第172話 噂職人の朝は早い
アルバトールが夜間飛行の現行犯でエレーヌにこってり絞られていた頃。
フォルセール城の厨房の一角では、ある異変が起こっていた。
――吾輩はゴキブリである――名前は……ゴキブリ亜目ゴキブリ科ゴキブリ属トウヨウゴキブリ生まれた場所はジメジメした薄暗い場所でカサカサ蠢いていたことだけは記憶しており吾輩はここで初めて猫というものに咥えられてギャースパパッ!?
「暖かくなってきたからかしら……ちょっと見ない間にだいぶ増えてきたわね」
そう言ってアリアはアルバトールの食事に近づこうとした、一匹の黒光りする流線型の生物を小デュランダルで粉微塵にした後、目を閉じ、周囲の気配を探り、見えぬ場所に潜む存在を肌で感じ取るやいなや、物陰に潜んだ彼らを追い立て、殲滅した。
だが、彼女は知らない。
フォルセール城の片隅に間借りしているゴキブリたちの一匹に天啓が降り、彼らがこの時代の人間ですら知りえない知識を持ってしまっていたことを。
それはアーカイブを管理するメタトロンが転生した余波によるものだっただろうか。
だがこの時代の人間にとっては、割とどうでもいい知識は誰に語られることもなく闇に葬り去られ、厨房の平和は彼女の手によって守られたのだった。
そして間を置かず、食事の衛生面の保持について思案を始めたアリアは、ちょうど外を通りかかった人影を見て駆け寄る。
「あ、司祭様ちょうど良かった。実は今……え? ヘプルクロシアでのことでございますか? でも私、まだ仕事中で……え? レナ様に給仕を? ……いえそんな恐れ多いことをして頂くわけには……取引済みってどういうことですか!?」
「ぐっふっふ。それに関しては私の方から説明するわね」
そのアリアの叫びに呼応するかのように、下卑た笑いを口に手を当てることで隠しているレナが、肩まで伸びたブラウンの髪を揺らしながら厨房に姿を現す。
「うっふっふ。それじゃエルザ司祭、後で詳細をお願いしますねー! あ、アリア。ゴキブリのことは気にしないでいいから。あたしが新しく開発した小型のゴーレムで探索して、ちょちょいのちょいって片付けちゃうから!」
アリアは景気のいい返事をするレナに気圧されて思わず生返事を返し、上機嫌というか、底抜けと言うか、青天井なまでに機嫌のいいエルザに連れられ、厨房を出る。
そしてアリアが厨房から姿を消してから程なくアルバトールが城に戻り、アリアの出迎えがないことを不審がりつつ広間に向かった彼は、食事を運んできた者がレナであることに違和感を抱き、警戒心も露わに質問を口にしていた。
「レナ殿」
「やーねー何よ改まっちゃって。昔みたいにお姉ちゃんでいいんだよ? アルバ君」
「……」
レナは笑顔だった。
それもとびきりに信用できない類の。
その顔を見たアルバトールは、温め直され、若干風味が落ちたシチューに固くなったパンを引き千切って浸し、口の中に運ぶ。
その一連の動作を淀み無く、内に潜む不安を外に漏らすこと無くこなした彼は、傍で控えるレナにごく自然に探りを入れる。
「こうして食事の世話をして頂くのは久しぶりですね、レナ殿。アリアはどちらに?」
「久しぶりの帰国だし、長旅で疲れてるように見えたから、あたしが仕事を代わってあげたんだよ。ちょっと強引だったかもしれないけどね」
確かにアリアは頑固だが、一人の例外を除いて人の好意に(それが例え理不尽なものであったとしても)弱い性格である。
レナの説明に不自然な箇所は見当たらないように見えた。
だが、それを聞いたアルバトールは続けて質問をする。
「それであれば母上が給仕をしても良いはず。母上はどちらに?」
「ジュリエンヌ様なら、あたしが夕食に御呼ばれした時に、給仕を手伝おうとしてアリアに怒られてたよ。今は部屋にいるんじゃないかなぁ」
(……気のせいか。ヘプルクロシアでバアル=ゼブルやアスタロトなど変人……変神との戦いで日々を過ごしたせいか、人を信用できなくなっているのかもしれない)
アルバトールは納得し、遅い夕食を済ませて自分の部屋に戻る。
そして次の日。
