第192話 岩場に巣食う魔物
アルバトールが乗った船が港町ラィ・ロシェールを出港し、二日目のことだった。
「波が出て来たな……先ほどから風も凄いし、少し探る必要がありそうだ」
アルバトールは呟き、手を前方へ差し伸べ、このような荒れた天候時に多くの波が纏まることで出来る、三角波が発生していないかを探る。
熟練した船乗りが、かなりの大きさの船に乗船していたとしても、あっさり転覆させることがある三角波は、どの国の船乗りでも海で恐れるものの一つだからである。
「どうですかい、お客さん」
「お客さんはよしてくれ。一応の名目上は、君たちの仲間と言うことになるんだから」
その探索の姿に気付いたのか、船長が近くに寄って話しかけてくるがその口調は余所余所しいものであり、アルバトールは自分の身分に船長が気兼ねしているのかと苦笑しながら返答したのだが、それは彼の見当違いのようだった。
「そんじゃ旦那、そろそろスキュラが出る海域なんでよろしくお願いしますぜ」
「分かっ……へ?」
船長が何気なく言った言葉を聞き、アルバトールは呆気に取られる。
どうやら先ほどの船長のよそよそしい口調は、これから彼の身に降りかかる災難を気遣ったもののようであった。
聖テイレシア王国のはるか東にある、スティヴァーレ半島の南端の海峡にかつて巣食っていた魔物の一匹、スキュラ。
上半身は美しい女性の姿をしているが、その腰回りからは凄まじい形相をした犬の顔が六体分はえており、更に下半身はタコのような長い足が十二本生えているという。
かつてその海峡を通ろうとした英雄が、成すすべなく仲間を貪り食われた伝説を持つ恐ろしい魔物である。
「なんでスキュラが外洋まで出張ってるんだ? 確か本来は、陸地に囲まれた内海にいるはずだろう?」
「そいつが判ってれば、もう少しやりようがあるんでしょうが……ま、とにかく実際に見てもらうのが一番でさ」
船長の言葉を聞いたアルバトールは、少し考える様子を見せるが。
「まぁいいか。目を逸らしても、見たくないものがこの世から消えるわけじゃない。以前ヘルメースに聞いた与太話のままの怪物が、そのまま出るわけじゃないだろう」
そう言って航路を変えず、アルバトールはそのままスキュラの生息域へと進む。
目を逸らして迂回しておけば、見たくないものが彼の周囲に増えずに済んだことに彼が気付くのは、何もかもが手遅れになった後のことである。
「なんて強風だ。これでもかなり弱めているのに」
「このくらいで強風なんて言ってちゃあ、船乗りは務まりませんぜ旦那」
海に慣れていないとはいえ、アルバトールが目を開けたままにしていられないほどの強い風にさらされていながらも、船の乗組員たちは平然とした顔で業務をこなす。
船酔い防止のため、先ほどから飛空術で浮いたままのアルバトールにとって、その乗組員の動きは心強いものに感じられた。
そしてどのくらい時間が経っただろうか。
前方に岩場が見えはじめた途端に船長が叫ぶ。
「そら、来ましたぜ旦那! あれがかつてシレーティア島の近辺に住み、船乗りのみならず英雄ですら恐怖におののいたスキュラでさぁ!」
その船長の言葉とほぼ同時に、先ほどから空にかかっていた雲の隙間から一筋の光が漏れ出でて、荒れた海から頭を出している岩場の一つを照らす。
「あれが……スキュラ……」
その岩場の頂点には、昔話で聞いた通りの醜悪な姿をした魔物スキュラが下半身をうねらせながら、アルバトールたちを狂った恍惚の表情で見つめていた。
「こんなに近づいて大丈夫なのか? 確かスキュラは人を食うと聞いているんだが」
「旦那、ご自分の役目を忘れてもらっちゃこまりますぜ」
「それもそうだ」
アルバトールは精霊を呼び寄せ、いつでも術を発動できるようにし、前方のスキュラの動きを注視する。
(炎の庭……早速試させてもらうか)
火の精霊力を自分の周囲に定着させ、炎の系統の術を使いやすくする炎の庭。
