第2ー1話 降り立つ者
少々長いので、二つに分けてみました。
「危ない!」
アルバトールは声を上げ、いきなり湧いて出た魔物からエルザを守るために剣を抜いて踊りかかる。
その動きは素早く、常人の及ぶところではなかったが、魔物は人の及ぶ範囲に生きる生物ではない。
アルバトールの剣が届く前に魔物は不定形な体の一部を尖らせ、目にも止まらぬ速さでエルザの顔をめがけて突き出していた。
一瞬の間に行われた魔物の攻撃は、精神魔術で身体を強化しており、更には少し離れて見ているアルバトールの目にすら、かろうじて捉えられるかどうかといった速さ。
「お粗末ですわね」
しかし狙いを誤ったか、それともエルザの言葉が示す通りエルザ自身が避けたのか、幸いにも魔物の放った一撃は、エルザのフードを跳ね飛ばすだけに留まる。
しかし髪を留めていた木の髪飾りだけはそうもいかなかったのか、エルザの背後には一瞬のうちに豊かな金髪が拡がり、まるで太陽のように光り輝くそれを見た魔物は、何らかの恐怖を覚えたのか距離をとっていた。
その隙を見逃さず魔物とエルザとの間に割って入ったアルバトールの背後から、エルザののんきな感想が発せられる。
「あらあら、若い殿方には目の毒ですわね」
「言ってる場合ですか! 早く隠してください!」
正確には割って入らざるを得なかったのだ。
なぜかと問われれば、そこには左肩の部分の衣服が大きく破れたエルザの半裸があったのだから。
「二人きりなのですからいいではありませんか。今さら私の裸を見て、恥ずかしがるような仲でもないでしょう」
「それとこれとは別です!」
アルバトールが幼児の頃から世話になっていたエルザは、親のような存在と言ってよく、それ故に異性として見たことは無かったが、外部から二人を見た場合は別である。
「あら、下着の紐がずれてしまいましたわ」
「年代物の証拠では。どちらがとは言いませんが」
「そのように突き放すようなことを真っ赤な顔で言わなくても」
「魔物に集中したいのです!」
言わないでいいことも言ってしまう二人は、はたから見れば気心が知れた仲、要はすでに男女の仲も越えた家族のようなものであった。
「それはそうとアルバトール様」
アルバトールの抗議もむなしく、なおも心に決めた女性はいるのか、夜遊びはしているようだがその先に進む勇気は無いのかなど、余計なことしか言わないエルザを無視してアルバトールは動かない魔物を注視する。
(どちらからも逃げる事は難しい。むしろエルザ司祭から逃げることが不可能だ。もうこの人に魔物を押し付けて村に連絡に走りたいが、そうすると僕の今後の人生が闇に包まれてしまうことになりかねない)
不老不死にして至高と称されるフォルセール教会の司祭エルザ。
この国はおろか、大陸中を探しても比肩する力の持ち主はいないと称され、さらに長年を教会組織への忠誠に捧げ続けた彼女の功績は、中央教会を統べる教皇すら遥かに凌駕する。
色々な要素と本人の固辞によって一地方の司祭職におさまってはいるが、その発言は国王すら無視できないものであった。
(まぁ仕事が増えるのが面倒だからフォルセール教会に留まっているだけだろうけどね。面倒ついでにダメ元で頼んでみるか)
「エルザ司祭、あの魔物を始末するフォローをお願いしたいのですが」
「イヤですわ」
「そうですか。では僕は村に上級魔物が出たと報告に行くのであの魔物の討伐を……」
「ダメですわ」
ダメであってイヤらしい。
予想はしていたものの、あまりと言えばあまりな答えにアルバトールの気が抜けた一瞬の隙を突くかのように、魔物の攻撃が眼前を抜けた。
「うひぇ?」
続けて迫ってきた連撃にアルバトールはよろめくも、その後に迫ってきた嵐のような激しい攻撃は何とか剣と盾で防ぎ、少し離れた場所で困ったように顔に手を当てるエルザを睨み付けた。
「仕事をして下さいエルザ司祭! 上級魔物の出没は天魔大戦の兆候かも知れないのですよ! 何を差し置いても報告に戻らねば……」
「大丈夫ですわ」
エルザの言葉には盤石の重みがあった。
いつもの言動がどうであれ、魔物に襲われているなどの危険な状況における彼女の言葉には、何を差し置いても信用できる重みがあるのだ。
