第160話 その下に潜む闇
聖天術レペテ・エルスの発動により、光の向こうに姿を消すルー。
だが同時に、それを放ったアルバトールは苦悶の表情となり、激痛に耐えかねて絶叫をあげ始めていた。
(こ、れ……が……! メタトロンがアーカイブで説明していたことか!)
アルバトールは歯を食いしばって痛みに耐えようとするが、しかしその食いしばった歯の根元からも更に神経をでたらめに切り刻むような痛みが加わり、放心して膝をつけば、そこからも激痛が全身を駆け抜ける戦列に加わる。
全身を襲う痛みが、何か行動を起こすたびに増えていく。
そんな状況に陥ったアルバトールは、遂に指一本すら動かすことの出来ぬ恐怖に身体の自由を奪われ、地面に倒れて動けなくなり、そして今までの思い出と共に、先ほどメタトロンから得た情報が頭の中を流れていった。
(なぜ聖天術を魔族以外に撃ってはいけないか、なぜ聖天術を撃った後に主に感謝の祈りを捧げねばならないか。レペテ・エルスを教える前に、この二つの理由だけは君に伝えておかなければならん)
アルバトールの頭の中で、巨大な二つの赤い瞳というイメージに変じられたメタトロンがゆっくりと語る。
(聖天術は神気そのものだ。よって撃ち込まれた者の痛みや嘆きはおろか、撃った者の相手を倒す罪悪感、狂気などの負の感情が、天使の羽根を通って主の元へと流れ込み、大幅な負担をお任せすることになる。聖天術を魔族に限定するのは、魔族がそれ以上の痛み、嘆きを産む存在であり、撃つ側の罪悪感なども大幅に軽減されるからだ)
地面に触れた身体全体が悲鳴をあげ、だがその悲鳴に耐える力も既に使ってしまったアルバトールは、全身の細胞が乾き、剥がれていくのを感じた。
(よって天に神気を返還せずに敵に叩きつけると、それらの痛みを術者本人が背負うこととなる。それはアポカリプスとて例外ではない。聖天術を使った後、主に感謝の祈りを捧げないと堕天するのは、痛みを引き受けて下さる主に恐れ多いからなのだよ)
何かにすがるように、掴もうとしたように伸ばした手の爪が目の前で割れ、そこに滲んだ血も灰となって飛んでいく。
(と言うわけで、レペテ・エルスは天使から神へと進む者にとって、第一歩とも言える術だ。なに、死んだ方がマシと思うような激痛を経験することとなるだろうが、光の衣を少しでも学んだ今であれば、なんとか耐えることが出来るだろう)
そこまで思い出すと、アルバトールは口から光り輝くモヤをゆっくりと吹きだした。
(まったく、軽く言ってくれたな……メタトロン)
そしてモヤがアルバトールの全身を包むと同時に、その一部が彼から抜け落ち、天に連れ去られようとしていた生命へと飛んで行って囲い込み、元へ戻って浸透する。
(死んだ方がマシとは言うものの、死んだことが無い者にその例えは不適切だろう)
しかしそれらの作業は遅々として進まず、とうとうアルバトールの目の前の景色がかすれてきた時。
「戦いは、無事に帰還するまで終わりではない。よく覚えておくのだなアルバトール」
「その声は!?」
頭上から聞き覚えのある声が掛けられると共に、アルバトールの全身を包んでいた痛みは見る見るうちに消えていき、力が入らなかった四肢にも力が戻った彼は、慌てて地面から起き上がり、その声の持ち主のほうへ顔を上げた。
「生きていたのか……ルー」
「生き延びることが出来ると判っていたからこそ、君を信用すると言ったのだ。もし死んでしまえば、私が君を信用しようがしまいがどうでもいいことだろう? 思ったより危なかったのは事実だが、何とか空間を渡り歩いて避けることが出来た」
「なるほど」
髪や顔の一部を黒い煤で覆われながらも、ルーは元気そうにフラガラッハをアルバトールの首筋にあてており、得意満面と言った表情をしながら、この勝負、最後まで立っていた私の勝ちだな、と子供のように喜んでみせたのだった。
