第179話 盤上に浮かぶ思惑
「知ってる天井なのに……染みが人の顔に見え……がくり」
上に寝ころぶことで出来る、シワを作ることすら遠慮したくなる。
そんな真っ白で、清潔なシーツを敷いたベッドに寝かされていた一人の少女が、目を覚ますと同時にそう言い残し、口と鼻からペースト状になったポム・ダムールを吐き出すとまたすぐに気を失う。
シーツに対しての冒涜とも言える、鮮やかでありながら汚い赤色、血尿のような染みを完成させた後、ベッドに再び横たわった少女ガビー。
その姿を脇から無言で見下ろす一人の女性と、一人の少女が居た。
「……司祭様、どうやら失敗のようですね」
「残念ですわ。やはり時期尚早だった、と言うことなのでしょうか」
一人の女性であるところのエルザがそう言うと、一人の少女であるところのラファエラが即座に否定をする。
「いいえ! 一度でダメなら二度三度! 一度の失敗で諦めるなど司祭様らしくありません! 是非とも成功するまでガビーの身に天罰を!」
日頃は冷静ガビーに冷酷。
そんなラファエラの言動に危険な物を感じたのか、珍しくエルザがラファエラに対して苦言を呈する。
「ラファエラ。嫌がらせのように見えても、これはれっきとした儀式なのです。貴女がガビーに含む所があるのは知っていますが、目的と手段を履き違えてはいけませんよ」
その結果、思ってもみなかった変化がラファエラに現れることとなっていた。
「申し訳ありません司祭様。それでは私は、今からガビーに天罰を与えることを目的、生き甲斐に致します」
「判ってくれて嬉しいですわ、ラファエラ」
手段が目的になった瞬間であった。
いや、そもそも手段からして間違っているのだが、それを指摘できる人物は既に城へ戻っていた。
最近人から熾天使となったばかりの、それでありながら四大天使にひけを取らぬ力を持つと目されるその人物の名は。
「お帰りなさいませ、アルバ様」
「お帰りなさいませ、アルバトール様」
その人物、アルバトールが城に戻ると、見目麗しい二人の女性アリアとアデライードがホールで彼を出迎え、華やかな笑顔で彼を包む。
「ただいま。しかし我が家のメイドであるアリアが僕を出迎えてくれるのは判りますが、アデライード姫までホールまでお出迎えとは何かあったのですか?」
何のことはない率直な疑問が、この場合は失言となることに気付き、すぐにアルバトールは後悔するが、その時既にアデライードは、可憐さを内包した美しい顔を怒ったようなものにかえ、眉を寄せながらアルバトールに詰め寄っていた。
「また姫などと……アリアと同じように、アデライードとお呼びください。それに、私に対して態度が余所余所し過ぎるのではありませんか? アルバトール様」
「それは姫も同じでしょう。臣下として呼ぶにしても、えー、その、ケッケケケ、ケコー……ケッケケ、ケコココッコー」
「……鶏の鳴き声の大道芸人でもなるのか? 別に私は止めはしないが、君と結婚する二人の身にもなった方がいいぞ」
丁度そこに通りかかった貴婦人姿のクレメンスが、何やら急に口が回らなくなったアルバトールを見て呆れたように感想を述べると、そのまま足を止めずにシルヴェールの執務室の方へ、ワインと酒器を乗せたトレイを持って去って行く。
後に残されたのは落ち込むアルバトールと、自分の発言によって思ったよりアルバトールが動揺したのを見て、喜んでいいのか悩むべきなのか分からないアデライード。
そして、そんな二人の様子を幸せそうな笑顔で見つめるアリアだった。
これらの出来事を見れば判るように、アルバトールが天使となってから争い、または事件が恒常的に起きていたフォルセールには、久しぶりの平穏が訪れていた。
