第200話 転機
[相変わらずムードもへったくれも無い奴じゃのう。ダルヤ・ガダブ]
無造作に近づくバアル=ゼブルを見たティアマトは嬉しそうに笑いつつ、その可愛らしい口から術の名前を紡ぎ出す。
[何がムードだ……おっと]
そう吐き捨てるように呟いたバアル=ゼブルが足元を見た途端、見渡す限りの海面から次々と巨大な海水の柱が立ち上がっていく。
いや、それはもはや壁と形容してもいいほどだった。
[そう言うバーさんは、相変わらず芸がねぇな]
だがバアル=ゼブルは、その光景はもはや見飽きたとばかりに鼻で笑い、対するティアマトはその嘲笑を見ても動じること無く、無邪気な笑みを浮かべた。
[真に秀でた一芸は、有象無象の多芸を駆逐するからの]
[臨機応変とも言うけどな。状況の変化に対応できなかった竜族がどうなったか、バーさんも良く知ってるだろ]
バアル=ゼブルはマイムールを肩に担いだ姿でティアマトへ警告をするが、された側の反応と言えばニタニタといやらしい笑みを浮かべるだけであった。
[んん? わらわの心配をするとは、とうとうお主もわらわの虜に……]
[お主もって、ヤム=ナハル爺の他に誰かいるのかよ]
[適当に見繕って洗脳しておくから、お主は心配しなくても良いぞよ?]
[……まぁ虜には違いねーか。そんじゃいかせてもらうぜバーさん……ってオイ!?]
暇つぶしと言わんばかりに、幾度もマイムールを頭上に放り投げていたバアル=ゼブルの笑みが凄惨なものに変化を遂げた瞬間。
水の壁に変化が起こる。
[フラム・フォレじゃったかの? なかなか面白そうな術じゃったから、わらわも少し真似してみることにしてみたのじゃ]
現れたのは無数の突起物。
そして程なく鋭利な槍ぶすま……いや槍の壁と化し、あらゆる方向からバアル=ゼブルを襲っていく。
[待て待て待て! 昔のバーさんはこんな可愛げのない攻撃はしてこなかったぞ!?]
それを見たバアル=ゼブルは即座に周囲にマイムールの風を展開し、雨あられと迫りくる水槍を吹き飛ばしながら叫んだ。
[わらわほど魅力的になると、放っておいても色香がにじみでて辺りに振りまいてしまうものじゃからな]
[振りまいてるのは剣呑じゃねえかクソッタレ!]
カラカラと高笑いをするティアマトを見て毒づくと、バアル=ゼブルはくるりと体を回転させ、マイムールを天高く突き上げる。
[まだ体の慣らしが終わってねえってのによ……まぁバーさんなら簡単に壊れねえだろ]
[な、なんじゃ!?]
ティアマトが驚く声と共に、周囲の海面から立ち昇っていた海水が縮んでいく。
[何と言われても、いつものマイムールだ。失望させちまったか? バーさん]
代わりに現れたのは、海水を巻き込みながら立ち昇るマイムールの竜巻だった。
[ま、バーさんに芸が無いって言われねえように、いつもより余計に力は籠めさせてもらったがな]
額に汗を浮かべるティアマトへ、バアル=ゼブルが軽薄な笑みを浮かべる。
[ダルヤ・ガダブ。見た目には水を使った攻撃に見える術だが、実際には術でも何でもない、バーさんの精神界の体を物質界に持ってくるだけの掛け声だったっけか]
ティアマトは答えない。
だがその顔からは、いつもの余裕が消えていた。
[成長に成長を重ね、ついに物質界に対する影響が無視できなくなったアンタは、身内で争い続ける神々を見続けていたこともあり、マルドゥクに討たれたと見せかけてその身体の一部だけを残し、精神界へと姿を消した。難儀なことだな龍神ティアマト]
[どこで聞いた? ヤッ君には口止めしておいたはずじゃが]
[これでも一時は神の王を目指した身だからな。臣下の動向には常に気をつけていた]
[なるほどのう……ぬッ!?]
