第176話 雷霆
人里離れた山奥、通る者も居なくなって久しい古道。
通る気配と言えば、野山に住む獣たちのみであった神秘的なこの道に、久方ぶりに人影が姿を見せていた。
人では無く、人影と説明したのは、旧街道を歩く彼らは人の形をとっているものの、その実は人を遥かに超えた力を持つ超常的存在、天使と旧神だからである。
だが、そんな彼らの会話の内容と言えば。
「おい! こんな山奥に本当にヘルマがあるんだろうなヘルメースいたたたたた!?」
白を基調とした長袖の上着の下にズボンを履き、癖のある金髪を長く伸ばした一人の青年が、かつてはそれなりの幅を持っていたであろう道を、すべて覆うほどに伸び放題に伸びている周囲の草木に髪を引っかけながら、後ろを歩く男に叫び声を上げる。
そしてヘルメースと呼ばれた、緑色の髪を緑色の帽子でまとめ、緑色の服を着た緑づくめの青年の姿をした旧神が、やや呆れた口調で前を歩く金髪の青年、ヘルマ破壊の任について数日が経った熾天使であるアルバトールに答えた。
「下の谷に橋が掛けられ、広く、なだらかな今の街道が整備される前は、山林を切り拓いて作った、狭く、険しいこの古道が人々の生活を支えていた。廃れてしまって久しいが、もう少し歩いた所にヘルマがある。しかしそんな物まで壊す必要があるのか?」
「ヘルマを壊すたびに周囲の魔物の気配が消えていくんだから、こんな山奥の廃れた街道の物でも壊す必要はある……と言いたい所だけど、実はその必要性を確認するのが今日の任務だよ。それにしても、なんでヘルマが魔物を吸い寄せてるんだ?」
「それは流石の僕にも判らない。設置された当時のままのヘルマの周囲にはまるで魔物が寄っていなかったところに、謎を解く何らかの秘密が隠されているのではないか?」
とうとう髪の毛が木の枝に絡まり、悪戦苦闘しながら引き剥がそうとするも叶わず、ついに枝を折った葉っぱだらけのアルバトールの頭を見て、ヘルメースは溜息をつく。
「飛んだ方がいいんじゃないか? 人として育ち、石造りの街や道に慣れ切った君が、わざわざ山道を歩く必要など無いだろう」
「そりゃそうなんだけどさ、僕一人で飛んでも、結局は歩いている君たちに速度を合わせなきゃいけないだろう? かと言って君たち全員を飛ばそうとすれば、かなりの力が必要になるから目立ちすぎる。結局のところ全員で歩くのが一番効率的なんだよ」
少し不機嫌な様子を見せる若い天使を見たヘルメースは軽く首を振ると、前に居るアルバトールから視線を外し、後ろを振り返る。
「……まぁ、嬉しそうに歩いている者も居るようだし、僕は一向に構わないがね」
そこには木の枝などに引っかかって抜けてしまったアルバトールの髪を、軽いステップなど踏みながら一本一本笑顔でつまんで回るエレーヌの姿があった。
「一体ヘプルクロシアで何があったのだ? 昔から高飛車で高慢ちきで弟を弟とも思わぬ傲岸不遜な女だったが、それでも一応は常識の範囲内に収まる行動しかとらなかったのに、今の姿は一体……」
その批評を聞いたアルバトールは、エレーヌの注意がこちらに向いていないのを素早く確認したのちに同意する。
「確かに僕もそう思うけど、その理由までは判らないよ。そんなに気になるんだったら本人に直接聞いてみたらどうだい?」
「馬鹿を言うな。そんなことが出来るなら、僕はとっくに十二神の主神になっている。かつて世界を焼き尽くす力を持っていた我らの主神ゼウスすら、アテーナーには一目置いているのだぞ」
「何となく判る気はするけど……一ついいかい? ゼウスが世界を焼き尽くす力を持っていた、という過去形で表されてるってことは、今は焼き尽くせないの?」
