第220話 当事者たれ
フォルセール騎士団の詰所の一室に設置された、温かい光を放つ暖炉の横。
「何だこれ? ……私は街中で騒ぎを起こしません?」
「ここに氏名と住んでいる住所、下の欄には貴女を崇拝している神殿と貴女が守護している世の中の事象を書いて、その右の頁には当フォルセールに来ることになった動機や目的。こちらに趣味と特技を……」
そこでは少女の姿をした一人の女神が、一人の天使の監視のもとで、取り調べさながらに一枚の宣言書を書くように指示を受けていた。
「いや、なんであたしがそんな物書かなくちゃいけないんだよアルバ」
「君の隣で済ました顔をしている、その緑に聞けばいいんじゃないかな」
「ふみ」
ヘルメースへ半眼のまま視線を向けるアルバトールを見て、アルテミスは不思議そうな顔になるとそのまま緑色の神を見上げる。
「お前ここで何したんだよヘルメース」
「いつも通り、僕が守護する諸々のことをしたまでだが」
「ふみ」
アルテミスは首を傾げた後、すぐにアルバトールの方へグリッと顔を回す。
「なにも悪いことはしてないっぽいぞ! よってあたしもこれを書く必要は無いな!」
「……ほう」
椅子に座ったままふんぞり返ったアルテミスを見て、アルバトールは机の上に置いてあった指先でコツンと音を立てる。
たちまちその音は部屋の中を幾重にも覆い、揺るがし、アルテミスの心胆を寒からしめるものとなっていた。
「ななな、なんだ? このアルテミスを脅そうったって、そうはいかないぞ? いかないんだからな?」
「教皇領で陛下に呪いをかけようとしてたよね?」
「え、ええ。まぁ、してたかもしれないかもしれない?」
体をじたばたと動かし、視線をあちこちに移し、しどろもどろになって答えるアルテミスに、アルバトールは冷たい視線と羽根ペンを送る。
「じゃあよろしく」
「ハイ」
ぶつぶつと文句を言いながらもアルテミスはペン先を書類に走らせ、自らの神名をサインし、そして部屋のある一点に視線を落とすと、じっと見つめて鼻先を膨らませる。
「……ペンの手入れがなってないな。後で削っといてやる」
「そこまではしてもらわなくていいよ。手続きが済んだ以上、君は客人だ」
だがアルテミスは、視線を羽根ペンからアルバトールへ移すと同時にギロリと睨むと、再び羽根ペンを見つめて難しい顔をした。
「いや、やらせろ。野山に住む獣を狩るのは万人に与えられた権利。だがその狩った獲物のすべてをきちんと活かす術を、お前らは知る必要がある」
その横顔は、まさしく女神であった。
「これでアテーナーへの偏執的な愛情が無ければなぁ……」
だがその女神の本性を、オリュンポス神殿でまざまざと見せつけられていたアルバトールは、思わずどころかアルテミスへ聞こえよがしに独り言を呟いていた。
「お前いやな奴だな! ちょっとくらい格好つけさせろよ! ひょっとしたらあたしのこと嫌いなのか!?」
「僕が持ってた酒杯をいきなり矢で射抜いた輩を好きになれと?」
「あ、ペンナイフ持ってきてくださるかしらアルバさんオホホのホ」
言い訳じみたアルテミスの頼みを聞いたアルバトールは、椅子から立ち上がると淑女に対するようにうやうやしく頭を下げて部屋を出る。
「子供の姿、変な態度をしていても流石に狩猟の女神……か」
だが感心しつつペンナイフを持って部屋に戻ってきた時、彼は目撃してしまう。
「んくおおオオォォフォォオッオッオォォッ……オッ!? あ、あらアルバさんお早い」
先ほどアルテミスが見つめていた、部屋のある一点に置かれていたある物。
即ちいつもエステルが詰所への差し入れに使っている籠と、その上にかけるナプキンがアルテミスに凌辱されているのを見たのだった。
こうしてまたフォルセールに問題児が増えて生じる問題が増えた頃。
「ん? 上手くいったのではないのか? 陛下」
領主の館にある執務室では、きちんと真面目な話もされていた。
「上手くいった。グリフォンを聖十字の国旗に加えることは教会に承知させた。だがその他の問題については不明だ」
「その他?」
帰国したシルヴェールをドレス姿で迎えたクレメンスは、それを聞いて長手袋をしたすらりとした腕を組もうとした次の瞬間に腰に当てると眉を寄せ、続きの説明を聞く。
「……なるほど。教会がボロを出すのが早すぎたと?」
