第212話 顕現
アルバトールたちが竜の素材をエルフに預け、その帰りにアギルス領各地の村などに寄り道をしている時。
夏が近づき、暑さが増してきたテスタ村では、一つの話し合いがされていた。
「おぉいノエル、ちょいと話があるんじゃがのう」
野良仕事に出ている村の者たちが、畑の脇で軽食をつまんで居る頃。
一軒のこじんまりとした家の前で、少し背が曲がった、杖をついている老人が、そこに住んでいる少女の名前を呼ぶ。
「……んむ? 留守かの? それとも裏の畑かの?」
家の中で物音がしないことに気付いた老人が引き返そうとした時。
「はぁい! すぐに出ます!」
急に騒がしい音がした後、口の中に食べ物を詰め込んだままの銀髪の少女ノエルが、勢いよくドアを開けたのだった。
「小麦を売る、ですか?」
ノエルは目を丸くして、頷く老人の顔を見つめる。
「うむ。トウモロコシの植付、食用に関しては陛下にお許し頂けたが、販売に対しての許可はまだ受けておらん。加えて春先にお前さんが提案した通り、ある程度の備蓄ができるまではトウモロコシは外には出さん……が、小麦に関しては別じゃろう?」
「そうですね……」
今年の春。
テスタ村は正体不明(建前上、ではあるが)の者たちによる襲撃を受け、穀物の倉庫を一部焼かれただけではなく、春小麦の畑を荒らされていた。
通常であればすぐに畑を整備し直し、再び春小麦の種を蒔くところであったが、今の彼女たちにはそれより優先すべき作業があったのだ。
それはトウモロコシと呼ばれる作物の植付。
倉庫を燃やされて種子の備蓄が少なくなっていた彼らは、荒らされた春小麦の畑を秋小麦へと切り替え、通常であれば来年の春先にその畑に植えるであろうクローバーの栽培を諦めていた。
蜂蜜を作るミツバチを引き寄せ、畑の滋養になり、更には家畜の飼料にもなるクローバーは重要な植物であり、よって栽培を諦めるのに当初はかなりの反対があった。
だが最終的には全員が納得し、トウモロコシの栽培に注力するとの決定が下される。
なぜなら小麦は他の村にもあるが、トウモロコシは今のところこのテスタ村一つをまかなう分量しかないからだ。
実は人だけではなく家畜の食べ物ともなり、茎や葉は畑の肥料になる。
収穫も種を蒔いてから三か月ほどと、今のノエルたちには必要不可欠な物だった。
「でも問題があります。トウモロコシを外部に出せないと言うことは、小麦で年貢を納めるしかありません。と言うことは、来年まで主にトウモロコシを食べることになります。確かに美味しいですけど、灰汁で事前に煮込まないと味が……」
「うむ、じゃが灰汁で煮込まなくてもそれほど味は落ちなかったらしいぞ?」
「え? そうなんですか?」
「うむ、忙しかったからそのまま普通の水で煮て食ったらしいが、そちらの方が美味しかったと言っておった」
ノエルは口に手を当てて考え込む。
トウモロコシを彼女たちにもたらした堕天使ジョーカーによれば、灰汁で煮こまないと味が異常に落ちる、とのことだったからだ。
しかしいくらノエルが考えてもジョーカーの真意は分からず、彼女はその疑問をとりあえず後回しにする。
「それはそれとして、小麦も少々の量であれば売っても問題は無いと思いますけど、もし春先のように倉庫を燃やされたりなどで蓄えが少なくなると、不味いことになるんじゃないですか?」
「それなんじゃがの」
村長は一つの紙を取り出し、ノエルの前に広げる。
「年貢の免除……そしてこちらの絵はカブ?」
ノエルは書面に書かれている内容と、アルストリア領主であるガスパール伯の印に目を通し、それが本物であることを確認する。
「謎の襲撃があったことを領主様に報告しに城に行ったじゃろ? その時に今年の年貢の免除とともに一つの依頼を受けてな、それがこのカブの栽培と言うわけじゃ」
「なんでカブ?」
ノエルは首をひねる。
カブは確かに荒涼な大地でも育ち、葉から根まで食べられる。
しかし葉はともかく、根の方はよほどしっかり煮込んでも筋が残り、その食感はとても食べられたものではないからだ。
「ほれ、その……まぁこの前の襲撃者に関係があるのかどうかは知らんが、最近ベイルギュンティの領主様が、エドゥアール様からエルネスト様に変わったんじゃが」
「そうなんですか。この前の襲撃者とはまったく関係ないでしょうけどベイルギュンティの領主様が変わられたのですね」
余計なことを言わないように、と言わんばかりの笑顔を浮かべ、ノエルが村長の言ったことを訂正する。
