第20-1話 詰め所の赤鬼
色々とあった宴の後にも色々なことがあった次の日。
アルバトールは鎧の下に着る肌着を、騎士団の詰所に取りに向かっていた。
聞けば天使の叙階は、騎士の叙勲と進行形式がほぼ同じであるらしく、その場合は祝福を受けた剣と盾と鎧を受け取ることとなる。
従って鎧の下に肌着ではなく、飾りの多い正装を着て叙階に臨めば、鎧の継ぎ目などで服がボロボロになってしまう恐れがあった。
剣はすでに教会に預けており、鎧と盾は詰所から運搬されているはずなので、後は肌着を持っていけばいいだけだったのだが。
(なんだ……? 詰所にいる人間が、建物ごと凍りついたようなこの雰囲気は)
彼がほぼ一週間ぶりに見た詰所は、いつもと違った様相を見せていた。
「詰所に定休日は無いんだけどな」
そう言いながら、彼は周囲に気を配りつつ門をくぐる。
廊下を歩く者はおろか、響いてくる声や音も無し。
良く言えば仕事に没頭していると言え、悪く言えば……。
(まるで無人のようだ……扉の向こうに人の気配はあるし、物音も時折聞こえてくる。だけど人が生を営んでいるものじゃない。まるで死人の町みたいだ)
我知らず腰に手をやった彼は、剣を教会に預けたことを後悔する。
まさかフォルセールの中で最も安全な場所の一つである騎士団の詰所で、生命の危険を感じるような状況に陥るとは思っていなかったのだ。
(この時間はエレーヌ殿とアラン殿がいるはずだが……そう言えばアラン殿やブライアンは無事に出勤できたのか? 昨日はかなり飲んでいたようだが)
昨日エンツォと繁華街に出かけた時、アランの他に何名か騎士団の者たちも合流したのだが、ブライアンはその中の一人である。
アルバトール隊の副隊長であり、また年齢が近いこともあって、彼は普段より懇意にしている。
このたび天使になり、騎士団の任務から遠ざかるであろうアルバトールに代わって、隊長に昇格する予定になっていた。
(肌着は一応あったが……、これは状況を確認したほうがいいか)
そして、彼はその判断が誤っていたことをすぐに思い知る。
アルバトールは支給された装備が置いてある更衣室を出ると、隊長室へ通じる廊下を足早に駆け抜ける。
程なく目当ての部屋の前についた彼は、注意深く扉を開けて中の様子を伺った。
「ん? どうしたアルバトール。今日は天使の叙階を受ける日だろう」
中にはアラン一人しかおらず、エレーヌやブライアンの姿は見えない。
「少し用がありまして。エレーヌ小隊長とブライアンがいないようですが、何かあったのでしょうか?」
その問いに対し、アランは明らかに作った笑顔で答える。
「二人は少し席を外している。おおそうだ、立ち話もなんだし少し座ってはどうだ? 叙階まではまだ時間があるのだろう?」
そう言ってアランは隣の席、つまりアルバトールが使っている席を指して話に誘う。
「ええ、叙階に使う肌着を一着取りにきたので、その旨をエレーヌ小隊長に伝えようと思ったのですが」
だがアランは、アルバトールと目線を合わせようとはしなかった。
「そうか。天使になるか……つい先日まで卿とは普通に話せた間柄だったのに、月日とは残酷なものだ」
「私の性格まで変わったわけではありませんよ。それともアラン殿は、私と普通に話せない理由でもおつくりになったのですか?」
アルバトールが冗談のつもりで言ったその問いに、アランは顔を曇らせるだけで答えようとはしない。
アランは何かを隠している。
そう直感したアルバトールが再び口を開こうとした時。
「こんな所で何をしているアルバトール。今日は天使叙階の日だろう」
背後から聞こえてきた声に振り向けば、そこには怒気を押し殺した様子のエレーヌと、うつろな眼をしたブライアンが立っていた。
(正体を無くしたブライアンの眼……、そしてエレーヌ殿のこの形相……まさか)
アルバトールは直感で、起こりえない事態が起きていると察する。
(まさかエレーヌ小隊長、まだアレの最中なのか!?)
そして彼は、自分の出した推論で全身に冷や汗をにじませていた。
エレーヌが未だ月のモノの最中であるのなら、詰所に漂っているこの雰囲気にも納得がいく。
誰も彼もがエレーヌを恐れ、自分の存在を彼女から隠そうとしていたのだ。
(まさか、先ほどのアラン殿の思わせぶりな発言も……?)
アルバトールが横目でアランを見ると、既に彼は目を逸らしていた。
(あああ! やっぱり! 僕を仲間に引きずり込むために意味深な発言をしたな!?)
スケープゴート。
アルバトールは、エレーヌに捧げられる生贄に選ばれたのだ。
(完全に油断していた。あの日から修業の期間を経てはや一週間。まだエレーヌ殿が暁仕様だとは誰が思うだろうかいやない。……詰所の中や二人の様子がおかしいのは、すべてエレーヌ殿が原因か)
アルバトールは素早く周囲を見回し、逃亡ルートの確保を企てる。
(とにかく何とかして逃げ出すしかない。幸いエレーヌ殿は今日が僕の叙階の日だと知っているようだし、何とかなるだろう。……やれやれ、エレーヌ殿も機嫌がいい時に見せる笑顔は、エステル夫人に勝るとも劣らない美しさなんだけどな)
アルバトールはその場を立ち去るべく、机の上に投げ出していた手を引き寄せて立ち上がろうとする。
その際に何か柔らかい感触の物も引き寄せた彼は、何かと思って手の先を見る。
それは普通に赤く染められたリボンであった。
(これ……は……!?)