ジュリエンヌがどこの部屋に、誰と居るのか。
それをレナに聞かなかったことを、彼は後悔することとなる。
「これで彼らも、無為の徒と自らを卑下することも無くなるだろう」
その頃城の一室では、エルザを加えた側近との密談(主にアルバトールとアデライードに関する物だが)を終えたシルヴェールが、一人で天井を見上げていた。
王都が陥落する原因となった魔族への罠。
それを仕掛ける為に王都テイレシアより諸侯のところへ向かった各部隊は、魔族に壊滅させられたものを除き、殆どが行先である諸侯のところで、本来の任務もこなせずに食客として世話になっている。
だが今回のヘルマ破壊、関所の手続き簡素化、税金の軽減によって商人の往来が盛んになれば、魔術が使える者は人や物の検査に、騎士たちは街道の警備に就くことができるため、周囲の眼に対する引け目は解消されるはずだった。
「後継者の地位を固め、自らの命を守れるようになるために幼き頃から雌伏の時を費やしてきたのだ。ここで更に数年を費やしたところで、何の変わりがあろうか」
一人ででも王都を奪還に向かいたい胸の内を抑え、シルヴェールはまるで天井に誰かがいるように話しかける。
それはまるで、弱音を吐くことができる人物がいない寂しさを紛らわせているようでもあった。
「……テイレシアを無事奪還した後、落ち着けば私も王族の義務に従い、子孫を残す準備をせねばならんか」
先ほどの密談の内容を思い出し、人知れず呟いたシルヴェールは、まだ王都を奪還する算段も付いていない現状もまた思い出す。
「気の早いことだ。先ほど自分で数年を費やす覚悟を決めたと思っていたのだが」
頭を掻き、寝室へ向かうべく気もそぞろに無造作に執務室のドアを開けたシルヴェールは、ちょうど外を歩いていた婦人にドアをぶつけそうになって慌てて謝罪をする。
「おっと、すまぬな」
「いや、こちらこそ。こんな時間まで執務とはご苦労なことだな、陛下」
「クラレンスか? どうしたその恰好は」
「今はクレメンスと名乗っている。いや、こちらの方が本名なのだから、名乗っているはおかしいか。しかし良く判ったな。会ったのは一度きりでもう五年以上も前だし、それにあの頃私は騎士として修業中の身だったのに」
それはドレスから、ゆったりとした白いワンピースへと着替えたクレメンスだった。
元々女性としての仕草も練習していたのか、船の中の堂々とした男性の仕草は鳴りをひそめ、よっぽど女性らしい歩き方、仕草をするようになっている彼女を見て、シルヴェールは軽く首を振った。
「いいや。預かった大事なお客様が初対面から妙に刺々しく、誰にでも噛みつく剣呑さを持っていたので少し調べただけだ。多少手こずったが、女性と言うことはすぐに判った。それにしても堂に入った物だな。もう結婚する相手は決まっているのか?」
クレメンスは呆れた顔をして、あっさりと口を割る。
「意中の相手はいたが、どうやら契約済みらしい。今更勝ちいくさに持っていく為の算段を立てるのも面倒だし、諦めて別にいくさ。そういう陛下はどうなのだ?」
「今目の前にいるご婦人を口説こうとしている最中だ。それにしても、自分の奥底に関する情報をあっさりと漏洩するとは、身の安全が保障されて油断していたか?」
「いいや。自分の目の前にいる殿方を信用しているだけの話さ。だが私は手ごわいぞ、シルヴェール陛下。生半可な気持ちで口説くのであれば、その身に火傷を負うことを覚悟することだ」
「名誉の負傷を恐れる武人はおらんよ」
二人は少しの間だけ見つめあい、声を立てて笑う。
「でも、今は先約がありますのでこれで失礼いたしますシルヴェール陛下。また明日にでもお会いいたしましょう」
ワンピースの裾をつまみ、優雅に一礼をするクレメンスに頷くと、シルヴェールは背中を向け、淑女の見送りを受けながら寝室に向かう。
割り当てられた寝室のドアを開けようとした途端、廊下の向こうより聞こえてきたけたたましい笑い声と、漏れ出る光を見てシルヴェールは苦笑し、中に入った。
「伏魔殿か。男は狼、女は魔物。果たしてどちらがどちらを食い物にしているのか」