それはフラム・フォレに続く彼の新しい領域。
フラム・フォレと串刺の術を組み合わせることで編み出したこの術を、ゼウスとの手合わせ以外で使うのは初めてだった。
(術の使用枠を二つ取られるのは痛いな。ルーのようにあらかじめ術を蓄積する媒体を作っておけばいいんだろうけど、そっちは設置場所から呼び出す必要があるから発動までに時間がかかるのがネックだ)
アルバトールはそこまで考えると、ルーの妙な所で意固地になる性格を思い出してクスクスと笑い始める。
(しかし神殿や美術品などの資産に妙にこだわるあたり、何かを蓄えるのが好きな性格なのだろうか)
その時、スキュラの目が光った。
「来るか!」
アルバトールの叫びと同時に、スキュラの腹部にある犬の顔が少し動いたかと思うと、目にも止まらぬ速度でアルバトールたちが乗っている船へ一直線に迫る。
とぷん。
「あ、落ちた」
だがあまりに遠すぎたのか、大型犬につけたリードに引っ張られる犬の飼い主のように、スキュラは自分が放った犬の顔に引っ張られて海に落ちた。
「しかも溺れてる」
荒れる海面でじたばたと暴れていたスキュラは慌てて犬の首を回収し、それを岩場へと投げて体を固定すると、何とか安全な場所へ這い上がって肩で息を始めるのだった。
「……どうですかい旦那。あちらの攻撃が届かない位置から仕掛けて海に落ちるなんざ、真面目にやってるこちらが馬鹿馬鹿しくなってくるでしょう。この前なんか舵取りのやる気が削がれてうっかり操舵を誤り、座礁するところでしたぜ」
「あー、まぁ、そうだね……えーと、犬の視力は人に比べてあまり良くない。その代わりに鼻はいいから、多分匂いだけでこちらに襲い掛かろうとしたんじゃないかな?」
まるで魔物を哀れみ、庇うようにアルバトールは船長に答え、そして頭に閃いた一つの疑問を口にした。
「……そもそも泳げないのに、なんで海に居るんだろう?」
「逆なんじゃねえですかい? 泳げないからこそ外海に取り残されてるんでしょう」
「なるほど、取り残されたか……そうなると魔物をあそこへ持ってきた者が居る、と言うことになるんだが」
そのような非道な行いをするものに、彼は一人だけ心当たりがあった。
「堕天使ジョーカーの仕業か? 泳げないものを岩場に置き去りにするとは、なんてひどいことをするんだ」
アルバトールはまるで目の前に仇敵がいるかのごとく拳を握りしめ、怒りに身を震わせると横目でスキュラの様子を見る。
するとスキュラは、なにやら犬の顔をぽこすか叩いていたようで、ちょうど反撃の噛み付きで悲鳴を上げた所だった。
「船長、時間の無駄だしこのまま行こう」
アルバトールがそう判断し、そのまま船を通り過ぎさせようとしたその時。
[引っかかったわね! 私が先ほど海に落ちたのは、お前たちをこちらにおびき寄せる為の芝居よ!]
と、スキュラが叫んだのだが。
「旦那、スキュラがこっちに向かって叫んでるようですぜ」
「風が強くて声が流されてるのか、よく聞こえないな」
何とか気付いてもらおうと身振り手振りを加え、必死に口をパクパクさせているスキュラを見たアルバトールたちは、片方の耳に手を当ててスキュラの声を聞こうとする。
それを見たスキュラは顔を輝かせ、この機を逃さぬとばかりに再び叫んだ。
「聞こえないな……すまない、スキュラが何て言ってるか聞こえる者は居ないか?」
だがやはりその叫びも聞こえず、仕方なくアルバトールは周囲に助けを求め、それに手がすいている者が応えて全員で耳に手を当て、なんだって? と言わんばかりに一斉にスキュラの声に耳を傾けた。
「旦那、なぜかスキュラが怒ってるように見えますが、どういたしますかい?」
「更年期障害かな? 魔物の中でもかなり古い存在みたいだしね。とりあえず彼女の討伐が今回の目的じゃないし、向こうの言い分は次に会った時に聞くとしよう」
と言うことで、長い前口上を言っていると思われるスキュラをよそに船は進み。
[とう!]