「聖霊が世界を満たし、結界が世界の理に組み込まれてしまってからは、せいぜいこのフォルセールを焼き尽くすのが精一杯だろうな」
「……それでも十分だね。今はそのゼウスが敵に回らないことを祈るだけだよ」
そう言うと、アルバトールはヘルメースに背を向けて再び歩き出し、その後を白い髪、白い袖なしのワンピースを着た幼い少女に見えるティアマト――おそらく熾天使であるアルバトールすら寄せ付けないほどの力を持つ旧神――がトテトテと着いていく。
その背中を一瞥すると、ヘルメースは後ろを再び振り返る。
そこには金色の羽毛のようなアルバトールの髪を、今にも頬ずりしそうなほどに愛おし気に見つめる一人の女性がいた。
珍しくゆったりとした、体のラインが判りにくい薄い青色の服を着たエレーヌをヘルメースは見つめると、帽子のつばに手をやって視線を隠すように押し下げる。
「……処女をこじらせるとああ言うふうになってしまうのだな。流石は知恵を司る女神アテーナー。このヘルメース勉強させてもらったぞ」
そしてヘルメースはエレーヌに背を向け、山につきものの急な天候変化によるものか急にざわつき始めた草木を無視し、アルバトールが進んだ方向へ歩き始めた。
「遅いな、二人とも」
[あやつらは近親婚を厭わぬ神々じゃからのう。今頃は我らの目が届かぬところに二人で行って、何やら睦言でも交わしているのかもしれぬぞ]
先行したは良いものの、一向に追いついてこないヘルメース、そして入れ替わるように、足を速めて近づいてくるエレーヌに気付いたアルバトールとティアマトは、そこで足を止めて世間話に興じ始めていた。
「ティアちゃんも人のことは言えないんじゃないか? それにむしろ神々の間では、近親婚が当たり前のような気がするんだけど」
[わらわたちよりひどいのがあやつらじゃぞ。ヘルメースの別名、アルゴス殺しの由来を知っておるか?]
「ゼウスの不倫に悩まされた奥さんのヘーラーが、浮気相手の見張りとして巨人アルゴスを遣わせたら、そのアルゴスを眠らせて殺しちゃったんだっけ? 正直言って浮気するためだけに殺人をさせるとか、幾らゼウスが有名な神とは言っても引いちゃうな」
[うむ。よってお主も結婚するなら、わらわのような優しく清楚で可憐な美少女を……]
そう言いかけたティアマトの言葉を制するかのように、いきなり彼らの背後から声が掛けられ、アルバトールはようやく二人が追いついたのかとそちらへ顔を向ける。
「先を急ぐぞアルバトール。何やら雲行きが怪しくなってきたからな」
「確かに」
声をかけてきた人物を一瞥すると、アルバトールは呆れたように肩をすくめ、見る間に曇って来た空を見上げる。
「女心と秋の空。あやしくなったのは天候だけでは無いでしょう。ヘルメースをどうしたのです? エレーヌ殿」
「さて? ヘルメースは牧畜の神でもあるから、久しぶりにフォルセールを出て自然の中に身を置いたことにより、血が騒いで野山に帰ろうとしているのかもしれんぞ?」
アルバトールはとぼけるエレーヌを見た後、その肩越しに見える、潰れたアマガエルのようになったヘルメースの体に次々とカラスが覆いかぶさっていき、見る間に緑色が黒色に変わっていく過程をその目に収め、苦笑した。
「血が騒ぎすぎて身体中の穴から噴き出しているように見えますが。このまま放置しておけば、野山に帰る前に土に還ってしまいますよ」
そう言い残し、ヘルメースのところへ戻っていくアルバトールの後をティアマトとエレーヌが着いていく。
[随分と様変わりしたのうアテーナーよ。宿主が発情期を終えたと言うのは真か?]
