第202話 炎の庭
海面から巨大な水柱が立ち昇る。
いや、それに向かって飛んでいる者、一人の旧神から見れば巨大と言うも愚かしい、高く広大な壁に見えたことだろう。
[目障りな]
だが旧神が呟くと同時に振るった大剣によって、水柱は爆発したように四散する。
しかし飛び散った海水はそのまま下の海へ落ちず、霧となって旧神アナトを包み込もうとするように見えた。
[くどい]
だがそれもすぐに、アナトが放った幾つかの黒い球体に飲み込まれて消える。
その時すでに海面からは、更に幾つかの水柱が立ち昇っていた。
[互いにヤム=ナハルの知り合い同士。これ以上の妨害は予想外の結果を産むぞ、旧神ティアマト。ここは傍観者と徹してもらおう]
その水柱を見たアナトは冷徹な笑みを浮かべ、見えない相手に警告を飛ばす。
同時に海面は静かとなり、障害が無くなった彼女は一つのアスワド=タキールを産み出すと、前方に見える船へ狙いを定めた。
[一年ぶりの再会を祝した品だ。受け取れ天使よ]
ただ一つのアスワド=タキール。
帆船を飲み込んで尚有り余るほどのそれが、あまりの巨大さゆえにゆっくりと進んでいるように見えるそれが。
海水を巻き込むほどの速度で、アルバトールたちが乗る船に迫っていく。
[……ほう]
だがそれは、結局この世界に何の影響も及ぼすことは出来なかった。
船にぶつかる瞬間、その黒く巨大な球体は不可視の何かに遮られて威力と規模を大きく減じ、更には何者かが作り出した光の壁に吸い込まれるように消えてしまったのだ。
[船を礎とした結界を張ったか。それでこそ私が呼び出された意味があると言うもの]
そう口中で呟くと、アナトは天使の反撃が来ないことを訝しがりながらも一隻の船の舳先へと降り立ち、乗っているすべての者の耳目をその身に集めた。
[久しぶりだな天使よ]
「一年と言う歳月は、悠久の時を生きる旧神にとっても長い年月なのかな?」
[それが人間たちの間の挨拶と聞いた。あいにく私は天使同士の挨拶を知らないのでな]
アナトが降り立った先には、アルバトールと呼ばれる一人の天使がいた。
全身を血に染め、だがその目に光を宿らせたままに不屈の闘志を彼女に向けてくる、一人の天使が。
[あの時は余計な横槍が入ったが、今回はそれも無いだろう。楽しませてもらおうか]
金属の全身鎧の上から羽織ったマントを外し、大剣を構え、アナトが口の端を吊り上げてそう言うと。
その天使アルバトールは、目の前の強敵にうんざりとした表情で溜息をついた。
(アナトか)
外見に見合わない強さを持ち、その強さに見合った信念を持つ美しい旧神。
(そして強い母性をも併せ持つ……か。王都ではリュファスやロザリーが世話になったみたいだな)
そこまで考えるとアルバトールは、若干の敬意を以って舳先に立つアナトを見る。
(と言うことは先ほどのあの動揺。セイを術に巻き込むところだったことに起因するのだろうか)
アナトが船に降り立ったあの時。
アルバトールの目は、彼の背後にいるセイレーンの少女をアナトが見た一瞬、動揺したのを見逃していなかった。
「せっかくのゲストだ。僕もなるべく楽しませてあげたい所だが、生憎とこちらにも済ませなければならない用事がある。少し待ってもらえるかい?」
横目でアナトを一瞥し、しかる後にサミジーナへ鋭い視線をつきつける天使を見て、アナトはサミジーナに目配せをする。
それに気付いたサミジーナはうっすらと笑みを浮かべ、何かを持ち上げるように腕組みをすると、それを見せつけるようにアルバトールの顔を上目遣いで見上げた。
[あら、アナトを見てまだやるつもりかしら? 私も先ほどの茶番で随分と力を回復させてもらったけど、別に私一人で貴方とやりあうつもりは無いわ]
[天使よ、私にもお前の用事が済むまで待ってやる義理は無い。この後済ませねばならん用事があるのでな]
一人の魔神、一人の旧神の主張を聞き、一人の天使は一つの思い出話をアナトへ投げかけた。
「王都で君は、僕に敗北すれば私を好きにするといい、と言ったな旧神アナト。ならばここでその約束を果たしてもらおうか」
[私は確かに敗北した。だがもう少し正確に言えば、あれはお前の中に潜んでいたメタトロンの仕業……]
アナトは紅をさした唇を歪める。
「三秒だけ手出しをしないでくれ、それならいいだろう」
そしてそれを聞いたアナトが頷こうとした刹那。
「ありがとう、終わったよ」
アルバトールはアナトに軽く会釈をする。
彼の目の前に佇み、きょとんとしているサミジーナは、アナトとアルバトールが約束を交わす前と何も変わっていないように見えた。
そこにはそよ風すら吹いていない。
つい先ほどまで、船の上には強い潮風が吹いていたと言うのに。
その異常さに一人の船員が気付いた時、サミジーナの体に陶器のヒビにも似た、無数の切れ目が現れる。
同時にシルフたちが、先ほどアルバトールの放った剣の恐怖に囚われ、凍り付いていた風乙女たちが再び動き出し、サミジーナの体を海上へと散布していった。
「転生したければするといい。その度に僕は、お前の前に姿を現そう」
この世に断末魔すら残すことも許されず、上級魔神サミジーナは存在を消された。
海上に散っていくかつての仲間だった者を一瞥すると、アナトは舳先から甲板へ優雅に降り立ち、目を細めてアルバトールを注視した。
[なるほど、思った以上に腕を上げている……だが私にはまだ遠く及ばん]
「それを聞いて恐ろしくなったよ。出来れば逃げ出したいところだ」
[ご主人……]
心細そうに見上げてくるセイにアルバトールは顔を向け、柔らかな笑顔で答える。
「セイ、君は船長たちと一緒にここを離れてくれ。正直アナトが相手では、君たちを守れる自信が無い」
そう言い残した直後、彼の姿は飛行術の光に再び包まれた。
「こいアナト。全力の僕と戦い、打ち倒したいのであれば」
[目の前の戦いから目を逸らしていた半人前が言うようになった。付き合うぞ天使よ]
二つの光球が天高く昇っていく。
その後を追おうとして思い留まり、その目に涙を留めて、だが泣き出すことなく。
セイは船の乗員を守りつつ、フィリップたちの後を追った。
[もうこのぐらいでいいのではないか?]