(……やれやれ)
部屋へ向かうと言ったルーから更なる回復をしてもらった後、アルバトールはティル・ナ・ノーグの地面に寝転び、黄色い空を見上げていた。
(こんな風に寝ころんだままのんびり空を見上げるのは、いつの日以来だろう)
観客席の最上段にある部屋から、まるでこの世の終わりが来たようなルーの悲鳴を聞きながら、アルバトールは眼を閉じてぼんやりと考える。
(そうか、初めてエルザ司祭と修行をして、膝枕をしてもらったあの時以来……)
何やらバアル=ゼブルを罵倒しているらしいルーの声を聴きながら、アルバトールはこの上ない達成感に身を包み、先ほどアデライードとアリアの身に危険を及ぼした、精神界の風に身を任せた。
「おくつろぎのところ失礼いたします。アルバ様、体の方は大丈夫でございますか」
「うん。一時は死ぬかと思ったけど、何とか生き延びることが出来たよ。それにしても先ほどからルーが花瓶がどうのこうのと騒いでいるけど、何かあったのかい?」
そこに不意に掛けられたベルトラムの声に、アルバトールはゆっくりと眼を開け、幼い頃より馴染んだ顔に向けて微笑んで返事とする。
「はい。我々が到着する前より色々とあったようです」
主人の無事を確認したベルトラムは、安堵の溜息をゆっくりとつこうとしたのだが、そこに先ほどのアルバトールの質問を聞いてしまい、その場で苦笑を始めてしまう。
それを見たアルバトールもなぜかおかしくなり、笑い始め、その笑い声は徐々に大きくなり、部屋から聞こえてくる騒ぎも段々と大きいものになっていったのだった。
「どうやら愚息が世話になったようだ。アルバトールよ」
「いや、僕は何も……」
そこまで言いかけたアルバトールは、ベルトラム、ガビー、そしてモリガンまでもこの場に揃っているのに、クー・フーリンの姿が見えないことに気付く。
そしてその誰かを探すようなアルバトールの視線を見たルーは、その作業を中断させるかのように物質界へ戻ることを提案した。
「それでは戻るか。アスタロトに報告しなければいけないからな。君を弱らせることには成功したと」
生返事をするアルバトールを見たルーは、少し寂し気な顔を作って空間に手を差し込み、そのまま縦に切り裂いた。
そのように見えた瞬間に、異変は起こったのだ。
「みな伏せよ!」
なぜだ?
アルバトールがそう思った時には、ルーは彼の前に立ちはだかっていた。
[報告はしなくてもいいよ、ルー。どちらにしろ、報告すら出来ない体になってしまったかもしれないけどね]
闘技場の地面の下から声が響くと同時に、何も起きていないように見えたルーの身体のあちこちが徐々に黒く染まっていき、それに伴って苦しそうに胸を抑え始める。
[凝縮し、髪の毛より細くしたダークマターのお味はどうかな? 天使を弱らせてくれたことには感謝するけど、勝手に回復されちゃあ困るんだよねぇ]
「なぜ貴様がここに居る……アスタロト!」
憎々し気に告げるルーの目の前の地面が青白く光り、さざ波が立ち。
[居ないと思ってたのかい? そりゃあまりにもボクを見くびり過ぎだよ、ルー。あ、そうそう、向こうに残ってたアガートラームとヴァハは何故か死んじゃったよ。ダグザは何とか逃げおおせたみたいだけど、長くはもたないかもね]
そこから全身を光る小片に包まれた、一見して男に見えながらもその実は女性であるアスタロトが姿を見せ、人を食った笑顔でルーを見下ろしていた。
「モリガン! 全員を連れて逃げろ!」
ただならぬ口調で発されたルーの命令を聞き、慌ててモリガンはアデライードとアリアの腕を掴むと、時空の切れ目に飛び込んでいく。
間を開けずにガビーが飛び込み、ベルトラムもそれに続こうとするが、しかしアルバトールが炎の剣を抜いてアスタロトへ立ち向かおうとしたのを見た彼は、時空の切れ目に飛び込まずにその場に留まり、急いで逃げるように主人に告げた。
