第201話 決断
サミジーナの殺気に気を取られていたアルバトールは、いきなり聞こえてきたセイの叫び声に思わず視線を下に向ける。
だが彼の目に見えたのは、セイの姿ではなく海面だった。
[戦いの最中に目を逸らすなんて余裕ね]
確かな手ごたえを感じた拳にサミジーナが口づけをした時、先ほど海面に叩きつけられて沈んでいったアルバトールが海中から浮き上がり、口からにじみ出る血を拭いた後に彼女を睨み付け、そのまま静かに剣を鞘に戻す。
[諦めがいいこと。それとも弱った魔神の攻撃など、自分には効かないとでも言いたいのかしら?]
直後に再びサミジーナの右拳で、アルバトールはほぼ水平方向に吹き飛ばされる。
気が遠くなるほどの痛みを感じながらも、彼は安心していた。
わざわざ海上に浮かび上がるまで、攻撃を仕掛けて来なかったサミジーナに。
(さすが上級魔神。じわじわと僕をいたぶるつもりだな。いい時間稼ぎが出来そうだ)
悲しみ、憎しみ、怒りなどを好む魔族の中でも、魔神族はそれら負の感情から際立って力を得ることが出来る種族であり、それは階級が上がるにつれて顕著となる。
サミジーナなどの上級魔神にとって挑発や脅迫などは、いわば魂に刻み付けられた本能とも言うべきもので、自分でも気づかないうちにしてしまうものであり。
それはセイを捕えているアモンも例外では無かった。
[ご主人! ご主人!]
海面を跳ねながら吹き飛ばされるアルバトールを見て、セイが叫びを上げる。
だが、悲鳴はそれだけで終わらなかった。
[うるさい奴だ。少し黙っていろ]
アモンは逆手に取ったセイの右腕を捩じ上げ、サミジーナに吹き飛ばされたアルバトールを案じる声を封じようとする。
「てめえ! 小さい子供を痛めつけるなんざ上級魔神に誇りはねえのか!」
セイが苦痛で顔を歪める姿を見て、船長が怒りの声と共にアモンに近寄るが、それは無謀と言うものだった。
[威勢がいいな。活きもいい]
口をぱっくりと開き、アモンがそう感想を述べた途端。
「ぬっ……ゴッ!? コッ……ォ……」
アモンの胸ぐらをつかもうとした船長は、逆に自分の胸を抑えて倒れていた。
[船長さん! しっかり! しっかりして!]
[殺してはいない。魂をもらう契約をしたなら別だがな]
アモンは恐怖に顔を引きつらせる船員たちを見て満足すると、指を鳴らす。
すると青黒い顔で倒れていた船長が激しい咳込みと共に蘇生し、それを見届けたアモンは周りを取り囲む船員たちをゆっくりと見回すと、再びゆっくりと口を開ける。
[目障りだ。餌は餌らしく隅で震えていろ]
だが今度は警告を飛ばすために口を開けただけのようで、それを聞いた船員たちはひきつった顔からやや安心したような顔つきとなり、魔神に言われるままに甲板の端へ移動していく。
中には何人か怒りの表情を見せ、その場に残ろうとした者もいたが、船長の指示によってすぐに移動を始めていた。
「言うとおりにしろ……セイに会えなくなっちまってもいいのか、てめえら」
「へ、へぇ……しかし船長は?」
「俺はさっき倒れた時に足を挫いちまったみてえだ、すまねえがここに居させてくれねえか」
甲板に倒れ込んだまま動けない船長を見たアモンは、短く鼻を鳴らすとそれ以上の興味を示すことは無かった。
「何だと!? その報告はまことか!」
その頃、離れた場所にいたフィリップは一つの報告を受け、動揺していた。
それはセイが敵に捕らわれ、息子がなぶり殺しにされているという報告。
勝利を目前にしていた彼が実際に目にしたのは、愛する者たちの危機だった。
「ベルナール!」
「ベルナール、ここに」
「セイがフォルセールに来てより以降の素行を報告せよ!」
「魔物とは思えぬほどに至って善良。人を損なうことなく、法を犯すことなく、歌で人を慰めて回り、獄中でそれを聞いて罪を悔いるもの多数」
「人であろうが、魔物であろうが関係ない……! フォルセールに住まう意志を持ち、周囲と交わろうとする者は皆領民だ」
フィリップは屈強な上級魔神に羽交い絞めにされたセイを見て、歯を食いしばる。
「領主と騎士団の役目はなんだ! ベルナール!」
「領地を守り、領民を守る。常により良い方を取捨選択しながら」
それを聞いた後――いや、領地を守り、領民を守ると聞いた直後に。
