第203話 受け継がれた称号
「もらった!」
幾度となくぶつかりあった二つの光球の間に、一際激しい閃光が発せられ、距離をとった後にその一つが叫びを上げた。
[このアナトに傷を負わせるとはな! この代償は高くつくぞ天使よ!]
そのアナトの言葉と同時に、彼女の頬に走っていた一筋の傷が消える。
代わりに周囲の空間に次々と浮かび上がってきたのは、無数の黒点。
その中心で、旧神アナトは笑みを浮かべていた。
[かかってこい天使よ。私に傷を負わせたことに、今更怖気づくこともあるまい]
「と言われても、僕としては手負いの獣に近づきたくはないかな」
そしてアナトと同じように笑みを浮かべていたアルバトールは、剣を持った右手を胸の高さに掲げ、横に振り抜く。
同時に彼の周囲に展開する大量のフラム=フォイユは集い、研ぎすまされ、何本かの巨大な銛へ変化を遂げていた。
だがそれらが放たれようとした瞬間。
「何だ!?」
突如として下から異変がもたらされる。
[どうやら兄上が、ティアマトと本気でぶつかり合い始めたようだね!]
戦う彼らの周囲を包んだそれを見てアルバトールは戸惑い、アナトは動く。
そして甲高い金属音が鳴り響いた。
「っ……う」
[この結果は必然。私しか見れなかったお前、お前以外も見ていた私との違いだ]
アナトに吹き飛ばされたアルバトールの胸は、横に大きく切り裂かれていた。
「なるほど。ここは一対一で戦う闘技場ではなく、複数が入り乱れ、互いに影響する戦場か。それにしても、ここまで離れていても影響するとはね」
アルバトールは呟き、下に広がる雲海を見た。
そう、先ほどの異変とは雲。
マイムールによって上空まで吹き飛ばされてきた海水が、上空の寒さと強風によって即座に凍り付き、彼らの視界を一瞬だけ奪う雲となったのだ。
ティアマトの体の一部を含むそれは、強風に吹き飛ばされること無くすぐに宿主のところへ戻って行ったのだが、アナトにとってはそれだけで十分だった。
[敵を見て戦場を見ず。どうやらお前は、勇敢な兵士には成ったが優秀な指揮官には成れなかったようだ。かつての私も、周囲からはこう見られていたのだろうな]
アナトは不敵な笑みを浮かべると、右手に持つ大剣をアルバトールへ向けた。
[フラム=ジャルダンと言ったか。この程度の未熟な術で、この私に、私たちに対抗しようと思った己の愚をあの世で後悔するがいい]
「未熟……だと」
アナトの言に、アルバトールは歯噛みをする。
ゼウスとの激しい修行によって編み出したフラム=ジャルダン。
術の使用枠を二つ使用し、どこでも自らに有利な領域を作り出せるこの術に、彼は少なからずの自信を持っていたのだ。
[術とは自らの望みを、精霊の力を借り、実際に引き起こすもの]
だがその指摘を聞き、光の剣を持つアルバトールの右手が小刻みに震える。
[しかるにお前は精霊を捕え、この場に縛り付け、脅迫さながらに火の力を無理矢理に引き出しているのだ。そのような下賎な所業を、未熟と言わずして何と呼ぶ]
黙り込んだ目の前の天使にアナトは失望して首を振り、左手を頭上にかざす。
[これから見せるは我らが秘奥。この私ですら未だ使いこなせぬ王の御業]
そして周囲に威圧が満ち。
[大陸の邸宅!]
アナトの術の完成と共に、空間に満ちる火の精霊力が徐々に土へと傾いていく。
「馬鹿な!?」
信じられない光景に驚愕するアルバトールに、アナトは冷笑を向けた。
[無理矢理に縛り付けられ、力を絞られ続けた精霊は怒り、遂には反逆する。翻って我らが秘奥、館の術は中に招いた客人を保護し、歓待し、協力を乞う。まさに君子の術]
そして頭上にかざした左手を振り下ろし、蛇の形をした黒い岩を次々と呼び出す。
[サルブ=トゥルバ!]
