第205話 一日の始まりは朝チュンで
「では二人の都合がいい時に、その酒場に連れて行ってください!」
口を尖らせたアデライードが、そうせがみ始める少し前。
執務室ではシルヴェールとクレメンスが、メイルシュトローム作戦に於ける最大の功労者の到着を今や遅しと待っていた。
よって一人で入って来たベルナールを、二人が多少落胆した表情と口調で迎えてもまるで不思議は無い。
しかしその理由を承知の上でベルナールは、戦利品は今のところ水揚げ中で、その価値を見定めている最中ですので持ってきておりません、との報告を澄ました顔でシルヴェールへ上げていた。
「そうか。我が国の騎士団長は意地が悪いな」
「お互いさまでございましょう。そろそろ引退も考慮すべき年齢の者が、いきなり揺れ動く外洋勤めに移って働きづめ。ようやく不動の大地に戻れて崇める主君に謁見すれば、渡された褒美が嘆息一つとは」
「その嘆息の理由も分かっている上で、放った一声目が戦利品では意地悪と言いたくもなろう。年寄り扱いを望むなら、なるべく早く天魔大戦を終わらせることだ」
「無論、年寄り扱いを望んでいるわけではありませんが」
ベルナールが答える途中で、シルヴェールが苦笑しながら手でカウチを指し示す。
「そろそろ終結に向けて動かなければなりませんな……ふぅ」
主君の厚意に甘え、ベルナールは一礼をしてカウチに座り込むが、それと同時に知らず知らずのうちに息をついてしまう。
それを見たシルヴェールは、何か思う所でもあったのか少し考え込む様子を見せるが、すぐに机に置いてあった紙の束を手に取ってめくり始め、口を開く。
「ブライアンを覚えているか?」
その問いから、三人の密談は始まった。
次の日の朝。
アルバトールの部屋の外はまだ薄暗かったが、窓からは朝の訪れを告げる鳥のような声が聞こえてくる。
「……あさ……いたい……あたま……」
天使になってからと言うもの、彼は殆ど寝ずに済む体質になっている。
だが智天使となってから、振るえる力の限界がそれまでとまるで違うものになったため、体力や魔力を回復させるための休養である『魂の眠り』が必要になっていた。
厳密に言うと、魂の眠りは睡眠ではない。
その仕組みは、精神を完全に精神界へと飛ばして補填、再構築することで通常より回復する速度を速めると言うものである。
これを解除できるのは自らが設定したキーワード、もしくは特定の人物による外部からの刺激のみ。
アナトがシルヴェールを追ってフォルセールの近くまで迫った時、エルザが目覚めなかったのもこの所為である。
さてこの時、アルバトールは女性が自分を起こす声をキーワードにしていた。
勝ち戦で凱旋した日の夜、酒宴を開かない国は古今東西を見ても存在しない。
と言うわけでフォルセール城もその例に漏れず、彼は夜遅くまでまでべらぼうに飲み、飲まされ、飲ませていた。
寝台に潜り込んだ時、二日酔いで次の日の朝を迎えることが判っていた彼は、朝の到来を告げる第一声をベルトラムではなく、優しい女性の声。
つまりアデライード、あるいはアリアの声で聞きたいと思っていたのだ。
[おはよご主人! おはよご主人!]
「……うんおはよう。早いねセイ」
その望みは思う存分叶えられることとなり、目を覚ました彼は激しい頭痛に耐えながら窓を開け、外の木に大量に群がるセイレーンたちに起床の挨拶を返したのだった。
それから少し経った後の朝食の時間。
彼は思ってもみなかった人物の名を、シルヴェールから聞くことになる。
「ブライアンからの手紙ですか! ……え?」
頷くシルヴェールを見た途端、アルバトールの顔は明るいものへと変化する。
だがシルヴェールが説明を口にするたびに、彼の顔は曇っていった。
「王都の自警団に潜り込み、孤児と未亡人を諜報員とする協力を得た、ですか」
シルヴェールは複雑な表情を見せるアルバトールに対し、あっさりと首肯した。
「昨日ベルナールに解読してもらった暗号文ではそうなっていた。しかし商人たちが使う伝票の訂正箇所からこちらに保管してある解読書のページ数を指定、そこから更に伝票に乗った文字と数字を解読とは手が込んでいるな」
「送る側にも解読書が必要で、もし少しでも伝票が欠損すれば解読できなくなる欠陥品ですよ」
「漏洩するよりはマシだろう。この暗号文の中身が知れれば、下手をすればフェルナンたちにも累が及ぶことになるからな」
先ほど聞いた会話の内容への不満がありありと見えるアルバトールの返答。
謙遜ではなく、不満によって暗号の解読方法を評価し、採点した目の前の天使を見てシルヴェールは苦笑する。
