第224話 ルルドの泉
――ルルド。その泉は奇跡と共にある――
体を蝕み続ける不治の病や、体に刻まれたまま完治せぬ傷を癒す、奇跡の泉。
それは聖テイレシア王国の南西にある山脈、ピレネールの北側にある村、ルルドにほど近い洞窟の中に湧き出している。
その効果も奇跡だが、成り立ちに至っては神秘そのもの。
遠い遠い昔、さる尊き存在をこの世に導いた聖母が一人の少女の前に姿を現した。
そして聖母が指し示した箇所より湧きだしたのが、このルルドの泉と言われている。
万病を癒す奇跡の泉が湧く村、ルルド。
テスタ村から帰還したアルバトールは、そこで沐浴をする毎日を送っていた。
「……奇跡ねぇ」
「何よ、文句あるの?」
「いや、奇跡がこんなに身近にあると有難みも何も無くなるものなんだなと」
「だから基本的にあたしたちは人間に正体をバラせないのよ。最初から正体をバラしてる旧神を見れば判るでしょ? 女性を口説くくらいならまだしも、姉のパンツを盗む処女神とか、娘の胸にスクリューダイブするような主神に有難みを感じる?」
「そうだね」
「……やめてそんな目であたしを見るのやめて」
ついでにこの泉の管理者であるガビーの姿も。
「きちんと威厳を以って行動すれば何の問題も無いんだよ。それなのに君にしてもエルザ司祭にしても、人間みたいに欲や感情を露わにするから問題になる」
「超然としすぎるとベルナール団長みたいに変に注目を浴びちゃうでしょ! 正体を隠すためにわざとやってるんだからいいの! って言うかあんた魂の中に妙な感じでダークマターに入り込まれてるんだから、なるべく感情を動かさないようにしなさい!」
台に乗り、それでも少し届かないアルバトールの頭上に向かってガビーは懸命に背伸びをし、桶に組んだ泉の水を振りかける。
アルバトールはそんな彼女を愛玩動物を見るような優しい目で見つめると、自分では何もすることの無い沐浴の時間を潰すようにガビーと話し始める。
「はいはい。それなんだけど、わざわざルルドの泉に来る必要があったのかな? 普通にガビーの治療を受けるだけじゃ浄化できないの?」
「無理。聖母が残した慈愛に惹かれて、自然に龍脈が集中するようになってるこの泉じゃないと、あたしだけの力じゃ浄化できそうにないわ」
「ドワーフの集落にも龍脈を固定させてるけど?」
「固定じゃなくて集中。例えば複数の街道が集中する重要な場所にはフォルセール城みたいな重要な拠点が出来るけど、一つの街道沿いにはせいぜい宿場町、村くらいしか出来ないでしょ?」
ガビーの説明に、アルバトールは素直に頷きながらテスタ村のことを思い出す。
天使サンダルフォン、そしておそらくは天使となった少女エルザの二つの魂を、その身に宿していたノエル。
村でノエルに抱きつかれた際におそらく少女エルザの守りが及ばず、自壊の螺旋に自らを苛むサンダルフォンから魂にダークマターを送り込まれたのだろう。
それに気づいたのはフォルセールに戻る途中。
自らの魂の異変に気付いた彼は、禊祓を行おうとしたのだがそれは叶わなかった。
よくよく考えてみれば、魂に送り込まれたダークマターを浄化できていない時点で、彼の手には負えないと言うことなのであるから無理もないのだが。
(もう少し女性に対して免疫を持っておくべきだったかなぁ……)
「ん? 何か言った? アルバ」
「いや、ちょっとテスタ村のことについて考えてただけ」
ノエルに抱きつかれた時の魂の揺らぎ。
それに付け込むように、魂の中に流し込まれたダークマター。
そんなことをガビーに言うわけにはいかなかったアルバトールは、何とかその場をごまかして沐浴を続けるのだった。
「ふう、流石にまだこの時期は水が冷たいな」
日が昇る前から沐浴を続けていたアルバトールが、少し遅めの朝食をとるべくルルド村の宿に戻ろうとしていた途中。
彼は一人の力持つ存在が、前方から歩いてくるのを目にする。
まるで王冠のようにも見える、逆立つ金髪。
遠目ではやや面長に見えた顔は、近づくにつれて異常なまでの盛り上がりを見せる筋肉で覆われていることが判る。
黒いコートで覆われた全身もまた同様に、その上から見て判るほどの盛り上がりを見せる物だった。
(まるでバヤールみたいだな……いや、明らかに彼女以上だ)