一見しただけでは、何も異変が見られないティアマトが苦し気な呻き声を上げる。
[無駄だ。この水柱がバーさんの本体である以上、その現身が動けるわけがねえ。さて、徐々に本気を出させてもらうぜ。ヤグルシ]
バアル=ゼブルの声と同時に、先ほどまで何の変哲もなかった二人の会話は殺し合いへと一転した。
伝説にある大洪水の一場面かと思われるような豪雨、そして轟雷が周囲を満たし、ティアマトの歓喜の声が……。
歓喜?
[だああああっ! だから攻撃されて喜ぶなってんだこのクソババア!]
[そんなことを言ってものう……あん]
ヤグルシが落ちたティアマトは両手を前で組み、くねくねと体をよじらせていた。
[だから俺はテメエとは会いたくねえんだよ! ヤグルシ! ヤグルシ! マイムール! うああああっ! こっち来んな! もう少し慎みってモンを持てねえのかバーさん!]
[慎みなんぞ持っておったら、何十何百と産み続けねばならん神々の母になどなれんからのう……フヒヒ、観念せいバアル=ゼブル]
[ちょっ! 何で動けるんだバー……な、なんだっ!?]
驚愕の声をあげるバアル=ゼブルの周囲は、先ほどから降り続いていた豪雨がいつの間にか泡の形をとって埋め尽くされていた。
[ケフ・イ・ダリヤ。しっとりぬるぬる、そりゃあもう極上の寝所じゃぞ]
[ふざけんな! こうなりゃしょうがねえ! もうちょい本気を出すしかねえようだな!]
[本気汁を出すとか、もうわらわにメロメロじゃの?]
[汁をつけるなこのエロババア!]
そのバアル=ゼブルの叫びと共に、二人の戦いは加速していく。
一方その頃。
「何やってんのあの二人」
遠方でいきなり天空に向けて立ち昇った海水、そしてその近くにいる二人を見たアルバトールが呆れた声を出していた。
「……まぁ触らぬ神に祟りなしって言うし、僕はこちらの戦いに専念させてもらおう」
そして静かに見つめる。
自らの落ち着き払った声の、死を告げる声の行く先、サミジーナを。
[天を雄々しく往来する力あれども、その精神はひな鳥。そう聞いていたのだけれどね]
「今でも未熟だよ。君にとどめを刺すことを少し躊躇っているのだから」
先ほどまでアルバトールと戦っていたサミジーナは体のあちこちに火傷を負い、暗黒魔術で治す力も使い果たし、その美しい顔を歪めて浮いていた。
「人々の魂を弄び、闇へと塗り込め、巡り循環する世界の輪から外した罪を贖え上級魔神サミジー……なっ!?」
アルバトールは、振りかぶった光の剣を振り下ろすことが出来なかった。
「ハハハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \」
下から聞こえてくる哄笑、そして船員たちが上げる悲鳴。
何より縦横無尽に船団の間を行き来する、一人の白い旧神の姿を見てしまったのだ。
「次の……! 次の患者はここですか!」
「う、うわああああ!?」
「ディ、ディアン・ケヒト様が! ギャアアアアア!」
鮮血に染まった抜き身の剣をぶら下げた医神ディアン・ケヒトは、船に飛び移るや否や迷う様子もなく、幽鬼のようにすぅっと怪我人たちに近づいていく。
「怖がる必要はない……私は君たちを治療に来たのだから……」
「そ、それは……そうだ! 私よりあちらのルロイの方が重症ですよ!」
「そんな組頭! 私はまだピンピン……!?」
肘を擦りむいた若い船員、ルロイが恐怖に顔を歪めて組頭に反論した瞬間。
そこにするするとディアン・ケヒトが近づき、肘の擦り傷を大きく切り裂いて怪しい粘液がついた布を押し当てる。
「ギイイイィィィェェェエエエエエ!!!?」
海原に響き渡る絶叫が消えた時、ルロイは泡を吹いて気絶していた。
「さ……次は君ですよ」
「た、たす……け……ヒイイイィィィ!?」
組頭と呼ばれた髭面の男が、宙に吹き飛んだ自らの人差し指を見て目を見開く。
だが次の瞬間、その指先に滲んでいた小さい血豆は消え、遅れてやってきた激痛と共に彼の右手へと戻り、縫いとめられる。
「う……うわああああッ!?」