そしてその笑顔を見るなり、村長は大仰に咳ばらいをして話を続けた。
「お前も知っての通り、今まで平和なベイルギュンティに兵を貸し出す代わりに穀物を得ていたこのアルストリアだが、あちらの領主様の急な代替わりによる混乱で、少々穀物の支払いが遅れているようなのじゃ」
「そうですか。それで?」
少しだけ低くなったように感じられるノエルの声。
直後に村長は会話を止め、正面からノエルの目を見据えた。
「……もう終わったことじゃノエル。お前がそこまで気にすることは無い」
「それもそうですけど、完全に忘れることも危険です」
諭してくる村長にノエルは反論し、二人は黙ってしばらくの間見つめあう。
だが元々ノエルのことを慮った村長の発言であることを承知している彼女は、無言のまま頭を下げて謝罪をした。
「さて、それでは先ほどの話の続きじゃ。要は何かあった時に備えて、作付けする作物の種類を変え、収穫する時期をずらしたい。それがガスパール様のご意向なんじゃよ」
「で、カブですか……」
ノエルは苦い顔をすると、絵に描かれたカブを睨み付けた。
「論より証拠と言うでな。今日の昼飯はウチで食っていけ」
村長は立ち上がり、ノエルへ手を差し伸べて食事へ誘った。
そして。
「カブ……」
村長の家に着いたノエルが見たのは、まさしく厚めにスライスされた白いカブが至るところに浮かぶシチュー。
「遠慮なくカブりつくといいぞ」
笑顔でそう勧めてくる村長に対し、ノエルは余計なことを言わないように、と言わんばかりの笑顔を返す。
対する村長もその笑顔を見るなり大仰に咳ばらいをすると、なみなみと器にシチューを盛りつけ始めていた。
「やめて下さい村長! なんでそんなにいっぱい入れるんですか!」
即座に抵抗の意思を見せるノエルに、村長は笑顔で器を押し付ける。
「ちょっと口にしただけでは分からんと思ってな。騙されたと思って食ってみろ」
「いえいえ、まだ村の生活が安定しているわけではないのに、私だけがお腹いっぱいになるまで食べる訳にはいきませんから」
傍目には笑顔で食事を勧める家主と、笑顔で礼儀上の遠慮をしているノエル。
なのだが。
「気にするな。これは村の今後を決める重大な一歩とも言える食事じゃからの。冷えんうちに早く食うがいい」
「引っ越してきた私より、代々この村に住んでいる人で決めた方が……」
「皆はカブが大好きじゃからの」
二人の笑顔には、妙な気迫が満ちていた。
「うう……あむっ」
そして遂にノエルは根負けをし、シチューを乗せたスプーンを咥え。
――ごぶり――
精神魔術で体を強化して、熱いシチューを分厚いカブごと丸呑みした。
「ちゃんと噛んで味わわんか! 魔術をそんなことに使うなど、先人に対して申し訳が立たんと思わんのか!」
「ひどい! これも生き抜くために必要な処方の一つと思うんです!」
「とにかくカブ大嫌い人間のお前さんでも美味しいと思うはずじゃから黙って食え! 村の今後を決めるとワシがさっき言ったじゃろうがい!」
先ほど無理やりに飲み込んだ巨大な輪切りのカブのせいか、それとも苦手なカブを無理強いさせられているせいか。
ノエルは涙目になりながらカブを口に入れ、ゆっくりと噛みしめた。
「あれ? やわらかい」
ノエルは口に含んだカブの食感に驚く。
それまで彼女が口にしたカブと言えば、天日でごわごわに乾いた洗濯物のような、硬い繊維物の塊だったのだが、口の中のカブはとろけるように柔らかい。
いや、実際にねっとりとしたとろみすら感じられる食感にノエルは驚き、彼女が次に気が付いた時にはシチューをすべて食べ終わっていた。
「どうじゃノエル。……ん? 返事がないが、あまりのおいしさに気が抜けたか?」
「……え? あ。す、すいません! ええと、カブ自体はそれほど美味しいとは思いませんけど、驚くほど柔らかくてクセが無いですね」
空になった器に目を落とし、ノエルは答える。
「そうかそうか。このカブは昔、アルストリアに逗留していた一人の傭兵から領主様が譲り受けた物で、今までは領主様がこつこつとお一人でお育てになっていたらしい」
「お一人でですか? 何でまたそんな手間のかかることを」
「物が物だけに、信頼できる者の手に委ねるまでは自分自身で管理しろと言われたらしい。カブの常識を覆すような一品だけに、よけいな騒ぎの種になりかねんからの」
「騒ぎの種……」
トウモロコシ、この柔らかいカブ、そして村を襲った襲撃者。