長い裾を持つコートには何らかの意味を持つのか、鉄の鋲が至る所に撃ち込まれ、襟には獅子のたてがみと見まごうばかりのふさふさとした毛が取り付けられている。
アルバトールはその独特な服装を選んだ彼の感覚にたじろぐように、思わずすれ違う際に道の端へと避けてしまったのだが、歩いてきた男はそれを気にする様子もなく、黙って一礼をして通り過ぎていった。
「……ただ者ではないな」
アルバトールは遠ざかっていく男の、一分の隙も無い背中を見て呟く。
そこには沐浴のためにひと月以上を村に宿泊しても、なお使い切れないほどの石鹸、そしてタオル類が背負子に縛り付けられていた。
「どうしたの? 何か顔色が悪いわよアルバ」
村の宿に戻ったアルバは、先に戻って食堂で朝食をとっていたガビー。
「お帰りなさいませアルバ様。急いで朝食を持って参ります」
そしてメイドのアリアに不思議そうな顔で迎えられる。
十人ほどが入れそうな、こじんまりとした食堂の壁際にあるテーブルの一つにアルバトールは近づき、そこで食事をしているガビーの向かい側に座って口を開いた。
「天使か旧神か、それとも魔族なのか判らない存在とすれ違ってね。全身を鎧のような筋肉で覆ってるだけじゃなくて、その内なる力も相当なものだったよ」
そしてスプーンを持ち、アリアが持ってきた朝食を掬いながら、彼の対面で考え込むガビーの反応を待ったのだが。
「ああ、それ多分アバドンね。ルシフェルの後を継いだ、魔神の統率者らしいわよ」
ガビーの言った唐突な内容。
それを聞いたアルバトールは我が耳を疑い、口に朝食を運ぼうとしていたスプーンを持つ手を止め。
「ちょっ! 朝食吐き出さないでよ汚いわね!」
「あ、ああ。すまないガビー」
そして口に含んでいた朝食を勢いよく噴き出していた。
吐き出された朝食を顔に貼り付けたまま苦情を言ってくるガビーに、アルバトールは謝罪をすると奥に控えているアリアを呼んで顔を拭いてもらう。
「でもそんなことを聞かされれば驚くに決まっているだろ。なんで魔神の統率者と知っておきながら放置してるんだ」
「驚いたら朝食を噴き出さなければならない。そう決まってるわけじゃないんだけど」
ガビーの顔に着いた、アリゴと呼ばれるマッシュポテトとチーズの和え物を、アリアがナプキンで拭き取って洗い始める姿を見たガビーは複雑な表情を浮かべた。
「美味しいのに……こんな男の口に入った運命を呪うのねアリゴ」
「だあああっ! 僕が悪かったよ! それはそれとして、なんでアバドンを放置しておくんだ! 僕がアルストリアで聞いた話だと、奴は昔アルストリアで蝗害を起こした犯人なんだろう!? すぐに追いかけて倒した方がいいんじゃないのか!?」
「まぁそうなんだけどさ……」
ガビーはバツの悪い顔をすると、スプーンでアリゴを混ぜながらブツブツと独り言を呟いた後、顔を上げる。
「アバドンを見てどう思った? アルバ」
「どうって……う~ん」
アルバトールは先ほどのアバドンの姿を思い出して首を捻る。
「人畜無害?」
「うん、だから扱いに困ってるのよ」
ガビーは椅子の後ろにある壁に身体を預け、天井を見上げた。
「なんかね、最初はアバドンもすっごく張り切ってたらしいの。魔族を束ねていたルシフェルの後を継いで、魔神を統率することになったから」
「うん」
「でもその就任直後にまた天魔大戦が起こってね、性懲りもなく戦いを挑んできたあいつらを、あたしたちはいつものようにコテンパンにのしたんだけど……何よその目は」
「今のガビーをアスタロトに見せてあげたいなって思って」
「あたし『たち』だからいいの! 話を続けるわよ!」
拳を握りしめ、やにわに立ち上がるガビー。
「その前に食事を続けて頂きたいのですが」
だがその横から、やおら声を掛けてきたアリアを見た二人は、急いで朝食を片付け始めたのだった。
「つまり、アバドンは反逆されたってこと?」
朝食の後、アルバトールとガビーは再び泉で沐浴を行っていた。
「ちょっと違うかな。えっと、さっき話した天魔大戦でアバドンも捕まって、それで奈落の封印を手伝うことになったんだけど、その間に魔神たちが好き勝手しちゃってね。元々あいつらは自分勝手な性格なのをルシフェルが無理やり纏め上げてたから」
「反逆と言うよりは、元に戻っちゃった感じか」