「与しやすい相手、そうこちらに思わせる芝居という線もある。だがその芝居をする必要が無い……そう思わせる努力すら無駄であるほどに今の教会は恐ろしい相手。よって考えられるのは二つ、一つはこんな若造に割く時間がムダだと言うもの」
「もう一つは?」
シルヴェールはしばらく黙り込み、考えこんで一つの仮定を口にする。
「こちらが提示したワインの使用条件。それ以外の用途を彼らが見出しており、そしてその目的をこちらに悟られたくないと言うものだ」
「ディオニューソス謹製のワイン、それを味わうと言う価値だけでは不十分だと?」
「確かにディオニューソスが作ったワインには価値はある。だがそれは教会の権威をより高める比較対象となる十二神。その一人の作った嗜好品としての価値であって、ワインとして味わう価値はまた別の物……そうか」
シルヴェールは何か思いつくことがあったのか、不敵な笑みを浮かべるとクレメンスにフィリップとベルナールを呼んできてくれと告げる。
「陛下は本当に野暮だな。なぜ二人がここにいないのか判らないのか?」
だがその頼みに対してクレメンスは素直に首を縦に振らず、それどころか呆れたような長い溜息で応えていた。
「すまんなクレメンス。平和になればいくらでも粋な男を演じて……いや、お前のために粋な男に戻って見せよう。だが今は優先すべきことが山のようにあるのでな。さしあたって今宵までは、民のためにいくらでも野暮な男になってみせるさ」
「わかりましたわ陛下、それでは急いでお二人を呼んでまいります」
そして彼女の溜息と視線を真っ向から受け止め、返してきたシルヴェールにクレメンスは優雅な一礼で応え、扉へと向かう。
「そうそう、机の上に陛下の最終確認が必要な書類をたんまりと置いてありますので、お二人を呼んでくるまで私の代わりと思い、ゆるりと逢瀬を楽しんで下さいまし」
「う? うむ……」
そして扉から出る瞬間、クレメンスはニンマリと笑みを浮かべ、シルヴェールの方へ振り返ってそう言い残すと、身を翻してふわりと執務室を後にしたのだった。
三十分ほど経った後。
「なるほど。ワインを貴重なものとし、価値を高め、報奨金代わりにする。ですか」
「我々のように国土を魔族から守ることだけで精一杯の者たちには判らぬ、まったく贅沢な悩みと言う奴ですな」
「まぁそう言うわけだフィリップ、ベルナールよ。私の予想が当たっているかどうかはこの際どうでも良い。この予想が我々の国に対し、どのように影響するかを考えてもらいたいのだ」
執務室にはいつもの男三人と、いつもの不機嫌そうな顔からもう少し不機嫌になった顔のクレメンスの姿があった。
だが意見を求めるシルヴェールに対し、フィリップとベルナールの歯切れは悪い。
「ハハハ、皆どうしたのだ? 黙っていては話が進まないぞ?」
「う、うむ……いつもの雄弁はどこに行った? フィリップ、ベルナールよ」
議論を促すクレメンスと、それを手助けするように後押しするシルヴェール。
だがしかし、自分たちの目の前でその影響が形になっている、と言えるほど図々しい男はここには居ないようだった。
少し間を置いた後。
「コホン、そうですな……差し当たって影響はないと思われますが」
「そう言い切る根拠は何だ? ベルナール」
温和な表情からは想像もつかぬ豪胆の持ち主、ベルナールがいつもより少々感情に乏しい声で発言を試みる。
「教会という組織の中で完結する問題だからです。これが教会がワインを独占し、他の国への供給をやめさせると言うものであれば確かに問題でしょうが」
「確かにな」
ベルナールの言葉を聞いたその場に居る全員(クレメンス含め)が、シュヴァリエのラベルが貼られたワインの味で頭の中を満たす。
ここ数年で一気に有名になったそのワインは、今では入手が困難になるほどの銘柄となっていた。
王であるシルヴェールですら、おいそれとは飲めないほどに。
「さて、招集がかけられて集まってしまったからには、一気に他の話を終わらせてしまうのが一番ですな。今回の外遊で、他に気になった点は無かったのですかな陛下」
そしてワインの夢から真っ先に醒めたベルナールが、シルヴェールの言を求める。
「気になったこと、か……」
「その様子では、何かあるようですね陛下」
シルヴェールはフィリップに頷き、外遊先の教皇領で会ったグレゴリウスとマザランの顔、そして彼らの話しぶりを思い出しながら教会の印象を口にした。