「おお、何と美しい御手! その艶やかな手は、持った物をこの世の何よりも輝かせる! それがもし愚者の黄金なら、君がもった途端に純金を凌ぐ価値を得て、眩い光を放つだろう! さぁ僕と一緒に、その美しさを世界中に広める旅に出ようじゃないか!」
「衛兵さんこっちです」
「おいアルバトール! 僕は市街の見回りの最中に、少し気にかかる女性が居たから声をかけて仔細を聞いて……! いたたたた! 姉上! 腕が折れる!」
だが平穏と言えども、一つも騒ぎが起こらない訳では無い。
「お、そこの姉ちゃん。ワシと一緒にオリュンポスの山頂に、夜明けのネクタールでもしばきに行かへんか? 東から昇る燃え盛る太陽のように、二人で燃え上って昇りつめようやないか……って何やぁ!? エステル! ワシや! 大好きなお父ちゃんやで!?」
衛兵や自警団の者に捕まり、手が後ろに回る犯罪者が皆無と言う訳では無かったが、それでも表向きには平和そのものと言えた。
だが、その頃王都テイレシアでは。
「待て! 団長! それは……その決断だけはもう少しだけ待ってくれ!」
テイレシア自警団、副団長の八雲が血相を変えて手の平を前に差し出していた。
「……これ以上、何を待てというのじゃ。もはやこれは決定事項。お前が何を言おうとも決して覆らんぞ」
自警団の団長であるフェルナンに対し、副団長である八雲が翻意を求めるもすげなく却下され、彼は項垂れたままテーブルの一角に視線を固定してしまう。
「八雲様……」
「大丈夫だ。取り乱したところを見せたなセファール。すまないが少し後を頼むぞ」
八雲が落ち込む姿を見て心配そうに声をかけてきた、修道服で身を包んだ女性。
白く長い髪と、黄色い瞳を持つ一見儚げに見えるセファールに手を振り、八雲は肩を落としたまま執務室を出ていった。
[よう、どうした八雲。お前さんが城まで俺を訪ねてくるたぁ珍しいこともあるもんだな。どういう風の吹き回しだ?]
「少しあってな」
王城テイレシア。
その謁見の間で八雲を迎えた水色の髪を持つ青年、バアル=ゼブルの八雲を見つめる目が少し細まり、そしてかける言葉を探して周囲を泳ぐ。
[ま、相談したいことがあるんなら言ってみな。何たって俺は神様だからよ]
そして泳ぎ着いた先はいつもの彼、旧神バアル=ゼブルらしい無難な物であり。
それを聞いた八雲は、気を使わせて済まないな、とバアル=ゼブルに謝罪しつつ、その内心ではかかったな、と獲物が罠にかかった喜びに打ち震えていた。
「実は団長と一戦してな」
「あ? お前さんと爺さんが言い争うなんざ、いつものことじゃねえか……何だそれ」
バアル=ゼブルは八雲がとりだした板状の物を見て、不思議そうに眼を丸める。
「チェスはやったことがあるか?」
[あ? まぁそれなりにやったことはあるけどよ、それがどうかしたか?]
不思議そうな顔をするバアル=ゼブルを見て、勝利を確信した笑みを浮かべる八雲。
ここ王都テイレシアで秘かに……いや、まるで隠す必要も無い争いが勃発しようとしていた。
「これは将棋と言う、非常にチェスに良く似た遊戯に使う盤でな」
[ほー、なんか木切れに、見たことのねえ絵が書いてあんな]
「木切れでは無く駒、絵ではなく文字だ。この文字が、様々な役割をこの駒に与えている。歩がチェスでいうポーン、角はビショップだな」
[……ほー](おいおい、なんかめんどくせえことになってきたな)
浮かない顔になったバアル=ゼブルを見て、八雲が不機嫌そうに忠告する。
「考えが顔に出ているぞ。つまり簡潔に言うとだな、少し前に団長の気晴らしにと思ってこの将棋を教えたんだが」
[……すぐに爺さんの方が上手くなった、ってわけか]
「身も蓋も無い言い方をする奴だな。俺といい勝負をするようになった、と言え」
[言い換えても、お前さんが爺さんに負けてることには変わりないだろうが。で、お前さんは何をしにここに来たんだ?]