フィリップは甲板の縁に、両の拳を叩きつけていた。
「全員に退却を命じよ……ベルナール」
「承知いたしました。フィリップ候」
信じられない内容の報告がもたらした動揺の中、退却の指示が全船団に飛ぶ。
だが、その指示を遮る者が一人いた。
「待ちなさい貴方たち! 正気ですか!」
ヘプルクロシアの軍船から飛び移って来たその戦女神は、足を止めることなくそのままフィリップに詰め寄っていく。
そのモリガンの詰問に対し、答えたのはベルナールだった。
「モリガン殿か。今言った通り我らは退却する。ヘプルクロシアもすぐに退いてくれ。同盟国を残して退却したとあっては、テイレシアの名にキズが付く」
その冷酷な声、その非情な内容を聞くやいなや、モリガンは激昂した。
「それは私たちとて同じこと! アルバトール一人を敵の真っただ中に置き去りにして、どうして退却などできようものでしょう! 私たちなら弱った魔神二体を倒すなど造作もありません! 退却するなら貴方たちだけでなさい! 私たちはアルバトールを助けに!」
魔神のほうへ指を突き付け、怒りの声と共にモリガンは踵を返す。
しかし振り返ったモリガンの目の前には、素早く回り込んだフィリップが腕を広げて立ちはだかっていた。
「魔神二体を倒すだけなら、息子一人で十分だ」
ボロボロになったアルバトールの姿を凝視した後、目を見開いたままフィリップはモリガンを押しとどめる。
「あの姿を見て、まだそのようなことを言うのですか! それに彼があのセイとやらを見捨てるような真似ができる訳が……!」
「魔族が息子を人質としたらどうするおつもりか!」
モリガンの悲痛な声を聞くフィリップの顔は蒼白だった。
「これらの物資は我らにとって助けであり、敵にあっては我らを苦しめる災禍となるものである。断じて……再び魔族に渡すわけにはいかん! どうか二人は護衛を……!」
胸をえぐる苦しみを言葉としたなら、このフィリップの呻きこそがそうであったに違いない。
彼は人間だった。
天使や旧神、魔神に比するべくもない、ひ弱な存在。
だがフォルセール領では何千人もの領民が彼の帰りを待っており、彼はその何千人もの領民をこれからも守っていかねばならない立場なのだ。
フィリップの気迫に負け、モリガンは項垂れながら戻っていく。
その背中に深く頭を下げ、フィリップは再び退却の指示を出した。
セイと、セイを見守る船員たち。
そして愛する息子との距離が離れるにつれて、酷くなっていく胸の痛みと重み。
ついにフィリップは膝を屈し、甲板を掻きむしる両手に一粒の涙が落ちた。
(どうやら父上は退却の指示を出してくれたようだ……なるほど、あの時のルーの気持ちとはこのようなものだったのかな)
口から血を流し、無数のあざが着いた体を引きずり、アイギスの発動すら困難になっていたアルバトールは、遠ざかっていく船団を見て満足そうに頷く。
[まったく忌々しいこと。あの旧神が護衛に着いたままでは、私たちが力を回復しても追い討ちは難しそうね。でも貴方を倒してしまえば、物資を強奪された罪も帳消しになると言うもの]
そして同じように遠ざかる船団を見つめていたサミジーナは、右足を大きく振りかぶり、アルバトールのこめかみあたりへ直撃させる。
アルバトールが吹き飛んだ先には一隻の船が浮いており、その舳先には二つの人影があった。
[ご主人! ご主人! もういいから! セイのことは気にしないで戦って!]
「セイ……か?」
聞こえてきた悲壮な声に、アルバトールの朦朧としていた意識は戻り、そして波に飲まれそうになっていた体は、再び飛行術の光に包まれて浮かび上がる。
[感謝するのね。貴方が死ぬ原因になる魔物に、文句を言うことが出来る機会を与えてあげたのだから]
神経を逆なでるサミジーナの声に反応することなく、アルバトールはセイを見上げ。
「もう少し待ってくれるかなセイ。救援が来るまで何とか持ちこたえてみせるから」
そのまま優し気に微笑んだ。
「父上は君のことを子供と呼んだ。なら君は、僕にとって妹だ。妹を兄が助けるのは、なにも不思議なことじゃない」
それを聞いて、セイは口を引き結び。
[ごしゅ……じ……]
サミジーナはアルバトールに向かって拳を叩きこんだ。
[アハハハ! 残念ね! 貴方たちを助けるはずの味方は、とうに逃げてしまったわよ!]