「フラム=フォイユ!」
鎌首をもたげ、放たれた黒い蛇をアルバトールはフラム=フォイユで迎撃した。
[王手だ、天使よ]
だが続いて迫ってきたアナトの大剣を、彼は防ぎきることが出来なかった。
左肩を大きく切り裂かれたアルバトールは何とか反撃を試みるが、それをすべてアナトに避けられた彼は、更なる一撃を右わき腹に受けて後ろに下がる。
[そう言えば、まだその小癪な術があったな]
だがアルバトールは深手を負いながらも、その目はまっすぐにアナトを見据える。
受け止め、受け入れ、受け流す至高の防御術、アイギスの光に包まれて。
[ふん、相変わらず防御だけは長けているな。だが我らが最高神。敬愛する兄であり我が夫。いと高き館の主バアル=ゼブルの名に懸けて、お前には死んでもらう]
膨れ上がる殺気。
アナトの周囲にアスワド=タキールが生まれ、持つ大剣にはアスワド=サウトの黒い影が牙を剥いていた。
そして土の精霊の猛り狂う意志が周囲を埋め尽くす。
――精霊を恐れぬものに死を――
ついにアルバトールに愛想をつかしたか。
先ほどまで荒れ狂っていた火の精霊の力は鳴りをひそめ、力の供給を止める者が次々と出ているように見えた。
[さらばだ天使よ。あの世でサミジーナやアモンと共に、地獄の業火で焼かれながら狂気の舞いを踊るのだな]
怒りに燃える土の精霊の力を、アナトが術に籠める。
絶体絶命。
その状況下において、尚アルバトールの眼から光は失われていない。
そしてアナトが術を放とうとする直前。
アルバトールの口から呪文が紡ぎ出される。
「なぜ最強である君が、バアル=ゼブルに着き従っているんだ?」
その呪文に、アナトは動きを止めた。
バアル=ゼブルへの侮辱ともとれるその呪文を、彼女は無視することも出来た。
だが出来なかった。
バアル=ゼブルはそれほどアナトにとって神聖であり、犯さざるべき存在。
だから彼女は、今目の前にいる天使に答えた。
[臣下を愛し信徒を守る。最強にあらずとも至高。上に立つ者に必要なのは強さでは無く、上に立つ者のために強くあろうとする意志を周囲に持たせられる者だ]
アルバトールは少しだけ時間を稼ぐだけのつもりだった。
だが彼が口にした言葉は、思った以上の効果をアナトに与えていた。
上に立つ者のために、強くあろうとする意志を持たせられる者。
かつてアナトが王都で目にしたあの少年、あの男たち。
あの者たちはまさしく……。
「どうしたアナト。顔色が良くないぞ」
その言葉にアナトが我に返った時、周囲の空間は歪んでいた。
そして再び火と土はせめぎあい、その場における優劣が不明瞭なものになっていく。
[この気配……まさか火の上位精霊イフリートを召し寄せたのか? 交信に神代が必要とされる、あの……!]
「これこそがフラム=ジャルダンの神髄。縛り付けられた精霊は助けを呼び続け、ついには彼らを統率する上位精霊が現れる」
焦燥感で顔を歪めるアナト。
だがそれを見るアルバトールの顔も、苦痛に歪んでいた。
この物質界の根源を司る四大元素のひとつ、火を司る上位精霊イフリート。
その強大な力は、火を本質とする天使であり、炎を術の中心に据える彼ですら扱いかねる物なのだ。
(今の僕が制御できる時間は……おそらく五分あるかどうか)
アルバトールは剣先をアナトに向けて言い放つ。
「退けば良し。だがこの力を見てもまだ向かってくるなら、容赦はしない」
アナトは笑う。
[……最強とは]
アナトは身構える。
[目の前の敵をすべて倒してきた者にのみ授けられる称号]
アナトは術を放ち。
[私が背負う物は、闇の四属性すべての誇り! 断じて退くわけにはいかん!]
