第174話 陸の灯台
ここでいったん場所はヘプルクロシア王国の王都、ベイキングダム城の内にある一室へと移り変わる。
中に居る者が発狂しそうなほどに白い天井、壁、床を持つ部屋の中に置かれた、純白のシーツが敷かれたベッドの上で、ある人物が目覚めようとしていたのだ。
「ふむ、知らない天井ですね」
短く刈った銀髪を持つその青年は、長く寝ていたことで少々乱れてしまった髪を手で軽く後ろへ撫でつけ、外からの風によって白いレースが絶えずなびいている窓を見る。
窓から差し込む光に目が慣れた頃に、ふと自分の体を見下ろせば、そこには見慣れた執事服や金属鎧の類は見当たらず、代わりに部屋と同じ純白の、比較的長身であるはずの彼の体ですら楽に包み込む若干大きめのシャツとズボンが着せられており。
身体の拘束とはまったく無縁である緩やかな服装は、起きた直後に特有の体を包む倦怠感と相まって、いま少しの惰眠を彼に提供するものとなっていた。
そして彼がその眠気に負けそうになった時、部屋の中に軽いノックの音が響く。
「……どうぞ」
「あら、気付いたのかしらベルトラム」
その鋭敏な音によって彼はぼんやりとした意識を再び明確な物と変え、彼の返事を待つまでも無く解放されたドアの方へと顔を向ける。
するとそこには、一筋の乱れも無い金髪を腰まで伸ばし、少し端が垂れた碧眼の眼と、若干潤んだ光沢を持つ唇を持つ可愛らしい少女が、白い法衣を着て立っていた。
ベルトラムと呼ばれた青年は親し気にその少女に微笑み、まだ少し残っていた眠気を頭を振ることで追い出して話しかける。
「ええ、まるで一週間以上を寝て過ごしていたような、すっきりとした目覚めですよガビー。それに比べて、寝付きの記憶はどんよりとして……どうも曖昧ですね」
「……寝る時に部屋が暗いのは、当たり前のことじゃないかしら?」
ガビーと呼ばれた可愛らしい少女は、若干の含みを持たせた返答をすると、部屋の隅に置いてある巨大な純白の鉢植えに近づき、この部屋に唯一の色彩、そして強烈な香りと鎮静作用をもたらしていた、白と黄色の花を持つカモミールに水を撒く。
(怪我人の見舞いには厳禁であるはずの鉢植えの花、白と黄色の色彩から成る花を咲かせ、鎮静効果を持つカモミール……嫌がらせ?)
ガビーのその姿を見たベルトラムは、何か忘れていることがあるような気がして必死にその何かを思い出そうとし、幾度かカモミールの強い香りに邪魔されながらも、何とか彼はそのおぼろげな記憶の断片を掴むことに成功する。
「そう言えばガビー、貴女に作ってあげなければならない料理があったような」
「それ以上は言わないで、ベルトラム」
だが質問をしようと口を開いた瞬間、ガビーはするりとベルトラムに近づき、潤みと光沢を帯びたように見える、濡れた一本の手ぬぐいを彼の顔に当て、その無粋な内容の質問を最後まで言わせない。
「それとも貴方はあたしを、再びあの戦場に戻したいとでも?」
そう言って目を伏せ、悲しげな表情を作ったガビーは、フォルセール城での悪夢の日々を思い出していた。
ガビーの背後で、黙って食事が終了するのを待つアリア。
ガビーの正面で、うんざりした表情で食事が終了するのを待つアルバトール。
ガビーの横から、彼女が苦手なナスのオードブルを一瞬のうちに自分の皿から移動させ、ホッとした表情で食事時間を延長させるエルザ。
食卓と言う戦場を通して体験したそれらの恐怖を思い出し、ガビーは全身を覆った寒気を振り払うように体を震わせた。
「そう、判ってくれたのね……あたし嬉しいわ、ベルトラム」
ベルトラムから反論が来ないのを確認したガビーは涙を拭くような仕草をするが、その視線の先では手ぬぐいで鼻と口が塞がれ、顔や手足が青白くなったベルトラムがぐったりしており。
その様子からして、彼に酸素が足りていないことは明白だった。
「あたしを安心させるために無理をしていたのね。ゆっくり休んで頂戴ベルトラム」
そう言うとガビーは証拠隠滅……もといベッドに横たわったベルトラムを起こさないように肌布団をそっとかぶせ、まるで苦悶の表情を隠すかのように顔にかぶせてあった手ぬぐいをその流れのまま取ろうとした時、ある音が彼女の耳に入ってくる。
「まずいわね」
その甲高い金属音を放っている人物を、彼女は知っていた。
ベルトラムの主治医についている医神ディアン・ケヒト。
医術百般に通じ、腕も確かだがその腰には常に剣を帯びており、その上に手に何も持っていない時は絶えずその剣の鯉口をきって、いつでも剣を抜けるようにしている危険な神でもあった。
「もう少し傍に居たかったけど、あの男が来るんじゃしょうがないわね……また来るわ。ベルトラム」
そしてガビーは青ざめた顔で開け放たれた窓から飛び出し、飛行術で逃走した。
「そろそろ起きる頃なのですが、おかしいですね……ん? この手ぬぐいはガビーの?」
程なくベルトラム一人が残された部屋に入って来たディアン・ケヒトは、何とか息ができる程度に顔から引きはがされた、ベルトラムの顔にかぶせてあった手ぬぐいを見て軽く溜息をつき、そして剣を抜く。
「私の完璧な施術の結果を汚すとは、まったく面白いお方ですね。これはそろそろ新しいトラウマを擦り込んで差し上げなければ……さて、今度は私がこなしてきた手術の、どの詳細を教えてあげましょうか……」