「アルバが生真面目なのは知っていたが、味方には寛容に接すると思っていたぞ。すまんすまん、冗談だ。では続けるとしよう」
シルヴェールはそうなった成り行き、そしてブライアン自身の感情を交えた感想、最後に感傷じみた進言を書いていたことをアルバトールに告げた。
「と、言うわけらしい。どう思うアルバ」
「確かにブライアンは僕の友人です。ですが僕の知っているブライアンは、こんな手段をとりません。彼はきよ……えーと、正しくそして美しい感じでした」
「ブライアンがフォルセールに居た頃は、三人で随分と清くないことを楽しんでいたとエンツォから聞いているぞアルバ」
「いえ、お酒がちょっと入った時くらいしか……」
顔の下半分を両手で隠し、目を光らせるシルヴェールに反論しようとして、その中途で黙り込むアルバトール。
その時彼の目は、広間に入って来たアデライードとクレメンスの二人に釘付けとなっていた。
あの二人に聞かれてはならない話題。
人から天使となった特別な立場の彼には、周囲の人々に秘匿せねばならない情報が余りにも多すぎた。
「と言うわけで、夜な夜な女遊びをするのは控えた方がいいぞアルバ」
「してませんよ!? そんな暇ないですからね!?」
……だが、彼以外の口から情報が漏洩することもあるのだ。
「陛下、確かに此度も成熟した大人のセイレーンをアルバトールが連れ帰って来たからと言って、それは少し可哀想ではありませんか?」
「いや連れ帰って来たのヘルメースだからね? クレメンス」
「そうですよクレメンス様。アルバ様がセイを連れ帰って来た以上、今度はその姉様たちを連れ帰ったとしてもまるで不思議はありません」
「確かに不思議はないけど僕が連れ帰ったことになってるのは不自然です姫!」
「さて食事も来たことだし、続きは執務室で話すとしよう」
シルヴェールは全員の前に食事が並んだのを見て、話を打ち切る。
「アルバ、過去の過ちを許してくれた寛容な女性に対し、言い訳を続けるのは逆効果だ。堂々と構え、もうしません。と頭を下げるだけにしておいたほうがいい」
「もうしません」
爽やかな朝日の到来、体の目覚めを助ける朝の食事。
新たな試練を予感させるセイレーンたちの朝の挨拶を経て、アルバトールの一日は始まった。
そして朝食後。
「思わぬところで会話が横道に逸れてしまったが、続きと行くか」
「未亡人はともかく、孤児を諜報員とした事案について、ですね」
アルバトールが示した議題に、シルヴェールは肯定をして話し始める。
「未亡人たちの協力を得るのは分かる。だが孤児はあやうい。まだ自我や理性が確立していない彼らは簡単に仲間に入り、そして簡単に裏切る可能性がある」
「子供たちは孤立を恐れるが故に、リーダーや周囲の雰囲気に流されやすく、そして後になって安易な同調を選んだことを後悔する。その後悔した子供を暖かい食べ物やベッドで釣れば、簡単に裏切ると言うわけですか」
「魔族が孤児の諜報活動に気付いていないならいいが、気付いた上で泳がせているというのなら、王都の協力者はこれを機に一網打尽にされるかもしれん」
そこにクレメンスが口を挟み、二人は横に立つ麗人へ顔を向けた。
「心配ならば連絡を着けて止めさせればいいだろう。そもそも、そのブライアンと言う男は何と言ってきているのだ……ですか? 陛下」
シルヴェールは苦笑し、クレメンスに普段通りの口調でいいと告げ、身を乗り出すと自らの私見を述べ始める。
「虎穴に入らざれば虎子を得ず、だ。確かに危険だが、私も王都の情報は欲しい」
シルヴェールはそこで一度言葉を区切り、二人の顔を見る。
「届けられた情報によると、魔族の傾向や性格、そして嗜好まで記載されてあった。魔族は強大な力を持つ故に脆弱な人間を見くびる傾向があり、また一部の堕天使を除いて情報の重要さを軽視する、だそうだ」
アルバトールはそれを聞き、バアル=ゼブルとジョーカーの顔を思い出すと、それぞれの顔にそれぞれ違う意味を持つ一つの溜息をつき、シルヴェールを見る。
「しかし陛下、虎穴からの脱出に失敗した場合はどうするのです。自ら立ち上がり、戦う意思を決めたならともかく、まだ他者に頼って生きていくしかできない子供が巻き込まれた可能性もありますよ」
アルバトールの問いにシルヴェールは顔を少し歪め、だが真っ直ぐに質問者の目を見つめながら返答した。
「事が魔族に露見した時は、ブライアンが一人で罪を被ることにはなっている……だがその場合、大抵は再発を防ぐ見せしめのために周囲も犠牲となるだろうな。協力した、しないに関わらずな」
答えた内容にまるで似つかわしくないシルヴェールの鋭い眼、表情。
そして引け目をまるで感じさせない口調。
