第225話 幼馴染の名前
バアル=ゼブルとアナトが帰還した日の夜、王城の謁見の間。
[ではテスタ村でのことを話してもらおうか]
そこでそうジョーカーから告げられたバアル=ゼブルの顔は暗いものだった。
[納得いかねえ]
なぜかバアル=ゼブルは、ジョーカーに話す前から疲労している。
[ほう、まるでつい先日までの私のように疲れているな]
ジョーカーはそんなバアル=ゼブルを見ると楽し気に口を開き、お前とアナトが失踪して不機嫌になったアスタロトからとばっちりを喰らった、とバアル=ゼブルにその理由を披露した。
[申し訳ありません、私の不始末で兄上にあのようなつらい思いをさせてしまって]
そしてアナトがバアル=ゼブルにしおらしく頭を下げて謝り。
[なんだジョーカー、私に何か言いたいことでもあるのか?]
最後にジョーカーに脅しをかけた。
[……何も変わっていないでは無いか]
[あん? 何がだ?]
ジョーカーは仮面を軽く横に動かし、離れた所で乙女のように笑いさざめくアスタロトとアナトの方へ向ける。
[そうか? 以前よりずっと分別が着くようになったし、全体の中での己の役割、己を含んだ全体の役割って奴を考えて行動するようになってるぞ?]
[そうか]
ジョーカーはそう呟くと、アナトのみならずバアル=ゼブルにも注意深く視線を注ぎ、そして軽く肩をすくめる。
[あんだよ]
[二人とも変わった、とは考えないのだな。実にお前らしい]
[うっせーな、上に立つ者がころころ変わるようじゃ……あーめんどくせえ。とっととテスタ村の話をするぞジョーカー]
バアル=ゼブルは不貞腐れたように口を曲げ、テスタ村であったことについてジョーカーに話し始めたのだった。
[自壊の連鎖か]
[ってアナトは言ってたぜ。本人に聞くか?]
ジョーカーはバアル=ゼブルの申し出を丁重に断り、顎に手を当てて考え始める。
[……サンダルフォンが表に出た時、ノエルの意識は無かったのだな?]
[だろうな。あの動きは人間には無理だ。例え精神魔術の使い手でもな]
[自らと周囲を不幸に巻き込み、その苦痛によって魂を削り取る、か……面白い]
仮面の奥で、ジョーカーはその眼に僅かな光りを宿す。
[行くのか?]
[いずれ行くが、まだ時期尚早だ]
[やぶ蛇はごめんだぜ]
[むしろ鬼が出るか蛇が出るか、と言ったところだろうな。なに、利用できなければ前のように使い捨てるのみだ]
楽しそうに言うジョーカーを見て、バアル=ゼブルは頭を掻きながら眼を細める。
[アナトがそのノエルを助けると言っていた。そしてアナトは王である俺の配下だ。言いたいことは判るよな?]
バアル=ゼブルとしては、ジョーカーに軽く釘を刺すつもりだったのだろう。
だが。
[確たる目的を持たず、状況に流され、個人の感情のままに動く者を王と呼べるのか?]
そのジョーカーの言葉に、バアル=ゼブルは沈黙した。
[王と呼ばれたければ個人を捨てるのだな。それが王の取る道だ]
ジョーカーはそう言い残すと、謁見の間をそのまま出て行く。
[あ、兄上……? いかがなされたのですか?]
[んー? ジョーカーどうしちゃったんだい?]
