第161話 黒の汚染
黒い布地に白い染みが浮かび上がり、白い布地に黒い染みが滲んでいく。
次元の切れ目に飛び込んだ二人の周囲をあえて例えるなら、誰もがそう説明するであろう光景が視界を満たし、そしていきなり眩しい光が目を貫いた時、アルバトールとベルトラムは物質界へと戻っていた。
「なんだこれは!?」
しかし目の前に広がった景色の惨状にアルバトールは叫び、慌てて周囲を見渡す。
なぜならあれほどルーが大事に守っていた神殿が原形を留めないほどに破壊され、聖域である森の向こうから轟音が響き、激しい光があがっていたからだった。
「一体何が起こったんだ? 何が起こってるんだ!?」
答えが返ってこないことが判っていても、そう叫ばずにはいられない。
「アスタロトが来た、アスタロトが来る、それだけよ」
だが意外にも答えはすぐに返って来ていた。
覚悟を決めたとしか表現しようがない顔をしたガビーから。
「おそらくあの森の向こうで戦っているのは、アガートラームとヴァハね。助けに行くわよアルバ。手遅れにならないうちにね」
「アガートラームとヴァハが?」
アスタロトが先ほど死んだと言った二人の名前を聞き、アルバトールは不審がる。
よってそれについて尋ねようとしたのだが、彼が見た時ガビーは下を向いており、それから震える声で、だが誰もが聞き取れる明瞭な声ではっきりと言いきった。
「ダークマターに取り込まれないうちに……二人を殺さないと」
ガビーが言ったその内容に、アルバトールの思考は止まった。
「説明を……説明してくれガビー! どう言うことなんだ! なぜアスタロトに殺されたはずのアガートラームとヴァハが生きていて、戦っているんだ!?」
ガビーはアルバトールを潤んだ瞳で見つめ、ベルトラムに少しだけ視線を向ける。
「……行きますよモリガン、バヤール」
ベルトラムとモリガン、そしてバヤールが炎上している森の方向へ向かい、それを見届けるとガビーはゆっくりとアルバトールの顔を見上げた。
「アスタロトは暗黒魔術、ダークマターの使い手として最高峰の存在。アンデッドを作るのは朝飯前で、それは神も例外じゃないの。もちろん時間はかかるし、アンデッドと言うよりは全く別の存在になると言った方が正しいけどね」
「別の存在?」
「あたしたち天使や人間たちは、ダークマターに汚された神、あるいはダークマターより生まれた超越なる存在を指してこう言うわ。魔神と」
「……!」
ガビーの口からいきなり告げられた事実に、アルバトールは動揺する。
「だから、そうなる前に……アガートラームとヴァハを……」
その反応が判っていたとでも言うように、ガビーは静かな瞳でまっすぐにアルバトールを見つめ、穏やかな声で言い含めるようにそう告げる。
しかし。
(……二人を殺す?)
アルバトールは二人との思い出、二人に対する恩義、二人を助ける為の様々な方法を一瞬にして夢想し、そして現実に戻ってゆっくりと首を振った。
「ダメだガビー。何とかして二人を助ける方法は無いのか?」
「……助けるですって?」
アルバトールの発言を聞いた途端、ガビーはその温和な顔に烈火の如き怒りを漲らせ、雷鳴の如き叫びを発した。
「そんなもんがあれば、とっくにあたしが言ってるわよ! あたしがどれだけ……どれだけ中東であいつに煮え湯を飲ませられたと……思ってるのよ! ダークマターの穢れは晴れない! 例え司祭様がこの場にいたとしても!」
ガビーはその大きな目から涙をぽろぽろと流し、形のいい唇を引き締め、いつもは緩やかに下がっている眉を吊り上げ、悔しそうにそう言った。
「そうか」
「あたしだって二人を殺したくなんてない。けどしょうがないのよ。だから……判ってちょうだいアルバ。……アルバ?」
反応が少し遅れたアルバトールの様子に、怪訝そうな顔をするガビー。
「判った」
そのガビーの戸惑いを切り捨てるかのように、即座にアルバトールは断言をした。
「二人を助ける。サポートを頼むぞガビー」
二人を助ける。
はっきりとそう言い切ったアルバトールをガビーは茫然と見つめ、そしていきなり金切り声をあげて反発する。
「あんた本気で言ってんの!? あたしが言ったことちゃんと聞いてた!?」
「大丈夫だ」
アルバトールは自信に満ちた表情で飛空術を使い、ふわりと宙に浮かびあがる。
「メタトロンがそう言っている」
風乙女たちが退き、王の道を開ける。
アリアにアデライードのことを任せると言い残し、アルバトールは凄まじい速度で爆発、炎上する森へ向かった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよアルバ! あたしにも判るようにきちんと説明を……」
「耳を」
何の説明もなく、いきなり飛び立ったアルバトールにガビーは戸惑い、真意を聞くべくただちに飛空術を使って追いつき、質問をする。
そんな彼女に対し、アルバトールが口にした内容は簡潔な物だった。
「……判ったわ。失敗したらただじゃおかないからね!」
そして二人は高度を下げ、奇襲をかけるべく森の中を飛んで行った。
[あらら行っちゃった。あんなに美味しそう……じゃなかった、か弱い二人をおいてレレレルルルルルレレロロロロリリリリリ]
飛空術で飛んでいった二人の天使を、木の影から見送ったアスタロトは、口の中で高速回転を始めた舌の感触を味わいながら、残されて心細そうにしているアデライードとアリアのほうを見て、カパッと口を開ける。
[うふふ、目の前に出された御馳走に手を出さないのは、かえって失礼ってものだよねー。さって、いっただっきまー……あわわわわっ!?]