その返答を聞き、アルバトールは不敵な笑みを浮かべた。
「そこで僕に何かをさせようと言うわけですか、陛下」
「話が早くて助かるな。何、大したことではない」
こうしてアルバトールは少しも大した話ではない内容を耳にし。
「……陛下、嫌な予感しかしないんですが」
と反論するも即座に却下され、彼は首を傾げながら執務室を後にしたのだった。
二週間ほどが過ぎた後、王都に妙な噂が流れ始める。
曰く、王都の自警団に反逆の意志あり。
噂の真実を確かめるため、ジョーカーは自警団のフェルナンを王城に招請した。
[噂は聞いているな、フェルナン]
「どの噂じゃ? アナトが転生したという噂か? もったいつけずに簡潔に言わんか。定命である我々人間は、お前たちと違って暇ではないんじゃ」
謁見の間に入るなり、要領を得ない質問をしてきた堕天使。
このような輩と顔馴染みになってしまった不幸を呪いつつ、フェルナンはぎろりとジョーカーを睨み付ける。
[お前たちが我々に反逆を企てており、反攻の糸口となる情報を得るために子供たちをこの城に送り込んだ、という噂だ]
「ほう。確かに王都が落城してから常に反逆は企んでおるが……ふむ」
フェルナンはジョーカーの詰問に対して少しも表情を変えずに口ひげをつまみ、その弾劾を受け止め、跳ね返した。
「と言うか、重要な情報を誰の前でもホイホイと口にするお調子者の方が問題じゃろ。その者を放置しておけば、城内に子供が居る、居ないに関わらずお前たちの秘密は漏洩しよう。その不始末まで我々に被せるのは、ちと酷と言うものじゃ」
誰もがそう答えるであろう、その反論内容。
抗弁の余地が無いその返答を聞き、ジョーカーはしばし口を閉じる。
[……人の口に戸は立てられぬ。無論お前の言うお調子者に口止めはしたが、どこまで守るか判らんのだ。そちらも痛くない腹を探られたくはあるまい?]
「じゃがそちらの言い分を聞けば、こちらの懐が痛むのも事実でのう。ここで孤児たちの収入減が断たれては、仕事を紹介した手前、自警団としても何もしない訳にはいかん。そこでじゃ、孤児たちが立ち入れる場所を制限することで手を打ってくれんか」
[……仕方があるまい。確かにあのへそ曲がりは、喋るなと言えば余計に吹聴して回るような大バカ者だからな]
フェルナンが申し出てきた取引を、ジョーカーは渋々承諾する。
「獅子身中の虫か。じゃが……最近あやつ変わったのう。以前より随分と魔族らしくなったのではないか? ま、とにかく機密漏洩はお互い様と言うことじゃから、あまりこの件に関してワシを招請するのは止め……」
フェルナンがそう言った時、慌ただしい気配と共に謁見の間の扉が開かれる。
[ジョーカー様! 天使たちがエルフの集落に向かったとの情報が……アウチッ!? な、なぜ殴るのでございますか! アルバトールと言う天使に関するじょでぶっ!?]
そしていきなり謁見の間に入ってくるなり、機密事項と思われる情報をべらべらと喋り始めた太っちょの下級魔神が、ジョーカーに壁まで殴り飛ばされる。
それを見たフェルナンは、呆れたように別れの挨拶をした。
「それでは帰らせてもらうぞジョーカー。それと、これからは情報管理の責任をこちらに押し付けんようにしてくれると助かる」
返事はない。
ただ弱々しく頷き、忌々し気に魔神を睨み付けるジョーカーの顔を見て、フェルナンは慰めるように肩に手を置き、そして謁見の間を出て行ったのだった。
「無事に帰れたようだな、団長」
「八雲か。これ以上ないタイミングじゃったぞ」
「不審な行動をしている下級魔神に、少々事情聴取をしていただけだが」
フェルナンは王城の外に出ると、そこで待っていた黒髪の男に話しかける。
「しかしこれほど上手くいくとは思わんかったわい。流石ベルナールじゃ」
「あの白髪の男か。しかし団長、これでは情報は得られても、こちらが得たい情報が得られなくなるのではないか?」
「一長一短じゃろ。その代わりこれで、子供たちや女たちの安全は確保されたんじゃ。我々の最大の目的はなんじゃ?」
フェルナンの問いへの回答を、八雲は両手を上げただけに留めて歩き出す。
「……面白くなりそうだ。迦具土は討てなかったが、こんな西方まで来た甲斐はあったかも知れん」
「ん? 何か言ったか八雲?」
八雲は今度もその問いに答えず、一軒の酒場から発せられる気に目をやる。
「いや、何でもない」
数日前に交わされた、一人の旧神と今日の夜に会う約束。
その指定された酒場から発せられる気を見た八雲は、周囲に展開する障壁を強化し、フェルナンと共に自警団の詰所に戻っていったのだった。