アルバトールは思わずリボンを触った手を見るが、そこには何も付いていない。
アランやブライアンを見ても、負傷している様子は無かった。
だがリボンは赤い。
何度見てもそれは間違いなく普通に赤いリボンであった。
これが持つ意味、それは……。
(昨日の夜、皆と行った女性と楽しくお酒が飲める店で、アニーって娘から貰ったリボンじゃないか! ブライアンに渡したはずのこれが、どうして僕の机の上に!?)
彼はそっとエレーヌの方を盗み見る。
(あ、怖い)
そこには一層凄惨さを増したエレーヌの顔と、殺気と言う見えぬ刃を首に突き付けられて涙目のブライアン、そして敵前逃亡は許さんと言いたげなアランの顔があった。
「……エレーヌ小隊長」
「どうしたのだアルバトール。何か事件でも起きたのか?」
「いえ、その……叙階に肌着を使うようなので、使用の報告をしようかと」
「お前に支給された物の使用許可をか? その必要は無いだろう」
エレーヌはそう言うと、アルバトールを見透かすように目を細める。
「やはり何かあったのではないか? うん? それとも"たった今"何か起きたのか?」
そんなエレーヌの口から発せられたのは、心の臓にスッと刺しこまれる言葉だった。
(さて、どうする……神聖なる叙階の前日に、宴の後に続けて女性といい感じになれる店に行った事実を、もしエレーヌ殿が知っているなら……)
アルバトールはその感触に冷や汗を流しつつ、この場を切り抜ける方法を考える。
もし叙階に遅れれば、彼にはこれ以上の恐怖が身に降りかかるのだから。
(下手に会話を持ちかければヤブ蛇。かと言って何事もなかったようにこの場を去れば、暁期間のエレーヌ殿に背中を向けることになる)
アルバトールは現状を分析する。
(クッ! あの時アニーの谷間に気を取られなければ!)
そして少々反省をした後、彼は二人の師が教えてくれた戦場の心構えを思い出しながら、それを死地を切り抜けるための方策へと練り上げようとする。
まず最初はエンツォ。
(戦場ではとにかく最後まで油断しない、諦めないことが肝要。生物に急所があり、そこを突いて形勢逆転することが出来る以上、優勢劣勢などは無視して良いもの。最期まで冷静に観察をして、隙を探す。戦場で一番怖いのはそんな敵ですな)
全身に傷が走る彼の教えは、窮地においても冷静であれと言うもの。
(反して自暴自棄、ヤケクソはいけません。大抵の人間は追い詰められると単純な攻撃をしてきたり、逃亡したりなど、非常にその行動が読みやすくなります。火事場のクソ力などと申しますが、多少力が強くなったくらいでは何ともなりませんな)
そしてベルナール。
(敵を知り、己を知れば百戦危うからず。まさに至宝と言うべき言葉だよ。敵にどれほどの戦力があるか。兵士が作戦を理解し、遂行できる錬度を持っているか。戦える期間はどのくらいの長さなのか。こちらの情報はどの程度まで知っているか。などなど)
こちらは情報の重要性である。
(敵を知れば対策が立てられる。それは自分たちに関する情報も同様だ。どのような戦略を立て、どんな戦術が必要か。攻めるか、守るか。外交を駆使して同盟に持ち込み、その間に内政に打ち込んで対抗できる戦力を持つか、などなど)
その教えはいつも、ベルナールの誇らしげな顔と共に思い出される。
(情報は努力次第で誰にでも身に着けることができ、使いこなせば未来を見通すことも操ることもできる。その効果はこの世に存在するどの術にも決して負けてはいない)
最後はこう締めくくられていた。
(私は思うのだ。情報とは、知恵の身を食した人間に与えられた魔術なのだと)
そこまで思い出したアルバトールは、ある行動でエレーヌを試すことを決意する。
(僕が店に行ったことを知っていれば、エレーヌ殿の性格であれば真っ先に糾弾してくるはず。おそらく僕が行ったことはバレていないはずだ)
アルバトールは、自分の机の上にあったリボンをつまみ上げる。
(だが下手に話して探りを入れれば、エレーヌ殿に言質をとられることもあり得る。よし! まずはこの物証であるリボンを消滅させ、エレーヌ殿の反応を見る!)
そして殊更に怪訝な顔を作ってみせ、周囲にいる三人の顔を見渡した後、彼はそのままごみ箱にリボンを捨てた。
エレーヌの反応は無し。
アランはお菓子を取り上げられたジュリエンヌのような顔となるも、特に動かず。
この場にいる中で、劇的な変化を遂げたのはブライアンであった。
「あああああああ!! アニーちゃんから貰った大事なリボンがあああああ!!!」
つい先ほどまで呆けていた顔には突如として生気が戻り、同時にごみ箱に駆け寄った彼は、ごみ箱からリボンを救い出して胸に掻き抱く。
「何をするんですか隊長! 次にお店へ行く時にこのリボンを持っていけば、優先的にアニーちゃんを呼んでもらえるんですよ!」
途端にエレーヌから殺気が消える。
(おや)
何故エレーヌの殺気が消えたのか。
理解できない成り行きではあったが、とりあえずこの部屋に訪れた平和にアルバトールは胸をなでおろした。
(おや?)
答えは唐突に彼の前に姿を現した。
それは音も無く抜刀する、エレーヌの姿。
つまり暗殺に殺気は不要であり、むしろ邪魔になるものだから消したのだろう。
「ふむふむ、なるほど……ってエレーヌ殿! ちょっと落ち着きましょう! アラン殿も止めるのを手伝って! ブライアン逃げるんだ!!」
暁の騎士が赤鬼の騎士と囁かれるようになるのは、もう少し後になってからである。