その痛みもすぐに消え去り、気が付けば先ほどから彼らが感じていた白い恐怖。
ディアン・ケヒトの姿は視界から消えていた。
「ヒュゥゥゥィェァァァ…………」
が、代わりに隣の船から絶叫が聞こえてくるのだった。
「腕はホントにいいんですがねぇ……」
「なんであんな余計な恐怖を与えるんだか」
「とりあえず貰えるモン貰って戻りましょう。これ以上怪我をするのはごめんでさ」
ボヤく二人が、ディアン・ケヒトによる治療で阿鼻叫喚と化した隣の船へ十字を切った後、戦利品である厳重に封をされた大箱を持ち上げようとした時。
「そうだな、んじゃルロイそっちを……うっ!?」
組頭が急に動きを止め、その場にへたり込んでしまう。
「く、組頭!?」
「く、くそッ! 腰に魔女の一撃を喰らっち……う、うわああああっ!?」
「組頭ッ!? 組頭あああああっ!!!」
「ハハハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \/ \/ \/ \/ \/ \/ \」
舌を躍らせ、目を血走らせたディアン・ケヒトが、隣の船から再び彼らの下に疾風の如く舞い戻ってくる。
そしてこの世の物とは思えない悲鳴が上がり、その悲鳴を上げさせた張本人は新しい患者を求めて別の船へと飛び立っていった。
その悲鳴が止んだ後、アルバトールは警戒するように周囲を見渡す。
「……もう邪魔は入らないだろうな。それでは」
[おいアルバトールちょっと力を貸し……]
「全力フラム・フォイユ」
[テンメエエエエ! 今度会ったら絶対にブッ殺してやんぞコラアアァァァ……]
反射的に力いっぱい攻撃してしまった相手の声が遠ざかると、アルバトールは気を取り直すために光の剣を一閃し、目の前のサミジーナを睨み付ける。
そのサミジーナと言えば、頼みの綱であった救援バアル=ゼブルが吹き飛ぶのを見て項垂れており、艶めかしいと感じる口からは悔しげな声が漏れ出ていた。
[まさかティアマトまで引っ張り出しているなんてね。残念だけど私たちの完敗だわ。まさかここまでの戦力を整えているとは思ってもみなかった……]
「え、いや、正直に言うとティアちゃんは計算外だけど」
[敵に本音は明かさないってわけね。いいわ。転生し、次に生まれ変わった時には決して同じ過ちは犯さない。さぁ、殺しなさい]
「……まぁいっか」
今度こそサミジーナを滅ぼすべく、光の剣を振りかぶったアルバトールだったが、その耳にある声――いや、歌が滑り込み、彼の殺気を包み込む。
[ご主人! セイがんばった! ご主人! セイがんばった!]
それは航路の外から戻って来たセイが紡ぐ歌声。
彼女はパイプを咥えた船長を従えるように、船の舳先に留まっていた。
[あれは……まさか……魔物が天使に味方したって言うの!?]
「少々変わったいきさつがあってね。協力してもらったんだ」
セイと船が無事であることを確認したアルバトールは笑顔を浮かべ、こちらを見上げて両手を振っているセイに対し、手を振り返した。
セイへの頼みは、航路から外れる偽装以外にもう一つあった。
それは死霊や不死生物たちに対する鎮魂歌の発動。
歌い手として一級品であるセイレーンが歌う鎮魂歌の効力は抜群で、その声はまさに迷える魂を導く天の調べであったのだ。
[フ……フフ……仲間に裏切られ、味方の救援は望めない……こんな惨めな気持ちで死ぬことになろうとはね。いいわ、どうせ死ぬのなら……!]
目の前の天使が敵である自分に目もくれず、下のセイレーンに手を振る姿を見たサミジーナは屈辱に全身を震わせ、顔の前に上げた自らの両手を見つめる。
そして下を睨み付けた後、自暴自棄となったサミジーナが目に光を取り戻し、アルバトールへと向かおうとした。
正にその時だった。
[ピュイイィィ……!]
[油断したな天使どもよ! 言っただろう! やられたままでは終わらんとな!]
船の舳先に留まっていたセイが、いきなり海中から飛び出してきたアモンに首を絞められ、人質に取られたのは。