嬉しそうに笑い声を上げるサミジーナを見て、船員たちが息を呑む。
いつ死ぬか分からない海の男たちでも、やはり死は逃れがたい恐怖なのだ。
[人間たち、そのお間抜けなセイレーンのせいで、貴方たちは今から死ぬわ。でも貴方たちの手でその子を殺したら、命を助けてあげてもいいのよ?]
そんな彼らの反応を見たサミジーナは、せせら笑いながら提案をした。
助かりたいものは、セイを殺せと。
「……ああ? 今なんつったこのクソ野郎」
彼女の提案に真っ先に反応したのは、甲板に座り込んでいた船長だった。
[気に障ったかしら? でも裏切り者であるこの子は、どちらにしろ死ぬ運命。なら貴方たちの命を救うために、最後くらい役立ってもいいのではないかしら?]
「クソ野郎の言いそうなことだなぁ? 聞いたか手前ら! この上級魔神様は、俺たちの手でセイを殺せと仰せのようだぜ!」
たちまち下卑た笑いが甲板を包む。
「イッヒヒヒヒ! 生きるために俺たちの生き甲斐を殺せ? 洒落が利きすぎてて腹がよじれちまいますぜ船長!」
「こいつぁ傑作だ! 地獄の鬼へのいい土産話になりそうだぜ!」
無力なはずの人間たちが発した恐れを知らぬ挑発に、見る見るうちにサミジーナの顔は真っ赤に染まる。
その彼女の反応を見たアモンは軽く首を振り、セイの首を締め上げて問いただした。
[どうするのだ? 人間たち。今すぐこのセイレーンを殺しても良いのだぞ?]
すぐに静かになったその場を見回し、彼は人間の返答を聞くべく耳を傾ける。
だがアモンの耳に聞こえてきたのは船員たちの声ではなかった。
[セイを殺して! 皆死ぬ必要なんて……!]
[お前は黙っていろ!]
[……あら? 何かしら]
アモンが即座にセイの横顔を殴りつけた拍子に小さな指輪が落ち、甲板に転がったそれをサミジーナが拾い上げる。
[ピイイィィィ……! ピュイイイィィィィ……!]
同時にセイは、鳥の鳴き声しか出せなくなっていた。
[面白い指輪を持っているわね。高く売れそうだわ……あら、動いてはダメよ天使様]
サミジーナはアルバトールに警告し、指輪をしげしげと見つめて指を滑り込ませる。
[合わないわね。効果は分からないけどかなりの力を感じるし、損失の穴埋めくらいにはなるかしらね。それでは続きを始めましょう]
残念そうに上げた両手を握りしめ、サミジーナは瀕死のアルバトールに近づき、それを止めようとして船員たちが叫び声を上げる。
だが次の瞬間に聞こえてきた声に、彼らは思わず口を閉ざしてしまっていた。
[……セイは昔、仲間と一緒でした。優しい姉さんたちに比べて醜いセイは、少しでもその美しさに近づこうと必死に努力を重ね、歌の練習に励みました。でもある朝セイが目覚めた時、姉たちはいなくなっていたのです]
それは指輪を手放し、人の言葉が話せなくなったはずのセイの声。
[あら、昔語りね? 悲しみは我らが喜び。どんどん話してちょうだい]
セイの話を止めるかと思いきや、逆に推奨するサミジーナを焦点の合わない目で見たアルバトールは、遠くなった耳を駆使してセイへ意識を向ける。
[セイは姉さんたちを探して飛び立ちました。来る日も来る日も探して、でも見つからず。そんなある日、疲れて休んでいた岩場の近くを船が通りました。ずっと一人だったセイは寂しくて、思わずその船の航海の無事を祈り、歌を歌いました。乗っていた船乗りさんたちがいっぱい喜んでくれて……セイも嬉しくなりました]
それを聞き、船乗りたちは照れたようにお互いの顔を見ると、セイに笑顔を向けた。
[いつしかセイは、岩場で船乗りさんたちの航海の無事を歌うようになりました。でもある日セイは意識が遠くなって、次に気が付いた時には緑色の髪をした、ヘルメースと言う御方が目の前にいました。そしてセイに言ったのです]
――本来ならお前は姉たちと同様、討伐されるべき忌むべき魔物。だがアルバトールという天使に命を懸けて協力するなら、お前を見逃してもいい――
[続けて言いました。だが魔物とは言え、少女の姿をしたお前の助力を彼は喜ばないだろう。だから人の言葉を喋れないことにして常にそばで過ごし、彼が危機に陥った時にはその命を懸けて助けるのだと」
(確かに人の言葉が喋れない、理解できないのであれば、こちらの言うことを聞かずに着いてきても不思議に思わない、か)
妙に感心するアルバトール。
だが、セイの話はまだ終わっていなかった。
[そして最後に言いました。もしこの条件や、お前の身の上を喋れば……]
「しゃべ……れば……?」
アルバトールはヘルメースについての神話を思い出す。
彼が産まれたばかりの頃、太陽神アポローンの牛を盗みに行ったことがあった。
その際に一人の老人に姿を見られた彼は、このことを喋れば罰をあたえると告げるが、その老人はヘルメースのことをアポローンに喋ってしまったのだ。
そしてその老人は……。
[石になるって。姉さんたちみたいに]
既にその時、セイの体は石に変わりつつあり、それを見た人々の叫び声が場を包む。
[セイ楽しかった。船乗りさんたちの笑顔も、ご主人の笑顔も、フォルセールの人たちの笑顔も見れた。姉さんたちの代わりに、いっぱいいっぱい可愛がってくれた]
――たのしかった――
(楽し……かった?)