「で、封印の贖罪から戻ってみれば、ルシフェルから後を任された部下はいつまで経っても言うことを聞かない。それで拗ねちゃって家出して、その途中でバヤールに一目惚れしたけど彼女にもこっぴどく振られちゃって、何もかも嫌になって旅に出たみたい」
「哀れな。なかなか新入りが受け入れてもらえないのはどこも一緒か」
アバドンと少し似た境遇だった八雲が王都の自警団に受け入れられている現状を思い出し、アルバトールは首を振って家出中の魔神に同情をした。
「そそ。それに下手に手出しして犠牲を出すのも怖いから今のところは放置しようって……わぷっ! ねーアルバ、そろそろ髪を切ったら? 正直ジャマ」
首を振った直後に吹いてきたいきなりの風に、舞い踊ったアルバトールの髪によって顔を撫でられたガビーが口を尖らせる。
「アデライードが綺麗って言ってくれるから駄目」
しかし惚気で返してきたアルバトールに毒気を抜かれ、ガビーは肩をすくめた。
「あっそ。まったくもう、なんで沐浴する者は天と地の間に真っ直ぐに立つこと、なんて儀式の手順を作っちゃったんだろサイテー。早く力を取り戻して大きくなりたーい」
「すまない。今晩のデザートはガビーに譲るから」
それを聞いて目を輝かせるガビーを見たアルバトールは苦笑を始め、そして不意に身体にかけられた冷たい泉の水に耐えられずに妙な声を上げてしまう。
その声と背中を逸らせた妙な姿を指差して、明るい笑い声を上げるガビーを軽く怒りながら、彼は魂に入り込んだダークマターの穢れを落としていった。
時と場所は変わり、一月後の王都テイレシア。
テスタ村でアルバトールたちと別れたバアル=ゼブルとアナトは、どこに行っていたのか今になって王都に帰還していた。
[どうしたアナト? 凱旋って訳じゃねえが、それなりに力を取り戻してからの帰還だ。胸を張っていいんだぜ]
[そうは言っても、少々若返り過ぎたこの姿では……]
だが彼らは真っ直ぐに王城の中へは入らず、なぜか街の中をぶらぶらとほっつき歩いている。
[なぁに、アスタロトの格好だって皆見て見ぬふりをしてるんだ。お前が少々若返ったって知らんぷりしてくれるさ。大事なのは中身、お前がアナトだってことだけだ]
バアル=ゼブルはそう言うと、まだ十代半ばと言った少女姿のアナトの頭に優しく手を置いた。
[何だか判らねえが、今のお前は以前よりずっと魅力的に見えるぜ? 主神たる俺が言うんだから間違いねえよ]
その言葉にアナトは顔を真っ赤にし、手に持っている剣を目の前の旧神の代わりとするかのようにギュッと両手で抱きしめた。
(知恵の実によって正と邪の概念が世に放たれし前、ただ目的に向かうまでの道のりにそびえ立つ、障害を乗り越える手段の有無のみが存在せし時代。その混沌の時代の象形を表すために作られた文字、ルーンが武器に刻まれた時に一体何が起こるんだか)
神剣レーヴァテイン。
バアル=ゼブルと親交がある、北国フェストリアの旧神ロキが作った神剣。
それを携えたアナトを後ろに従え、バアル=ゼブルは自警団の詰所に入って……。
[ほう、帰還して一番に来るのが自警団の詰所とは]
行こうとした彼らは中から出てきたジョーカーに捕まり、そのまま王城に連れて行かれたのであった。
[だからな、ほら、見ての通り転生したアナトが不安定な精神状態にあったからな、まず仲の良かったセファールに会わせようとしただけであって、別にお前さんに会って報告するのがクソ面倒とかそう言う訳じゃねえからな?]
[なるほど。一人で勝手にアルバトールへと戦いを挑んだ挙句、テスタ村をめちゃくちゃにする原因になった者にしては、聞いているこちらが思わず泣けてしまうほどいい説明だ。とりあえずアスタロトが心配していたから、二人とも今から会いに行ってくれ]
城の中へと入ったジョーカーは廊下を歩きながら二人にそう言うと、目立った小言も言わずに謁見の間へと姿を消す。
そして二人は意外にあっさりとジョーカーから解放されたことを不思議がりながら、アスタロトの部屋へと向かったのだった。
[お帰り二人とも]
あっさりと開くアスタロトの部屋の扉。
中から漏れ聞こえてくる嬉しそうなアスタロトの声に迎えられながら、二人はあっさりと閉じていく扉の向こうへと歩を進めた。
パタン