「外したか」
[え、さっき向こうに飛んで行ったのに何でここに居るの? アルバ君]
「戻って来たから」
気配を消し、背後からアスタロトへ炎の剣の一撃を食らわせようとしたアルバトールは、そのマントしか切り裂けなかったことを残念がる。
しかし彼の後に続いて姿を現したガビーが、アデライードとアリアの下へ飛んでいくのを見ると、彼は不敵な笑みを顔に浮かべて炎の剣をアスタロトへと向けた。
「さて、アデライードとアリアはガビーが連れて行ってくれたし、今度はもう少し本気を出して切り付けるとするか……ああ、それと堕天使風情が気軽に人の名前を君付けで呼ばないでくれ。吐き気がする」
首を傾げるアスタロトへ、アルバトールが不快さを隠そうともしない口調で警告を飛ばした後。
[じゃあアルバたん]
「百回殺す」
アルバトールとアスタロトの戦いは始まった。
[それにしてもさー、あっちで戦ってる人たちのことは気にならないの? アルバたん]
「気になるけど、君の方がもっと気になる」
[ボクの方が気になる、と……]
その呟きを残してアスタロトが後方に飛びのくと、一瞬にして無数の剣閃がその場に煌き、その剣圧によって暴風が産まれ、森をなぎ倒していく。
[ルーの聖域が台無しだね。後で怒られるんじゃない?]
「と言うことは、ルーは生きているのか?」
[向こうで戦ってるんじゃないかな? 君のお仲間たちと]
それを聞いたアルバトールは、戦いの音が聞こえる方角へ視線を向ける。
と同時に、森の木々をなぎ倒しながら赤い色の光が自分の方へ向かってくるのを見たアルバトールは、慌ててそれを避けた。
(あれは……なんでこんな所に女子供の集団が!?)
だが避けた光が向かう先に、大勢の人がいるのを見た彼は、慌ててレペテ・エルスを発動させて赤い光を打ち消し、背後のアスタロトを睨み付ける。
「……今のはストーンヘンジか」
その背中に、アスタロトの爪によるものと思われる傷を負って。
[十中八九、間違いないだろうね。さて、どうする? お仲間を助けに行きたいかもしれないけど、簡単には行かせないよ……んん~ん、固まりかけた血の舌触りが堪らないっ! ゼリーのようにプルプルと舌の上で踊り、ねっとりと舌全体に絡みつくよ……]
両手の指を短剣ほどの長さに伸ばしたアスタロトが、先端に着いた血を舐めとり、至福の表情になる。
「面白くないな。僕としては、君が血を舐めた途端に地面をのたうち回るってオチを期待していたんだけど。堕天使は天使の血が毒になったりはしないのかい?」
[うん。もっとベロベロズルリずろちょちょちょ、っていかせてくれないかな]
「……」
口の中から舌を出し、まるで予測のつかない動きで唇を舐め始めたアスタロトを見たアルバトールは、場に澱んだ嫌な空気を吹き飛ばすように剣を一閃する。
「あまり遊んでもいられない。君を速やかに排除する為に、わざとアデライードとアリアを二人きりにして誘い出したんだからね」
[確かにね。二人きりで取り残されたか弱い女性たちを見た途端に、思わず人質にせずにはいられなくなってたよ。僕の性癖に付け込むとは何て卑怯なんだ]
「君の性癖は知らなかったけど、そこは我慢してもらおうか。君の邪魔が入らないように、先に叩きつぶさないといけなかったからね。さて、あまり長引かせるとルーたちがダークマターに汚染されきってしまう。そうなる前に禊祓を済ませないと」
[みそぎはらえ? 何それ]
アルバトールは眼に見えぬ速さで炎の剣を振り下ろし、笑みを浮かべた。
「神域の内に踏み込みし存在の御業、らしいよ」
言うと同時に周囲の木々に代わり、周囲にフラム・フォレが姿を見せる。
物質界で発動したそれは、精神界で発動させたものと比較しても何らその勢いを減じることなく、そればかりか発動と同時に、フラム・フォイユとフラム・ブランシュを付随させたその姿は、まるで巨大なコマにも見えた。
「なるほど、確かに物質界だと精霊魔術は扱いやすいけど威力は落ちるな。これは早くルーを元に戻して、精神界に連れて行ってくれた礼を言わなければね」
ティル・ナ・ノーグに行く前と比べ、大幅にその力を増大させたフラム・フォレを背負い、炎の剣先をアスタロトへ真っ直ぐ向け。
「やってくれ、フラム・フォイユ」
無数の炎の葉を連れ、アルバトールはアスタロトへと駆け寄って行った。