「私には何が何やらさっぱり分かりませんが、その魔物は徐々に力を失ってきております。この程度であればきっと貴方一人で倒せるでしょう」
今のような悪戯好きの小悪魔のような笑顔を浮かべていなければ。
「しかし上級魔物を僕一人で倒すなど……!」
「だからこそその勝利に価値が出てくるのです。倒せて当然の相手を倒して誇るなど、騎士としてあるまじき行為ですわ」
「誇りで食っていけるほど我がフォルセール領は豊かではありません!」
確かに魔物の攻撃は鈍くなっているが、先ほどの見事な戦術を見る限りでは、こちらの油断を誘う演技であるかもしれない。
アルバトールは魔物が伸ばしてきた身体の一部を切り捨て、本体に斬りかかろうとするも、激しい魔物の抵抗にあって逆に足を軽く切り裂かれてしまう。
「今は癒しましょう。ですがこの先、私がいつも貴方のそばに居るとは限りません」
「その時はその場にいる仲間と力を合わせて……!」
「つい先ほどまで貴方は孤立していました。それでも力を合わせると?」
アルバトールは言葉に詰まる。
確かにいつも仲間がそばにいるとは限らない。
自分の限界がどこにあるかは分からないが、エルザが勧める通り魔物と戦ってみるべきか。
せめて伝説に在る、天魔大戦の時に現れるという天使のような力が自分に在れば。
「いや……運を天に任せるのではなく、自分の力を信じる……! 行くぞ魔物よ!」
そうアルバトールが叫んだ時、エルザが何かに気付いたように間の抜けた声をあげた。
「あら」
思わずアルバトールが苦情の声をあげようとエルザを見た時、プレッシャーから解放された魔物の攻撃が、再びエルザへと向かう。
「何でこんな時にまで貴女は!」
アルバトールは我を忘れ、防御を忘れて飛び込む。
守る対象であるエルザの強さを忘れ、ただ目の前で命の危険にさらされている女性を助けるために。
「アルバトール卿!?」
いつぶりだっただろうか。
それとも初めて聞く狼狽であっただろうか。
今までに無いほどに慌てるエルザの声が、今更のようにアルバトールの耳に入ってくる。
「アルバトール卿! 気をしっかり!」
だがアルバトールは安心していた。
単なる怪我ならエルザが回復してくれるのだから。
そう思ったアルバトールは急速に意識が暗転するのを感じ、全身の感覚が無くなり、やがてその目を閉じた。
(大丈夫ですよ……いつものように落ち着き払った声で、問題など何も無いのだと安心させてくださいエルザ司祭……)
次にアルバトールが目を覚ました時、視界に入ったのは青空とエルザの顔だった。
この体勢から察するに、やはり自分が気絶した後に回復をしてくれていたのだろう。
アルバトールがエルザを見上げる形になっていたのは、彼女が膝枕をしてくれていたからであり、森の木々の代わりに青空が見えるのは、先ほど魔物がいた場所を離れたからに違いない。
決して彼女が森ごと魔物を吹き飛ばしたのではない、とアルバトールは硬く信じ込むことにした。
「あら、お気づきになりまして?」
アルバトールが目を覚ましたことに気付いたのか、エルザはそう言うと聖女に相応しい穏やかな微笑みを浮かべる。
アルバトールは、幼い頃からその穏やかな笑顔を見ていると不思議と落ち着くのだが、今はそれに身をゆだねている場合では無かった。
「先ほどの魔物は……?」
「それが、アルバトール卿が敵に倒された後に」
(明らかに人災……まぁ法術の使い手であるエルザ司祭が無事だったらいいか。負傷者がいれば治してくれるだろうし)
先ほど自分一人で魔物に立ち向かおうとした決意は消え、他力本願そのものの慰めをアルバトールがした時、エルザが重大な報告をする。
「エンツォ様が、魔物の中から飛び出してきましたの」
「本当ですか! 良かった……」
アルバトールが安心すると同時に、死角から野太い声が発せられる。
「おお! お気づきになられましたか! しかしワシの身を、自分の身より案じてくれるとは、成長されましたな若様!」
「世辞はいりませんよエンツォ殿。それに今の僕は騎士団の単なる同僚ですし、アルバトールと呼んでください」
アルバトールはそう言うと、思うように動かない身体に心の中で文句を言うと、古傷だらけのエンツォを見上げる。
野生の熊を連想させる巨漢、エンツォは白髪の混じった黒髪の頭をかき、日に焼けた上体をのけ反らせると、世辞ではないと否定をした。