「お前にも将棋を教えてやろう。これで団長の機嫌も取り易くなるぞありがたく思え」
[じゃあな]
足早に逃げ出すバアル=ゼブルの背中に、八雲が即座に忠告を飛ばす。
「随分とカフェや娼館にツケを貯めこんでるらしいな。自警団に苦情が殺到しているぞ。今のところは訴状を俺が握りつぶしているが、団長と将棋を指している時にうっかり口を滑らせてしまうかもしれんな」
[コッ……コノヤロウ……人の弱みにつけこむのは魔族の特権だぞオイ]
「では友人として頼むぞバアル=ゼブル。俺も日々の仕事があるゆえ、毎日団長の相手をするわけにはいかないからな」
笑みを浮かべ、嬉しそうに将棋盤に視線を落とし、あまつさえ鼻歌を歌いながら駒を並べる八雲の頭頂部に向かって、バアル=ゼブルがジト目で話しかける。
[要は自分が勝てる将棋指しを増やしたいだけだろ……おい無視すんな]
八雲は駒を並べる手をほんの一瞬だけ止めるが、無言のままにそれを再開し、並べ終わると胸を張り、鼻息を荒げて玉の駒を置いた側に陣取ると、バアル=ゼブルに王の駒が置かれた方を指し示し、開始の宣言をしたのだった。
[……でもよ、俺はチェスは知ってるが、この将棋って奴のルールや駒の動き方は全然知らねえぞ。そんなの相手にして楽しいか?]
「心配するな。盤、駒ともに召喚術で疑似人格を与えている。お前が変なことをしようとしたら助言をしてくれるから、それを聞くといい」
[ほー、便利なもんだな。俺の知ってる召喚術ってのは、主に精霊を召喚して用が済んだらそのまま精霊界に還すモンだが、お前のはちょっと系統が違うみたいだな]
歩の駒を持ち、表と裏を見比べながらバアル=ゼブルは八雲に話しかける。
「俺の召喚術は、どちらかと言えば憑依に属するものだからな」
[ほう]
「俺の故郷では、すべての物には命が宿っており、それが長じれば付喪神と言う神になる。つまり俺の術は精霊では無く、その付喪神を召喚して物に憑依させるものだ。この天叢雲剣や、この前の八坂瓊曲玉は、その中でも最上位にあたる存在だ」
[なるほどな、つまりお前は神の集合体ってわけだ……ところでこの駒って奴は、何で表と裏の文字が違うんだ?]
「集合体と言うのであれば、メタトロンの方がふさわしいだろう。俺はその数々の付喪神、八百万の神々の助力を得ているだけ……ああ、駒が敵陣に入ると、成ると言って動ける範囲が増える。動ける場所は盤が光るから、そこならどこに打っても構わないぞ」
[チェスとは随分とルールが違うんだな……よっと]
バアル=ゼブルが角を持ち、光っているマスとは違うところに打った途端に角が喋り出し、驚いた彼はその駒を放り出す。
≪おい! せめて盤上に打たぬか!≫
そして放り出された先で怒り出す駒を見てバアル=ゼブルは仰天し、八雲の方を見て駒を指さすと、何が起こったのか説明を求める。
[なんだこりゃ!?]
「それがさっき言った助言だ。お前のようなズブの素人でも見捨てずに、根気強く指導してくれるぞ」
[そうか。なんか癪に障る言い方だが、その分だけ後が楽しみって奴だな]
≪ふん、お主のような短気で短絡、おまけに単細胞の男が八雲殿に……≫
ばきっ
「……おい、駒を粉砕するな」
[ああすまん、最近膨れ上がった力を制御できないことが増えてな]
駒から粉になった角は八雲の術で復元され、ざわつく盤上に戻される。
「それにしても誘った俺が言うのもなんだが、こんなことをして遊んでいていいのか? 真面目にこの王都を支配しようとしているのはジョーカーとモートだけで、他の奴らは基本的に遊んでいるように見えるんだが」
[あん? 俺たちを何だと思ってるんだ? 天使じゃあるまいし、魔族が真面目に働くわけがねえだろ。俺たちを殺す気か]
「納得した。それ、王手飛車取りだ」
バアル=ゼブルの返答を聞き流した八雲が、小気味よい音を立てて角を打つ。
[……オウテヒシャトリ? なんだそれ?]