アルバトールはその言葉を聞き、不思議と胸の内に怒りが湧くのを感じた。
[セイ、ご主人助けたい。だけどセイには何もできないから。邪魔になるだけだから。だから……さようなら]
――さようなら――
次々と発せられるセイの言葉を噛みしめたアルバトールの頭の中に、何かが降りる。
それが何なのかは分からないが、今の彼には言うべきことがあった。
「お帰り、セイ」
[ご主人……?]
涙を浮かべたセイに、アルバトールは柔らかな笑顔を向ける。
「君が別れを告げても、僕は君をお帰りと迎える。僕だけじゃなく、フォルセールで君の帰りを待ちわびる人たちのためにも」
セイは首を振る。
振り落とされるように瞳から零れた涙を見て、アルバトールは叫んだ
「楽しかったなんて言うな! 楽しくなるのはこれからなんだセイ!」
そう凛々しく告げたアルバトールが息をつき、膝を崩す姿を見たサミジーナは高笑いを上げ、アモンへ頷く。
[用済みだわ。なかなかに楽しませてもらったけど、裏切り者には死の制裁を]
[そうするとしよう。このまま砕いてやろうとも思ったが、なかなかの術者がかけた呪いのようだな。仕方ない]
舳先に立ったアモンは、セイを海の中に放り込んだ。
[石になるのが早いか、溺れ死ぬのが早いか]
自由が利かなくなった体で。
唯一自由に動く口で。
セイは感謝の言葉をアルバトールたちに残し、沈んでいく。
その悲壮な表情を見たサミジーナは歓喜に打ち震え。
「……待っていたぞ」
――船員たちの慟哭を覆い隠すかのように、天は巨大な六枚の羽根で覆われた――
「セイから手を離すこの瞬間を! 禊祓!」
[なッ!? どこにそんな力が残っていたというの!?]
一瞬にして海に沈んだセイを包み、浄化し、海上へと引き上げた天使の羽根は、そのまま船に降り立ったアルバトールの元へ還っていく。
[おのれ!]
この時、アモンは判断を誤った。
「クラウ・ソラス」
彼は再び人質をとるべきだったのだ。
[アモン!]
あまりに近くに降り立った天使を見て逆上し、襲い掛かった上級魔神は、今度こそ聖天術クラウ・ソラスによって滅びの道を歩んだ。
「抵抗するならするがいい。だがその権利を行使する前に、僕はお前を滅ぼす」
[あら、さっきそのセイレーンに話していた時と違って、随分と威勢がいいじゃない]
クラウ・ソラスにより、アモンを一瞬のうちに滅ぼしたアルバトール。
その現場を実際に見ていたにも関わらず、サミジーナはまるで慌てていない。
なぜなら、ある存在が彼女の後ろから近づいてきていたのだ。
[来るわよ……我らの内でも最強と呼ばれる者がね]
サミジーナの言葉に、アルバトールはゆっくりと彼女の背後へ視線を送る。
[久しぶりにお兄様と出かけられると思えば……無粋な呼び出しもあったものだ]
そこには恐ろしい速さで、恐ろしい気配が、恐ろしいほどの怒りを膨れ上がらせながら近づいてきていた。
旧神アナト。
アルバトールが王都で逢いまみえた時、手も足も出なかった存在が更にその強さを増して彼に近づいてきていた。