「しかしエンツォ殿、魔物から出てきたというのは?」
「実は先ほどエルザ司祭が……ええと、花摘みですな。そう誤魔化して我らから離れた時に魔物に襲われましての」
「なるほど」
つまり魔物はエルザが離れるのを待っていたということである。
人の言葉を理解し、機をうかがう、それらの事実は倒された魔物が上級であることを指し示していた。
重大な事実が判明したその間にも、エンツォは表情を豊かに変えながら説明を続けていた。
「何しろ警戒していたにも関わらず不意打ちを喰らったもので、ワシを含めた全員があっさりと飲み込まれてしまいましてな。まぁこうして全員が無事だったわけですがの! ハッハハ!」
エンツォはその巨体を勢いよく地面に落とし、あぐらをかいてざっくりとした説明をする。
その様子は酒に酔って転んでしまったというような笑い話に感じられるもので、それは豪放なエンツォの人柄もあるだろうが、何よりアルバトールがエンツォに寄せている、何が起こっても何とかしてくれるという信頼感の表れでもあった。
「泥の中は温かく、なにやら女性と……あ、いやいや何でもございませんぞエルザ司祭。ええとですな、特に危険も感じなかったのですが、若様と別行動になったままというのも問題でしたので、少し抵抗を試みたらあっさりとここに出ましての」
男性の不埒を更生させる女性の笑顔の元に、エンツォは説明というよりは余談の内容を変更した。
「魔物はしばらく足掻いておりましたが、最後は地面に吸い込まれるようにして、消滅してしまったというわけです」
「他の者たちは今どこに居るのです? それにエレーヌ小隊長の姿も無いようですが」
周囲に自分を含めた三人以外の人影はない。
アルバトールは嫌な予感を胸に抱くが、エンツォの返事はその不安を吹き飛ばす心地良いものだった。
「他の者達は少し呆けてはおりましたが、エルザ司祭の法術で正気になっので先に村に帰らせております。エレーヌは水を汲んでくると」
それを聞いたアルバトールは胸を撫で下ろした。
任務に殉職は付き物とは言え、新米騎士や騎士見習いである彼らはまだ若く、その未来は無限の可能性に満ちているのだから。
「主のお導きに感謝を」
「……法術をかけたのは、私なのですが」
「してますしてます。皆が助かったのはエルザ司祭のおかげですよ」
天に祈りをささげた後、そう言ってふくれてしまったエルザの不満げな声を聞いたアルバトールは、思い出したように感謝の言葉を述べた。
「主はいつでも、貴方たちを見守っていらっしゃいますわ」
エルザがすぐに機嫌を直し、優し気に微笑んでアルバトールにそう答えると、次に表情を引き締めたエンツォがアルバトールに顔を寄せた。
「皆を先に村に返したのは、案件が済んだ後の休息、と言う意味もございますが、主な目的は人払いでございます。エルザ司祭から内密の話があると聞きました故に」
それを聞いたアルバトールは姿勢を正そうとするも、体が動かない。
仕方なくエルザに回復術を施すよう頼んだが、エルザは困った表情になると首を振った。
「そもそも生きとし生けるものには、軽い傷であれば自然に治癒する能力を主はお与えになっております」
エルザは真面目な顔になり、そして胸に手を当てて話を続ける。
「先ほど魔物に呑み込まれた兵たちのように精神的に衰弱し、供物となった状態などすぐに回復する必要があるなら別ですが、本来であれば法術の力で強制的に回復すると言う事は、自然の摂理に反することなのです」
「……確かにその通りです」
精神的に衰弱した者たちの感情は魔物の好物の一つであり、さらには絶望した状態で人間が死んでしまった場合、その魂は魔物へと転生すると言われている。
回復するのもやむなし、とエルザが考えたのも無理は無かった。
皆のついでに、と甘い考えをした自分をアルバトールは戒めると、エンツォを近くに呼び、内密の話とやらをしようとした矢先。
「おやおや? エルザ司祭、何をしておいでかな?」
「あらあら、お帰りなさいませエレーヌ様。水は確保できたのですか?」
水を汲みに行っていたエレーヌが姿を現し、アルバトールに膝枕をしたままのエルザと、何故か火花を散らし始めたのだった。