肌寒さどころか、人であれば肌が切り裂かれる程の冷気と暴風が吹き荒れる高度まで昇った二人は、アナトの一言によって移動を止め、対峙する。
「やる前に一応聞いておこう。そちらの用事って何なんだい? 僕に君と戦わなければならない理由は今のところ無いし、どちらかと言えば帰って休みたい気分なんだが」
[兄上と共に海上の見回り。だが今日はいささか勝手が違ったようだ。一刻も早くお前を倒して、兄上と合流せねば]
「なるほど、つまりデートか……あ、いや、からかうつもりはな……いィッ!?」
アナトの持つ大剣から無数の黒い鞭、アスワド=サウトがいきなり放たれ、それを見たアルバトールはアイギスを発動し、命からがら逃げ延びる。
[からかう? 何を寝ぼけたことを。それとも王都の時のように、八雲の開始の合図が無ければ戦うことも出来ぬボウヤのままか? 天使よ]
「それもそうだ……ん? そう言えば、バアル=ゼブルが王都の時に不意打ちを……」
[何をブツブツと言っている。アスワド=タキール]
「フラム=フォイユ」
まだ日が高い天空に、夜空に輝く星々の如く光点が瞬く。
自分が放ったアスワド=タキールにまったく力負けしていないフラム=フォイユを見て、アナトは意外そうな顔をした。
いくら彼女が大地から足を離し、天使が空中にその身を置いているとはいえ、ここは海上でもあるのだ。
術の属性を炎に委ねている目前の天使が、これほどまでに彼女と拮抗しているのは不可思議と言えた。
[私が船に降り立った時には半死半生に見えたのだが、今のお前は傷一つないどころか逆に力が増しているように見えるな]
「それかい? 僕も不思議に思っていたところさ」
[嬲るか]
大きく目を剥いたアナトが、今までに数倍する力をアスワド=タキールに籠め、ひときわ巨大な数個の黒球たちが一気にフラム=フォイユを消し去っていく。
[何だと!?]
だがそのアスワド=タキールはアルバトールに当たる寸前、虚空から伸びてきた何十本もの炎の枝に絡めとられていた。
「別に君を嬲るつもりは無い。心当たりがあることにはあるが、残念だけど敵である君にそれを話すつもりもないよ」
[聞きたければ力づくで、と言うわけか? どうやら腕ばかりではなく、性根の方も成長したようだ!]
アナトは遠距離からの術の打ち合いを諦め、大剣を振りかざしてアルバトールへ斬りかかっていく。
それを見たアルバトールは、剣を抜こうともせず至って冷静に一つの術を発動した。
「炎の庭」
[どうした天使よ! まさか術の安定に失敗したのか!]
精霊の力を安定させるため、術の名前をアルバトールが呟いても何も具現化しないのを見たアナトが彼を嘲笑う。
だが、次の瞬間にアナトの表情は凍り付いた。
[火の精霊力が……満ちていくだと!? バカな! 海上の空域になぜこれほどの精霊が!]
――まさか――
アナトが疑問を口に出す前に、アルバトールの口から説明は成された。
「炎の精霊を呼び出し、天つ罪が一つ串刺しによって固定する。去ることが出来なくなった精霊は救援を呼び、飛躍的にその数を増やしていく」
アルバトールはようやく剣を抜き、その光り輝く剣身を青天の下に晒した。
「炎の森が物質界に於ける僕の領域とするなら、炎の庭は精霊界に於ける僕の領域。旧神アナトよ、火の支配下と化したこの領域で僕と戦う無謀を思い知るがいい」
目の前の敵に宣言し、アルバトールは剣先をアナトの目に向ける。
だがアナトは周囲の状況を見ても闘志を鈍らせるどころか、先ほどに倍するほどに燃え上らせ、巨大な剣を軽々と振り回した。
[ふん、その程度でこの私に勝てると思ったか? 闇の四座に於いて最強と謳われるこのアナトの力、存分に味わわせてやるぞ天使よ!]
そして天空に、太陽と見まごうばかりの光の玉がぶつかりあう。
天に二日無し。
その言い伝えを無視するかのように、眩いばかりの光と、触れる者を砕かんとする力を撒き散らす二つの光球は、その動きを激しくさせていった。