「王都にも教会があり、そしてそこに居た聖職者たちの行方は杳として知れない。なのに危機感がまるで奴らには……いや、教皇様たちには感じられなかった」
「その身は遠く安全な教皇領にあり、そしてその暮らしは一千万を超えるとも言われる信者たちによって保障されている。仕方が無いことかと思われますが」
やや皮肉気な笑みを浮かべたベルナールの解答に、シルヴェールは苦笑を返した。
「万能である主の、地上における代行者を自認する教皇でも、事の当事者で無ければそれが限界か」
緩んだ笑み。
およそ目立った感情を込めてはならぬとばかりの、不快な笑み。
そうとしか感じとれない、気持ちの悪い笑みを浮かべつつ話しかけてきた彼らの顔を思い出し、シルヴェールは全身を怖気で震わせた。
「当事者、か……政治もそうであるべきなのかも知れんな」
「……陛下?」
遠い場所を見つめる目をし、いきなり政治のことを語りだしたシルヴェールを見て、クレメンスは気づかうような言葉を発する。
「ここにいる者たちであれば話しても構わんか。いや、実は前から考えていたのだ。あらゆる場所に住まう民の内から、国の運営に参画させる人材を得たいとな」
「無理ですな」
「即答だな、ベルナール」
その提案を間髪入れずに否定するベルナール。
だがそれは予定調和の答えと言うものだったのか、シルヴェールは気を悪くする気配すら見せずに話を続けた。
「時期尚早と言うことは百も承知だし、今の時点でやれるとは思っておらん。ただ民を政治に参画させ、国を育てる当事者となってもらえば、民に今とは比べ物にならないほど国へ愛着を湧かせ、国を富ませる重要さを自覚させるのではないかと思ってな」
「目標点を目の届く所に置き、内容と経緯を理解してもらうことは確かに重要です」
シルヴェールはフィリップに頷き、そして眉間にしわを寄せる。
「だがそのためには、民にそれなりの教養を持ってもらわねばならん。そしてそのためには教育機関が必要だ。そしてその教育機関を作り、保持していくためには……」
シルヴェールは親指と人差し指で輪っかを作り、その中に溜息を通す。
「金、金、金。国家の膨大な財産を預かる王でありながら、これ以上の金を欲しがるのは恥ずかしいことかもしれん。しかし世の中は何をするにも金が必要だ」
「高額の学費を納めることができる王侯貴族のための大学であればともかく、授業費を支払う余裕などとても無いであろう民のための学校を作るのは無理ですな」
冷たく断言するベルナールに、恨めしそうな視線を送るシルヴェール。
「それに教育は子供の頃から行うのが一番ですが、子供と言えば民にとって働き手でもあります。授業費を国庫から出すとしても、やはり厳しいでしょう」
更に優しい声で反対してきたフィリップを見ては、さすがのシルヴェールもお手あげと言った状態であった。
しかし。
「……つまり一般の民以外を通わせればいいのではないか?」
「どう言うことだ? クレメンス」
そこに機嫌が悪そうなクレメンスが、低い声で意見を述べる。
「孤児院の者たちに教育を施せばいい。教会ならば読み書きが出来る者もいるだろうし、それなりの教養を持つ者もいるはず。教会の建物をそのまま利用させてもらえば、新しく学校を建設せずともいいだろう」
「だが、民に当事者になってもらうのが私の目的……」
「農村や商店へ手伝いに行く一定の期間を設け、そこで民の暮らしを実際に体験してもらい、しかる後に彼らの意見を聞けば良かろう。その間に民自身を学校に通わせる算段を立てるのだ」
その提案を聞いた全員が唸りを上げ、そして髪を結い上げた美しい女人へ敬意を含んだ眼差しを送った。
「よし、クレメンスの案に乗らせてもらうか」
シルヴェールの宣言にフィリップとベルナールが頷き、それを見たクレメンスの表情が微妙な揺らぎを見せる。
「では話はこれで終わりだな?」
「む? まぁ……そうだな」
急かすようなクレメンスの口調、そしてシルヴェールの意味ありげな視線を感じ取ったフィリップとベルナールは、互いに目配せをすると次の仕事に取り掛かると言って、ごく自然な形で執務室を後にする。
「旅の土産話は明日にでも聞かせて貰うか」
「我ら無しできちんと辿りつけたか。まずそれですな」
廊下を曲がる二人の耳に、クレメンスの遠慮のない笑い声が聞こえてくる。
それを聞いた彼らは同時に肩をすくめ、明日の質問事項が一つ減ったことを確信するのであった。