残ったのは険悪な雰囲気と、まばたきもせずに床を睨み付けるバアル=ゼブル。
それに気づいたアナトとアスタロトが近づいて慰めようとするも、彼がそれを聞く気配はまったく無かった。
そしてサンダルフォン降臨から季節は少し流れ、テイレシアに初夏が来る。
テスタ村の者たちはガスパールの恩情、それに加えて急速に発達してきた陸路の移動、輸送なども後押したことで、無事に新しい生活の場を設けることが出来ていた。
農具、家畜などの財産や、食料、種もみなどの穀物類も、バアル=ゼブルがテスタ村より転移してくれており。
また彼らと共にアルストリアに到着したエルザの手によって、それらが転移された藪に障壁が張られて保管されていた為、彼らの新しい生活は意外なほどにスムーズに行われることとなっていた。
よってテスタ村の人々はトウモロコシを主食としながらも、無事に来年の春にまく種子としての分を無事に収穫する。
それも今年は目立った干ばつも無く、水が豊富に使えた為に十分以上の収穫が出来、その量は来年までこのトウモロコシだけで食い繋げられるほど余裕があるもので。
それが彼らに不幸をもたらした。
「カブか? う~む、まだ世に出すには早かろう」
小麦は既に種もみに使う以外の殆どを売却しており、またガスパールから託されたカブも表向きは家畜の飼料用と言うことで栽培をしているため、隠れて少量を食べることしかできず。
決定的なのは、彼らが少しでも早く新しい生活の場を整えようとしていたため、トウモロコシを灰汁で処理してから食べる手順をまったく放棄してしまったこと。
日差しも強くなり、農作業をしているテスタ村の人々が、今年も暑い夏が来ると恨めしい視線を太陽に送り始める頃、その異変は彼らの身に起き始めた。
「確かにおかしいのう。我らだけがこれほど皮膚に異常が起きるとは」
「何か決定的に変わったことと言えば、住む土地が変わり、水が変わったくらいですかな? しかしそんな話は聞いたことがありませんし、エルザ司祭も特に何も言っておりませんでしたしな」
村を襲った異変、皮膚病について話しているのは、テスタ村の村長ジョルジュ、そして相談役のスタニックである。
あれから彼らは、かつてバヤールが住んでいた森の近くに居住を定めていた。
ここはかつて彼女に振られたアバドンによって街道は破壊され、土壌がこれ以上無いほどに荒らされていた土地。
しかしその土地も今では修復が進み、入植する人々を募集していたからだった。
だがバヤールの神域近くと言うことで、怖れをなした人々はなかなか入植しようとせず、そこに都合よくと言うべきか、テスタ村の者が現れた訳である。
「む? まぁ今のところ戻る予定は無いし、あの手がかかる二人を閉じ込めておけるなら別に好きに使って構わぬぞ」
バヤールからの許可も得た彼らは無事入植し、ようやく安住の地を手に入れたと思われた矢先だった。
ひどい痛みを伴う皮膚病に彼らが侵されたのは。
「近隣の村、また旅の商人、その双方ともに異常無し。じゃが我らは火傷をしたように皮膚が変色し、ひどい痛みを感じるか……」
「患者の数は増える一方です。ですが我らは吸血鬼であった期間が長く、また元に戻ってからも祈りを捧げる教会が近くに無かったゆえに、法術での治療は望めませぬ」
「かと言って寄進で賄うのはおろか、医者にかかる金すら無い、か」
スタニックは沈痛な面持ちで頷き、ジョルジュの変色した顔を見つめる。
「やはりガスパール様に相談するべきでは」
そのスタニックの提案を、ジョルジュはゆっくりと首を振ることで否決する。
「これ以上の迷惑をかけるわけにはいかんじゃろう。もとよりこの入植地を世話してもらっただけでも余りあると言うに、もしも伯の寄進で我らを治癒するとなれば、アバドンの災厄の再来となろう。それだけは絶対に避けねばならん」
「若い者や、子供たちが発症していないのだけが幸いですか」
「うむ……少し席を外させてもらうよスタニック殿。最近では腹の具合も多少悪くなってきたのでな」
スタニックは中座するジョルジュを見送ると、テスタ村の方角へと目を向けた。
そこに一人でいるであろう、ノエルの身を案じて。
そして秋の気配を感じ始めた晩夏の候。
村に蔓延っていた病気がやや勢いを失い始めた頃。
「我らが今こうして無事に顔を合わせられるのは、すべて村に残ったノエルのお陰じゃ。どうか恨まずにやって欲しい。そして出来れば……救ってやってくれ……」
病気によって食事が殆ど摂れなくなっていたジョルジュは、後のことをスタニックに任せてその生涯を閉じた。
その頃ノエルは村の清掃、そして畑の手入れをしていた。
「ふー、目を離すとすぐに伸びちゃうんだから」
畑に生えた雑草をかなりの範囲で抜き取ったノエルは全身を包む汗に気付き、そしてそれによって張り付いた衣服を気持ち悪そうにつまむ。