「飛車が逃げれば王を取られてお前の負け。王を逃がせば強力な駒である飛車が俺に取られる。どちらにしてもお前は大きな痛手を被る」
[ほう……]
面白くなさそうに王を逃がすバアル=ゼブルの顔を、満面の笑みで見つめながら八雲が飛車を取った直後、バアル=ゼブルが持ち駒にしていた桂馬を打って王手をかける。
[その角が丁度邪魔だったんだよな。さっきお前さんが教えてくれた、実戦における伏兵同様、相手が持っている駒の奇襲には気をつけろ、って奴だな……ん? どうした八雲。何だかとても悔しそうな顔をしているぞ?]
≪チクショウ! 死ぬなら自分一人だけで死ね! 俺たちを巻き込むな!≫
≪お妙……婚約者である君を置いて死ぬ僕を、君は許してくれるかい……?≫
バアル=ゼブルが八雲の顔を見て勝ち誇ると、途端に盤上の駒たちが騒ぎ出し。
ばきべきぼきっ
[……おい、盤ごと駒が消えちまったぞ]
「すまんな、どうやら付喪神たちが暴走してしまったらしい」
切れ長の涼しげな瞳で、澄ました顔のままそう説明する八雲へ、呆れたようにバアル=ゼブルが軽口を叩く。
[付喪神の暴走……なのか? それにさっきの駒たちの様子を見るに、今回が最初の暴走って訳じゃなさそうだがよ。しかしさっき将棋を始めたばかりのズブの素人に負けるとか、お前さん将棋の才能ないんじゃないか?]
そのバアル=ゼブルの軽口に、八雲の眉がピクリと動く。
「聞き捨てならんな。いつ俺が負けた?」
[そんじゃ、あそこから逆転できたってのか? 俺の将棋の師匠様はよ]
ニヤニヤと笑いながらバアル=ゼブルがそう言うと、途端に八雲がその鼻先に人差し指を突き付け、熱い口調で再戦を申し込む。
「古今東西! ただ一度の勝利で勘違いし、調子に乗った者がその後どうなったか! お前の身を以ってその末路を教えてやろう!」
ただ一度の勝利。
その発言そのものが、先ほど自分が負けたと認めるものなのだが。
しかしそれに気付かず、熱く言い放った八雲が盤と駒を復元し、駒を並べてやっぱり玉の方に座ると、程なく謁見の間にねっとりとした声が響き渡る。
[お、何々? 何してんの君たち]
[おう、アスタロトか]
堕天使の長であり、相も変わらず下品な煌きと色気を周囲に放っている、一見男に見えるアスタロトが二人の前に姿を現し、八雲の背中にしなだれかかって舌なめずりを始める。
[相変わらず艶やかないい髪だね……思わず舌に含んで味わいたくなるよ……ん? 将棋? チェスはやったことあるけど、でもあまり得意じゃないんだよねぇ]
三十分後。
[じゃ、ボクは自警団が使ってる地下牢に行ってくるね。ボクが昔使ってたクローゼットが、侵入不可能とかで問題になってるみたいだから]
[お、おい……八雲……]
「今の俺に……触るな! いいか! 今日は連戦で疲れていただけだ! 今度戦う時は、俺の本当の実力を見せてやる!」
こうして自警団と魔族の目に見える争いが幕を開け、それはしばらくの間、王都テイレシアに平穏をもたらしたのであった。