騒ぎの種と聞いたノエルはそれらを思い出し、連想した不安を思わず呟いていた。
「……危険ではないでしょうか」
「何がじゃ?」
村長の問いかけにノエルは顔を上げ、自分が何を言ったのか理解していないかのようにまばたきをする。
「ええと、信頼できる者の手に委ねるまではと言うことは、逆に言えば信頼できない者がこのカブの存在を知れば、この村に手を出してくるのではないかと思って」
「この前、村を襲撃した者たちのような、か?」
「はい。あの時はどうやら襲撃者と敵対しているらしいジョーカーが、たまたま村の近くを通りかかったから事なきを得ましたが、今度また襲われたらどうなるか」
村長は腕を組み、唸りをあげる。
「じゃが、ワシとしては領主様の期待に沿いたい……テオドール様があのような末路を辿られたこともあって、ワシらが今頼れるのは領主様しかおらんのじゃからな」
「それもそうですね……村の未来を考えるなら、領主様のご意向に沿った方が間違いは無いでしょうし」
ノエルは同意するが、そうは言っても完全に頼る相手がいないわけでもなかった。
フォルセールの天使アルバトールに彼らは全員面識があったし、トウモロコシについて国王に陳情をしたノエルに至っては、シルヴェールにも顔を知られている。
馬に乗れない彼らにとって、フォルセールは距離的に遠すぎるのが問題だったが。
「ただカブを植えるなら作付面積が増えますから、獣害を防ぐ人数の確保が問題になると思います」
「まぁのう。カブは育てるのにあまり手間暇はかからんが、食べに来る獣は追い払わんとな。特に村をしばらく留守にしとったせいか、奴ら随分と遠慮が無くなっておる」
村長は苦笑し、真っ白なあご髭を撫で付ける。
「とりあえず小麦を売って、カブを本格的に植え付けるための資金にするつもりじゃ。スタニック殿とアルノー、エミリアンにもうひと働きしてもらって、弓や罠の訓練を村人にしてもらうとするか。ノエル、お前も精神魔術を教えてやってくれ」
「それは構いませんけれど、それだけではやはり不安です。領主様に願い出て、何人か兵士を派遣してもらいましょう。私たちだけでもある程度の力は付けられますが、それでも敵わない時は助けを呼ぶ伝令が必要になりますから」
「そうしよう。しかしさすがテオドール様に皆を守る方策について、直接の手ほどきを受けただけのことはある。ワシは獣を追い払う程度の力さえあれば良いと思ったが」
ノエルはその村長の言葉を聞くと、自分の手を見て寂しそうに笑い、シチューを御馳走になった礼を言って村長の家を出て行った。
その日の深夜。
「ううん……」
床についたノエルの中で、再びあの意志が声なき声を発していた。
(なかなか耐えるな、この小娘……ノエルと言ったか。いくら転生直後の力を失った状態とは言え、このアナトの支配をなかなか受け入れぬとは)
つい先ほどまで軽く寝息を立てていたノエルはその呼吸を止め、心臓すらその働きを止めている。
そして額に汗の粒が浮かんだその顔は、苦痛を耐えるように歪んでいた。
(だが、その粘りもここまでだな。もうすぐ深層への階層が開く……ん?)
声なき声、アナトの意思が何かを見つけたように疑問符を発した時。
(な、何だッ!?)
ノエルの心が渦巻き、自我の奥底、イドへと続く階層が次々と開いていく。
(落ちましょう……永遠に落ち続けて……皆も一緒に……際限のない恐れを……)
そして開いた先の深淵からは、アナトごとすべてを吸い込むほどの圧倒的な意思が、その手を伸ばしてきていた。
(おのれ小娘! このアナトを何とかできるとでも思ったか!)
アナトは力を振り絞り、吸い込もうとするその存在に抗う。
こうして静かに戦いは始まった。
強大な力を持つ二つの存在の、いつ終わるか分からない戦いが、眠りについたノエルの心の奥底で。
「きゃっ!?」
そして寝ている最中にどこかへ落ちていく感触を感じたノエルは、全身を汗に濡らして飛び起きたのだった。
その後。
季節は過ぎ、テスタ村にも秋の訪れを感じさせる涼しい風が吹きはじめた頃。
テスタ村の何人かに体の不調を訴えるものが出始めるが、それもすぐに収まる。
「おいノエル、顔色が悪いが大丈夫なのか?」
「ええ、最近なんだかあまり眠れなくて……」
「アルノーさんが外を見回ってるから不安で眠れないんじゃないですかね」
「どういう意味だよエミリアン」
そしてノエル自身も、まだ自身と周りに現れ始めた異常に気付いていなかった。