遠ざかる船を見たスキュラが掛け声と共に慌てて犬の頭を伸ばし、再び海に落ちる。
岩場に戻り、涙目になった彼女を置いたまま、無慈悲にも船は遠ざかっていった。
そして風が弱まり、普通に会話が出来るようになってから、船長からアルバトールに先ほどのスキュラについて捕捉の説明がされる。
「先ほどのスキュラですが、実は本物かどうか判らないんでさ旦那。なぜなら本物は、スティヴァーレ半島のつま先あたりで岩になったまんまなんですから。それが外洋に居てさっきみたいな素っ頓狂なことをやってる。さっぱり訳がわからねえ」
「なるほどね。一見すると危険は無いように見えるが、もし本物なら危険極まりない魔物が外洋にいることになる、か……そう言えばスキュラとセットの魔物である、カリュブディスの姿は無いね」
「流石にティアマト神に喧嘩を売るような、馬鹿な真似はしねえでしょう」
アルバトールが外洋に出ると聞き、本体の元へと戻っていった自称分身のティアマトのあどけなくも寂し気な姿を思い出した彼は、船長に素っ気なくそうだね、とだけ返事をして既に見えなくなった岩場の方向へ視線を向ける。
「元々あの岩場には気のいいセイレーンが住んでやしてね。船乗りたちが通るたびに旅の無事を祈る詩を歌ってくれてたんですが、この冬の間にいつの間にかあのスキュラに入れ替わっちまったんでさ」
「本物のスキュラも、嫉妬に狂った魔女キルケーの呪いであのような恐ろしい……姿の魔物に変えられたんだったな」
微妙な言い回しをしつつ、アルバトールは呟く。
「仕方ない、あの男を頼るとするか」
アルバトールは渋々と言った口調で何かを決断し、不思議そうな顔をする船長に明るい笑顔を作ってみせる。
「こんな面倒……じゃなかった、複雑な裏事情がありそうな事件を解決するのにピッタリの知り合いがいるのさ。しかもその相手が女性と言うのであれば申し分ないだろう。とりあえず予定通り、フェストリアの商船を探して三日経ったら戻ろうか」
そしてアルバトールは扱いやすくなってきた大気を操り、暗礁を避けながら船を進ませること三日。
結局フェストリアの商船に出会わなかったアルバトールは、港に戻るとその足でフォルセールに急いで戻り。
「断る」
「そうか」
気絶したヘルメースをラィ・ロシェールにお持ち帰りして出港した。
「断ると言っただろう! 本来、交渉というのは相手との駆け引きを前提として成されるものであって、物理で相手を黙らせるのは脅迫と言うんだぞ!」
「時間がもったいないから仕方が無い。では現在の状況について説明をしよう」
「人の話を……」
アルバトールの説明を聞いたヘルメースは最初は勢いよく食いつき、しかし話が終わった後の返事は。
「やはりダメだ。……まぁ落ち着いて聞けアルバトール。おそらくそのスキュラは、ヘーラーの呪いを受けている」
殺気を感じたのか、それとも彼自身スキュラを助けられないことが引け目に感じるのか、ヘルメースは即座にアルバトールに自制を求め、詳細な説明を始める。
「またゼウスか」
無言で頷くヘルメースに、アルバトールは深い深いため息をつくのだった。
ヘーラーは結婚と母性、貞節を守護する女神であり、ゼウスの妻でもある。
だが嫉妬深く、ゼウスの浮気を絶対に許さない上に、その罰を当の本人であるゼウスに与えずに浮気相手に与えるため、こちらでもあまりいい印象は持たれていない。
「仕方あるまい。世の数多の女性に愛の尊さ、温かさを与えるのは神としては当たり前のことだ」
「正確には、与えてるんじゃなくてばら撒いてるだけだよね。ヘーラーも貞節を守護する女神なんだから、それを破った者に罰を与えるのは当たり前だよね」
「夫婦の間だけで処理してくれれば我々も苦労しないのだが……話を戻そう」
ヘルメースは軽く首を振り、緑の髪を風になびかせた後に会話を続ける。
「で、そのスキュラは美しいのか?」
「実際に見てもらうのが一番かな。少なくとも、見た者全員が美しいと言っている」
「では行こう。確か君は、禊祓で呪いを解けるはずだな」
「ああ、行こう」
どうやらヘルメースがヘーラーの呪いを解くのはダメでも、アルバトールが解くのであれば問題ないらしく。
こうして緑色を増やしたアルバトールは、再びスキュラの元へ向かったのだった。