「どうせ一人だし、このまま川に飛び込んじゃおっと」
サンダルフォンが降臨した後、ノエルは眠らずに済む身体、なかなか疲れない体となっていた。
それに気付いた時、彼女が真っ先に思いついたこと。
それは助けが来た時に失礼の無いように、また助けて貰えた時に村人がすぐにここで元通りの生活が出来るように、村の清掃や畑の手入れをすることだった。
「天使様も、あの女の人も、助けに来るから絶対に諦めるなって言ってたもんね。それに一昨年村に戻った時の皆の顔……私も崩壊した教会を見た時かなりショックだったから、これくらいしておかないと」
ノエルはきちんと手入れが行き届いた村の中を通り過ぎ、川へと向かう。
今にも村の誰かが顔を出しそうなほどに綺麗な村の景色を、誇りに思いながら歩くノエルの顔が一変したのは、村の外れに来た時だった。
「ジョーカー……どうして貴方がここに?」
[用事が有るからに決まっている。ああ、サンダルフォン降臨の時に起きたことはバアル=ゼブルやアナトから聞いているから言わなくてもいい]
用事があると聞き、口を開こうとしたノエルの動きを上げた右手で止めると、ジョーカーはややノエルを見下すような態度をとる。
[ここから転移したテスタ村の者たちに病気が蔓延し、皮膚のひどい痛みに苦しむ者が次々と出ている件についてだ]
「それと私に何の関係が……」
ノエルはジョーカーの切り出した意外な話題の中身を聞き、不思議そうに返答する。
まさかこの堕天使が人間の病気について心配するとは思っていなかったからだ。
だがジョーカーがしていたのは、テスタ村の人々の心配では無かった。
[まさか貴様ら、私の言いつけを無視して灰汁で処理をしないままトウモロコシを食べ続けたのではあるまいな?]
ジョーカーはテスタ村の人々に、興味を向けていたのだ。
「それは……でも、時間が無くて仕方なく……灰汁で処理しないと美味しくないって貴方が言っていたのに、処理しない方が美味しいって……」
[なるほど、やはりしなかったのだな?]
ノエルはそれしか出来ないと言うように、力なく頷く。
[ではやはりそれが原因だ。トウモロコシは灰汁などを溶かしたある種の性質を持つ水で下処理をしないとうまく栄養を摂れず、病気を発症する。それはひどい痛みを伴い、放置しておけばそのまま死んでしまうものだ]
「そんな……では何故それを最初から言わなかったのですかジョーカー!」
ノエルは見て判るほどの怒りを顔に表してジョーカーに詰め寄ろうとする。
[では聞くが、何故お前たちは私の言うことを守らず、灰汁で下処理をしないままトウモロコシを食べたのだ? それは私を信用していなかったからではないのか?]
だがジョーカーが口を開くと同時に、ノエルの足はその言葉に絡めとられたかのように止まり、顔は苦し気に歪んだ。
[信用されていない者の言葉は無力だ。何を言おうとも信じてもらえないのだからな。だから私はあえて不味くなると告げ、お前たちの誠実さを見たのだ。かつて私がトウモロコシを与えた人間どもとは違う所を見せてくれると言った、お前を試すために]
ノエルは茫然とした。
そして村が襲われ、倉庫が燃やされた時にジョーカーと交わした会話の内容を、頭の中に次々と思い出していった。
(あの時以上の災い……やむを得ない事情……努力を言い訳にして……)
ノエルの全身を襲う後悔。
だが、それはまだ始まりに過ぎなかった。
[村長と呼ばれていた老人は、その病気によって死んだ。勘違いしてほしくないが、別に私が手を下したわけではない。これは私の言いつけを守らなかったお前たちが自ら招いたこと……いわば天罰だ]
ノエルの全身が震えた。
村長が死んだ。
村を襲った病気が、放置しておけば死んでしまうものと聞いた瞬間から、いくらノエルが頭の中から追い出そうとしても、じわじわと滲みだして止まらなかった予想が、ジョーカーの口から彼女の耳を通じ、頭の中にあった予想を事実として塗り替えていく。
[村長を殺したのはお前だノエル。いや、お前の中にいるサンダルフォンか? なるほど、その天使のせいにしてもいいだろう。そちらに押し付ける方がよほど気楽だからな]
ノエルは地面を向いたまま動かない。
ジョーカーはそんな彼女を見て、更に興が乗ったようだった。
[テオドールに続いて村長か。なかなか自壊の連鎖と言うのは面白いもののようだ]
「テオドール公……? なんでテオドール公……?」
彼女を含め、テスタ村の人々を助けてくれた恩人、テオドール。
思考が止まりかけていたノエルも、その名を聞いてはさすがに反応せずにはいられなかった。
[ん~? ヘプルクロシアから戻ったアルバトールから聞いていなかったのか? 天使によって守られていたはずのテオドールが洗脳されたのは、奴の身近にダークマターに汚染されたお前、私によって吸血鬼にされたお前がいたからだぞ?]
