向かう船でティアマトの相手を押し付けた時の意趣返しじゃねえだろうなオイ! 返事しろオルアアアァァァァァ!]
だが既にその時、アルバトールは万難を排してガビーと共に隠し通路へ迫っていた。
「で、吹き飛ばされた先でアルテミスとアポロンに拾われたってわけか」
「うん。それでその時にこれ渡してくれって言われたのよ」
一本のオークの木を渡されたアルバトールは、それを手にすると同時に一つの決意を顔に表し、少し焦げた個所を残すガビーにしっかり捕まっているように告げた。
「行くぞバヤール」
そして彼は、隠し通路へと向かう。
周囲にいる魔神から彼に突き刺さっていく攻撃を防ぎもせず。
ただバヤールと協力して施した、身体強化術によって得た速度のみで交わし。
「見えてきたわよアルバ」
視界は次第に木々の緑と大地の茶が混じり、天空の青と先ほどから繰り広げられている戦闘によって燃えている炎の赤がそれに加わっていく。
「混沌をすべて切り裂き、通路の入り口を開く! 見極めよ世界の奈辺までをも見通すメタトロンの眼よ! 我が名は熾天使アルバトール也!」
アルバトールは叫び、孔雀の羽根のようなメタトロンの瞳を展開させ。
(……ダメだ。三千世界に通じる複雑に入り乱れた時空の歪みに加えて、その繋がりは刻一刻と変化している……! 今の僕ではそのすべての繋がりを同時に切り離すことは出来ない!)
そしてその複雑さに絶望する。
例え一つでも残せば、それは他の世界が切り離される力に釣られてこの物質界にも多大な影響を及ぼすことは必然。
アルバトールが自分の非力さに歯噛みをした時。
(まぁ、一人ででけんこともあるっちゅうこっちゃ。ワシも十二神だけやのうて、キュクロープスの手を借りなんだら、今もこうしてのんびり出来んやったやろしな。そんまま眼ぇ見開いて、前を見とくんやでボン!)
オークの木は語り始め、途端に時は緩やかに……いや、アルバトールの時は急速に進み始め、比して周りの時間の進みは緩やかな物となる。
「これは……」
――必然、時空の歪み、揺らぎ、繋がりも彼の眼に捉えられるようになり――
「礼は後程させてもらうぞゼウス! フラム・フォイユ!」
アルバトールの叫びと共に、無数の炎の葉が前方で揺らぐ草木、時空の捻じれ、かのゴルディオスの結び目すら比べ物にならない程の複雑さを持つ、無数の異次元の繋がりをすべて切り裂く。
――幸運を――
そのゼウスの呟きと共に、一見元に戻った前方の草木に一本の切れ目が現れる。
天と地の間に真っ直ぐに走るその光へ向けて、アルバトールは光の剣を向けた。
「隠し通路へ突入する! テイレシアを救うために! 行くぞ皆!」
途端に光の剣は光を増し、光の槍と化し。
≪おお……この全身に漲る力よ……! 行きますぞ! 我が主!≫
光の槍が貫き、ぽかりと空いた隠し通路の入口へ彼らは突入していった。