「さて、どうかな」
不敵に笑うエレーヌを見てティアマトは目をぱちくりとさせ、ふうむと唸り、足を止めて空を見上げると口の中で呟く。
[ま、すぐに判りそうじゃの。確かあやつは、パラスを主とする片割れのはず]
ニヤリと笑みを浮かべるティアマトの背後で稲光が走り、轟音がその場を支配する。
[来たか]
勝ち誇ったように言うティアマトの前方から悲鳴が上がり、アルバトールの狼狽した声がそれに続く。
その発生元を目で追えば、そこにはアルバトールにしがみつき、全身を震わせて動けなくなったエレーヌと、エレーヌに押し倒され、顔に押し当てられた彼女の胸に全身を硬直させ、動けなくなったアルバトールが倒れていた。
そして少し時は経ち。
中に居る者が発狂しそうなほどに黒い天井、壁、床……のように見えるカラスの中で、土色のシーツと言うか土そのものの上で、ある人物が目覚めようとしていた。
「ふむ、知らないカラスだな」
長く伸ばした緑色の髪を持つその青年は、誰かに受けた暴力のせいで少々乱れた髪を手で軽く後ろへ撫でつけ、身動きしたことによって、チッ餌じゃねーのかよ、とでも言いたそうに次々と飛び去るカラスを見あげる。
遮る物も無い雨に目を潰された後に、ふと自分の体を見下ろせば、そこには見慣れた服が緑色では無く、代わりに所々カラスの糞である白に染まっており、比較的長身であるはずの彼の体すら楽に包み込む、若干大きめのシャツとズボンも血に染まっている。
魂の拘束とはまったく無縁になったその身体は、瀕死から回復した直後に特有の倦怠感と相まって、いま少しの永眠を彼に提供するものとなっていた。
「……なんてのんびり考えてる場合じゃない! 早く僕を助けるんだアルバトール間に合わなくなっても知らんぞー!」
だが、その声に応えるべき天使から返事は来ない。
しばらく寝たまま待ってみた後、その緑色の青年ヘルメースは諦めたのか何事も無かったように立ち上がり、そして自然に目に入ってきた傍らで泥に塗れて転がっている男女を見つけ、ニンマリと笑みを浮かべた。
「おやおや、これはアルバトールの任務を自主的に手伝おうとした、姉の献身的な成果が実った、とでも言えばいいのかな?」
「いいから早く僕を助けてくれヘルメース!」
「た、助け……イヤァーッ!?」
「この稲光はゼウスの雷霆では無いぞ姉上。いくら昔びっくりさせられたとは言え、ただの雷にすら恐れを成す必要性はまるで無いはずだが」
「ピイィ……」
鳴りやまぬ雷鳴に怯えたままのエレーヌと、それを見て天に拳を突きあげ勝利宣言をするヘルメース。
そして降りしきる雨を全身に受け、何やら喜んでいるように見えるティアマト。
次第に雨脚は弱まり、明るくなった西の空から差し込んだ光がヘルメースに狙いを定め、その握りしめた拳に光が差し込むと同時にエレーヌがゆらりと立ち上がり。
「悔いは無いかヘルメース」
「数えきれないくらいある!」
エレーヌの拳がヘルメースの鼻のあたりに差し込まれ、しばらく後に疲れた顔をしたアルバトールが緑色の死体じみたナニかを背負い、再びヘルマの下へと歩き出す。
先ほどの騒ぎの後しばらく歩くと、もはや見飽きたと言えるヘルメースのシンボル、ヘルマが彼らの視界に入ってくるが。
「おう、久しぶりやな二人とも。達者にしとったかいな」
その根元には一人の老人……にしては筋骨隆々としている男性が座っており、白くも豊かな髪の毛が、白い豊かな髭と繋がっているその容貌は、確かに初対面であるはずのアルバトールの頭の中に、見覚えがあると言った印象を植え付ける。
街のどこにでもある石像に良く似た顔に、国のどこにも居ない迫力を秘めたその眼。
発せられる重圧にアルバトールが多少気後れをした時、その耳元から声が発せられて背中の荷物だったはずの男の体重が消え、目の前の景色が緑一色に覆われる。
「久しぶりだな父上。噂をすれば何とやら、だ。アルバトール、これが先ほど話した我ら十二神の主神、ゼウスだ」
「自分の親をコレ扱いかいな。どこぞで育て方を間違うたかもしれへんな」
「育て方どころか、産ませ方からして間違っていたと思うんだが」
呆れた口調で言い放ったヘルメースの苦情を受けたゼウスは、居心地が悪そうに頭を掻き、苦笑いを浮かべると、いきなり立ち上がって右手に変わった形状の短めの棒――両端に三つの棒が形作る球状の物が着いた武器――を取り出す。
「アルバトールよ、あれがかつて世界を焼き尽くした武器、雷霆だ」
「へー」
「……おい僕の後ろに隠れるな」
「いや勝手に僕の前に飛び出たのは君だから」
何とかして目の前の相手を盾にしようと揉みあう二人に、ゼウスが叫びを上げる。
「可愛いワシの子らを二人も手中にした天使の腕前、見せてもらうで!」
「誤解だああああああ!」
そして辺りを眩い光が包んだのであった。