ノエルは凍り付く。
[お前を媒介にしてテオドールを徐々に汚染し、そして裏切らせたわけだ。なかなかその過程は面白いものだったぞ。頭を割るような痛みに耐え、私の術に抗うテオドール。お前たちを城から追い出せば済むだけの話を、奴はお前たちを見捨てられぬと言い続け]
ジョーカーはニタリと笑みを浮かべる。
[堅牢を誇った王都テイレシア陥落の日が来た訳だ。忠誠を捧げた王の最期を見届けぬまま死ぬのはちと可哀想だと思ったゆえに、死ぬ前に洗脳を解いてやったのだが、まぁ解かないままの方がよかったかも知れんな]
とうとう目の前の堕天使を睨み返すことはおろか、見ることすらできなくなったノエルの視界に入り込むようにジョーカーはしゃがみ込み、下を向いたままの彼女の顔の下に移動し。
[そしてお前たちは、自らがテオドールが裏切る原因であったことも知らないまま、必死に奴の名誉を回復しようとした訳だ。実に泣けるいい話だな]
空に吸い込まれていくと思える程の高笑いをし、哄笑をし。
[罰を受ければ罪は消える。お前たちがしでかした罪が消えるまで、テスタ村の不幸は続くだろう。さらばだノエル]
力なく地面に倒れたノエルを支えようともしないまま、ジョーカーは姿を消した。
翌朝。
「う……ん……あ、もう……朝……だ……村の清掃……しないと……」
ノエルは村のはずれで、泥だらけになった服のまま身を起こす。
今にも村の誰かが顔を出しそうなほどに綺麗な村の景色を保持するため。
彼女は一人で、彼女以外には誰も居ない村を少しずつ今日も綺麗にしていく。
――誰のため?――
ノエルは首を振る。
――もう誰も戻ってこない村なのに?――
ノエルは耳を塞ぎ、誰も話しかけてくる者のいないはずの村の中を走りだす。
「いたっ!」
そして転んだ彼女の目の前には、扉が開いている一軒の家があった。
獣が中に入り込んだのかと思ったノエルは、その扉を閉めるべく近づいていく。
「あ……カブ……」
家の中には、干からびたカブが一つ転がっていた。
途端にノエルの頭の中に、ジョルジュと食べたシチューの味が思い出される。
そして静かに家の扉は閉められ。
ノエルは清掃をすることも忘れ、とぼとぼと村の中を歩きだした。
敢えて思い出そうとしなかった、昔の思い出。
村の人々と耐えるしかできなかった、だが共に耐えることができた苦難の日々こそが実は楽しいものだったのだと気づいてからは、ノエルは忙しく体を動かすことで敢えて思い出さないように、考えないように誤魔化してきた。
しかし。
「何だか、疲れちゃったなぁ……」
とうとうノエルは思い出してしまう。
だが涙は出ない。
一人になってからノエルはずっと泣いて、泣き続けて、そして泣くごとに自分の罪の意識が軽くなってくることに気付いた彼女は、泣くことを自らに禁じたから。
だから彼女が泣いてしまったのは、彼女にとってもう望んでも叶わない、最後の希望を思い出したからだった。
あの時、アルバトールたちがテスタ村を去った時にすら敢えて思い出そうとしなかった希望を。
幼馴染の名前を。
――俺が囮になるからさ、その間にノエルたちは逃げてくれよ!――
――大丈夫だよ、俺はお前の王子さまだからさ。それに俺の足の速さは知ってるだろ? 天使様だってまいて、きっとまた村に戻ってみせる、だからさ――
――絶対に諦めるな! ノエル!――
「助けて……クレイ……」
そしてノエルは口にしてしまう。
二度と帰ってこない、その幼馴染の名前を。
口にしても返事が来ない、それどころか口にすれば、二度と会えないことを再確認してしまうだけのその名前を。
ノエルは呟き、そして返ってこない返事をいつまでも待ち続ける。
彼女以外には誰も居ないテスタ村で。