大剣と共にアルバトールへ向かった。
その胸中を、王都で見た討伐隊によって千々に乱しながら。
[バッカ野郎! 戦ってる最中に小難しいことは考えなくていいって言っただろうが!]
天空に光と音が満ち、それを一人の旧神の声が覆う。
アナトは光の剣に精神体を斬りさかれ、フラム=ブランシュの残滓と共に母なる大海へと落ちていった。
[おいアナト! しっかりしやがれ! ……チィ、ここまで消耗してちゃ暗黒魔術による治療は出来ねえか!]
通常であればすぐに止まるはずの血は止まらず、見る間にアナトの顔から血の気が引いていく。
一見すると軽傷を負っただけのアナトを見て、バアル=ゼブルは慌てていた。
「僕がやろう。王都でリュファスやロザリーを助けてくれた貸しは、これで帳消しだ」
そこに掛けられた声にバアル=ゼブルが上を見れば、そこには彼も幾度となく戦ってきた天使、アルバトールがいた。
だが、バアル=ゼブルは首を振った。
そして彼に抱かれたアナトが、弱々しい声でアルバトールに答える。
[無駄だ……ダークマターによる治療を受けたものは、しばらく時間を置かねば法術による治療は効果が無いばかりか、激痛を産むのみ]
「そうか」
アルバトールはそれだけを言うと、鞘に納めていた光の剣を抜いた。
「介錯を」
[……必要ない。既にこの身は転生を始めている。それでも私が生まれ変わるまでの時間を伸ばしたいと言うのであれば、この現身体も斬れば望みは叶おう]
「そのつもりはない。する力も残っていない。なにより君の奉戴する主が、それを許すはずがない」
アナトは微かに笑った。
[最強の称号を取り戻しに、すぐに私は帰ってくる。その時に、お前が居ないのでは困る……待っていろ……息災でな……愛しております……兄上……お兄……様……]
アナトの体から小さな光が飛び去る。
物質界での現身体。
その形状を決める大元、在ろうとするべき根源である精神体を切り裂かれたアナトの体は薄れ、彼女の体を支えるバアル=ゼブルの目の前で、次第に消えていった。
[……別に恨んじゃいねえ。だが許すつもりもねえ]
「好きにするがいい。今の僕は無力だ」
[こっちも似たようなもんだ。ティアマトのバーさんに力を使いすぎちまった]
バアル=ゼブルの言葉を聞いたアルバトールが周囲を見渡せば、そこには船の残骸があるばかりで、あの白いワンピースを着た少女姿の旧神の気配はどこにも無かった。
[上空に現れた異常な火の属性力を見た途端、どこかに行っちまってな。お主も早く逃げるが良い、だとよ。そんなことが出来りゃ世話ねえんだよクソッたれが]
そう毒づいた後、力なく拳を握りしめてバアル=ゼブルは後ろを向く。
[次に会う時は殺し合いだ]
そしてポセイドーンの祭壇のほうへ飛び去って行った。
その場に残されたアルバトールは一人、何も考えられずにその場に浮かぶ。
数分ほどそうした後、彼は力ない表情で天を見上げ、呟いた。
「殺し合いは、いやだなぁ……」
魔族の中でも最強。
そう呼ばれる難敵を倒したと言うのに、彼の心は満たされないどころか、逆に薄れていくように感じていた。
そろそろ帰ろうと思った彼は、弱々しく飛行術の光に包まれる。
だが振り返った瞬間、その顔は喜びと生気に満ち溢れるものとなっていた。
[ご主人!]
「アルバ! アルバ……!」
「フィリップ候、しっかりせねばアルバトールが心配しますぞ」
「アルバトール!」≪アルバトール!≫
そこには数々の船が彼を出迎えに来ていた。
乗っているすべての者たちが手を振り、笑っている船団が。
アルバトールは手を上げ、振り、そして飛行術の光に包まれ。
彼の身を案じる人々のところへ帰っていった。