そしてベッドの横に置いてある書物を手に取り、眠くなるまで目を通したのだった。
「どういうことなのっ!?」
フォルセール城の朝は早い。
朝日が昇る前から炊煙は立ち昇り、朝一番に開かれるバザーの新鮮な食べ物を目当てに、町中の奥様方が狭い箇所に集中する。
「さ、さぁ……私は仕事がありますので、これで」
従って色恋沙汰に関する噂が広まるのは、娯楽の少ない時代と言うことも重なってまさに一瞬であった。
「ちょっとアリア!? あ、アデライード姫、ヘプルクロシアでのことが町中で噂になってるんだけど何か……」
早朝、食事をする前に散歩を兼ねて街の警らをしていたアルバトールは、自分を見る奥様方の視線と、ひそひそ話をする姿に猜疑心を抱き、すぐさま目の前で露店を開いていた商人に話を聞く。
そしてヘプルクロシアでの出来事が、既に街中に広がっているとの情報を仕入れた彼は、その足で急いで城に戻ったのである。
「……姫などと、そんな余所余所しい呼び方をするなんて」
「え、あ、すまない。でもほら、公式にはまだ結婚してない訳だから」
「昨日、司祭様がおっしゃっていました。男は事前と事後では態度が違うと」
「え」
「私を連れ戻してしまえばそれで用済みと言うことなのですね……申し訳ありませんが、今はアルバトール様と話したくありません」
そしてアリアに続いてそそくさとアデライードも逃亡し、後には茫然としたアルバトール一人が残される。
「あ」
その声に振り向けば、そこにはワンピースを着ながらも身軽に走って逃げるクレメンスの背中しか見えず。
「……と言う訳です。何かご存知ですね?」
「あらあら。何かと言われましても、人をそのように最初から犯人扱いするやり方はどうかと思いますわ」
「犯人ですよね」
朝一から教会に来るなり、まばたきもせずに近寄ってきたアルバトールにたじろぎ、エルザは思わず後ずさる。
考察する必要も無く真犯人に辿りつき、その犯人である所のエルザを壁に追い詰めたアルバトールは、冷や汗を垂らすエルザが逃げられないように両手を突き、両脇を固めていた。
「そうですわね……朝方、城から教会に戻る際に、アデライード様とアリアの二人とたわいない会話をした覚えはありますが、それ以上のことはちょっと」
「たわいないと言う割には、随分と話に尾ひれ羽ひれがついているようですが? 痴情のもつれで傷ついたガビーがヘプルクロシアで姿を消し、その代わりにクレメンスを連れて来たって、まるきり私が人でなしのようではありませんか!」
「そこまで言った覚えはありませんが……」
「じゃあどこまで言ったんですか?」
エルザはしばし真面目な顔をして考え込み。
「貴方が二人の巫女やモリガンと乱痴気騒ぎを」
「ちょっと待って新しい話題が提供されて事態が余計複雑になってるけど!?」
商人からは耳にしなかった、いや耳にしたくなかった情報まで聞くこととなり、アルバトールは慌てて周囲を見渡す。
「人の噂とはそういうものですわ」
「喋った本人が何いってんの!?」
血相を変え、エルザの肩を掴んで詰め寄るアルバトール。
多くの信徒や聖職者が集う教会の中でそんな騒ぎを起こせば、関係者各位に目撃されることは必然であり。
カラン……
何か固いものを落とす音にハッとしたアルバトールがそちらを見れば、そこには若草色の帽子をかぶり、金色の髪を肩で切りそろえた一人の少女、フォルセール教会の侍祭であるラファエラ――四大天使の一人風のラファエル――が現場を目撃していた。
「そんなことは夜になってから人目のつかない場所でしてください! 不潔です!」
「きっぱりと誤解だから!」
だがラファエラは、アルバトールの悲鳴じみた説明を聞く耳持たず走り去っていく。
「……エルザ司祭」
「はい」
「これから毎朝、バザーに付き合って頂きます」
「早起きは苦手なのですが」
「付き合って頂きます」
「はい」
そして最初の噂の誤解はとけたものの、今度はアルバトールが新たにエルザ司祭を口説いているとの噂がフォルセールの街に流れたのだった。