ふわりと窓からディアン・ケヒトが飛び出した数十分後。
「やめてええええっ!? もうしないから! しませんからああああッ!?」
遠くで泣き叫ぶガビーの声が、ベルトラムが寝ている部屋へ微かに響いたのだった。
そんなこんなで、ベルトラムとガビーの帰還が遅れていることを知らないアルバトールたちは、のんびりとピクニックをするようにヘルマを破壊しつつ、帰ってこない二人のことを話題にしていた。
「しかし僕が帰国してからもう二週間は経ちますよ。幾らルーに手ひどくやられたとは言っても、ディアン・ケヒトの治療を受けてこれほど長引くとは」
「案外、二人で駆け落ちでもしたのかも知れませんわね」
「何を悠長なことを……」
バヤールの背に乗ったアルバトールとエルザが話している横で、のんびりとあぐらをかき、浮きながら会話を聞いていたティアマトが、何かを見つけたように一点に視線を集中し、僅かな匂いを嗅ぎ取るように鼻を鳴らす。
「ガブリエルが僕と結婚するために、アルバトールの執事と一緒に花嫁修業に出たって本当かい?」
「ベルトラムが居なくなるのは困るけど、ガビーが少しでもまともになるなら花嫁修業に出したいな」
そしてガビーという名前が出た途端に、それまで自由気ままに辺りを飛んでいたヘルメースが会話に加わり、彼が提供した話題にアルバトールが深刻な反応を返してすぐに、ティアマトが無邪気な笑顔を浮かべながらガビーに関する報告を始める。
[おお、ちょうど今そのガビーという娘が泣き叫びながら飛んできたから、ヘプルクロシア沖で思わず撃墜してしもうたぞ]
こうして二人の帰国は、さらに延期する羽目になったのだった。
そしてその頃。
[判った、下がって良いぞ]
王都テイレシアの中心、王城にある謁見の間で、アルバトールと同じような深刻な顔を一人の堕天使がしていた。
そしてその沈んだ声と共に、わだかまっていた影もまた床に沈み、それを見届けると道化師のような恰好をした白と黒の模様を持つ人影が呟きを発する。
[何を考えている、天使共め……それとも人間を見捨てたか?]
本来、人々を楽しませることが商売であるはずの道化師。
その格好からは到底想像もつかない憎々し気な声を漏らすと、彼はゆっくりと謁見の間から出ていき、後には壁と格闘し、額から爽やかな汗を流すモート一人が残された。
[……で、なんでお前さんは俺に相談するんだ? モートなり、アスタロトなり、ヤム=ナハル爺なり、相談できる相手は他に何人もいるだろうに]
[全員お前に一任すると言っていた]
[……あーそうかよ、ケッ]
アナトの名前が出ないのはご愛敬、と言うべきだろうか。
何にせよ、奇妙にねじくれ曲がったテイレシア城の、以前は屋根だったと思われる場所で、青く長い髪を持つ美しい青年であるバアル=ゼブルとジョーカーは、今しがた偵察からもたらされた情報について話し合いを始めていた。
[あん? ヘルマが破壊されてるだ? それがどうかしたのか?]
[大問題だ。少数のヘルマが残されていれば、それを目印にして下級魔物が街道に集まり、こちらに向かってくることやそこを通る人間たちを喰らうことも出来たのに、すべてが破壊されてしまっては、灯台としての役目を為さなくなってしまうだろう]
[なるほどな。そんじゃ街道を壊したりヘルマを壊したりしなきゃ済むんじゃねえか?]
[それでは灯台の役目どころか、本来の結界や縄張りの効果を示してしまい、下級魔物では街道に近づくことすらかなわぬようになるだろう。程度を知らん奴だ]
バアル=ゼブルの返答に、うんざりした声でジョーカーは応える。
仮面で表情が見えないのを利用し、自分に有利な方向へ議論を誘導しようとしないジョーカーを見たバアル=ゼブルは、目の前の堕天使が本当に困っているのだと判断し、少しだけ同情をした後にニヤニヤと笑いだす。
[まぁいいじゃねぇか。ヘルマによる妨害が無くなり、人が往来する街道が元に戻ればそこに宿る地脈の力もまた強くなり、元々遠来の土地に根差していた俺たちに対する信仰心もまた、遠方に居る信徒たちから届きやすくなる……いや、既に届いている]
ジョーカーは嬉しそうに言うバアル=ゼブルのその言葉に答えず、仮面の奥に隠した視線のみで応える。
[実にいい気持だ。俺以外の奴らが信徒の信仰心で満たされる日も、それほど遠くないだろうな。どうした? 嬉しくないのかジョーカー。それともお前さん、俺たちに力を取り戻させない為にヘルマと街道を破壊してたんじゃあねぇだろうな。あぁん?]
[……そんな馬鹿なことをする訳がなかろう]
[そいつを聞けて嬉しいぜジョーカー。お前さんとはこれからも仲良くやっていきてぇからな]
余裕たっぷりに言うバアル=ゼブルに対し、ジョーカーは日頃の雄弁さをどこかにやってしまったように寡黙になる。
[そんじゃ俺ぁ城下の様子を見てくる。アスタロトによろしく言っておいてくれ、堕天使ジョーカーよ]
飛行術を使い、飛び立つバアル=ゼブル。
それへ何の意思も宿っていない視線を向け、背中が見えなくなった頃に、ジョーカーはようやく城の中へと姿を消す。
[個の力と集団の力、か]
そう呟くとジョーカーはアーカイブ術を発動させ、一通の手紙を書き始める。
[さて、こちらの集団の力はどこまで膨れ上がることやら]
テスタ村と書かれた宛先を持つ、一通の手紙を。