「馬鹿を言うな! こんな状態のルーを置いて逃げることが出来るはずが無い!」
当たり前のように言い放つアルバトール。
それを見たベルトラムが歯噛みをし、叱りつけようとした瞬間、胸を抑えて苦しんでいたルーが叫びを上げた。
「早く逃げろ! 消耗しきった今の我らでは、アスタロトとバアル=ゼブルの二人を相手にして勝ち目はない! お前が逃げるのが遅れれば遅れるほど、私は逃げられずに危険な橋を渡る羽目になるのだぞ!」
「僕が……」
残ると言おうとして、アルバトールは言葉に詰まる。
今の彼に、次元の壁を切り裂いて移動する術は無い。
もちろん閉じる術も。
「今から逃げる! アスタロト! 物質界で待っているぞ!」
ようやく二人が飛び込み、後に残ったルーによって次元の切れ目は閉じられる。
「……達者でな」
聞きたくもない暗喩をわざわざアルバトールの耳に残した、ルーの声と共に。
[じゃあ君にも死んでもらおうかな。君をここに縛り付けて、怨嗟を美味しくいただいてもいいんだけど、流石にさっきの力を見た後だとそう遊んでもいられない]
「千手」
自らが発した挑発にルーが構う様子を見せず、無数の腕を召喚させて周囲へ展開を始めると、それを見たアスタロトは妖艶な笑みを浮かべながらルーに話しかけた。
[その千手って術さ、本当はストーンヘンジ召喚に必要な手順の一つだよね]
ルーの顔がこわばり、その瞳が揺れる。
[巨大な石門の召喚に必要な、巨大な次元の裂け目を多数の腕で作り、余った腕たちは相手の周囲に散開させて、石門が来るまで敵の注意力をひきつけるって処かな?]
動揺するルーの表情を見て、アスタロトはにんまりと笑うと、マントをはためかせて精神世界の風――大氣を全身に集めていく。
[あのストーンヘンジをまともに喰らっては、このボクでも無事に済むかどうか判らない。先ほど天使に撃った時は手加減していたようだけどね。と言うわけで、悪いけど石門が来る前にいかせてもらうよ]
そう告げると、アスタロトはマントの端を優雅に両手で掴み、それをコウモリの羽根のように、ゆっくりと広げていく。
「……! 千手が役を果たさぬだと!? 馬鹿な! 動け! なぜ動かん!」
[ごめーん、もうそいつら腐らせちゃったよ。ばいばいルー]
ルーの身体の黒点が範囲を広げ、それに力を奪われたようにルーは膝を屈する。
「まだ……だ! 私はまだ死んでは……」
[それ、単に君の身体をダークマターで蝕んでるだけじゃないんだよね。その術はあくまで呼び水、撒き餌ってところさ。さ、愛しいボクのドラゴンメイドさん、目の前のエサをゆっくり飲み込んでおくれ]
そしてアスタロトが羽織ったマントの内が闇に染まり、支えるアスタロトの色白の腕が異様に映えて見え始めたかと思うと、腕の皮膚の下に何かがうごめき始める。
[メリュジーヌ]
その言葉と同時に、アスタロトのマントには赤く滴る眼球が生まれ、その下には白い光が浮かび上がり――
闘技場の中が、闇に包まれた。
[はいおしまい。……あ、それはペッしなさい、ペッ]
一人その場に残ったアスタロトが、何やら焦った様子でマントにそう言うと、内側に張り付いた闇から銀の腕に握られたフラガラッハが吐き出される。
[やれやれ、湿っぽいお別れの言葉も苦手だけど、この後に戦う者の為になにか足掛かりになるものを残すってやり方も好きじゃないんだよね。やるなら正々堂々、自分の力だけでやらないと]
アスタロトは額にかかった髪を右手で撫で上げながらそう言うと、地面に潜り込もうとする。
だが途中で何か考えを変えたのだろうか。
彼女は落ちていたフラガラッハに手を伸ばしてそれを握りしめ、再び地面に潜り込んでいったのだった。