第157話 我が御魂ここに在らん
「アデライード様!」
アリアの悲痛な叫びが、精神界の大氣に飲まれ崩れ去る。
つい先ほどまで、あれほど気高く、美しい姿でアルバトールに呼び掛けていたアデライードは、憔悴し、地に膝をつき、それでも彼女の声を聞いて立ち上がろうとするアルバトールの姿を見届けようと、歯を食いしばって前を見つめていた。
「騒いでは……いけません。アルバトール様の戦いの妨げになり……ま……」
だがその気丈な、力強い口調とは裏腹に、可憐で華奢な体はアデライードの意志を裏切るようにその意識を閉じる。
「しっかりして下さい! すぐに部屋に戻ります! それまで少しの御辛抱を!」
アリアはアデライードの肩をかつぎ、握った瞬間にハッとしてしまう程に細い手首を握りしめ、バアル=ゼブルが作り出した"館"へ戻ろうと試みる。
だが――
(体が重い……アデライード様が攫われた時に自分の無力を思い知り、今度こそ少しでもお役に立とうと考え、あれほど血の滲むような努力を重ねて鍛錬したのに)
体から力が抜ける。
精神界の風はアリアの体から体温を奪うこと無く、生命力そのものを貪欲に、そしてこの上なく優しく吸い取って行く。
(アデライード様……にも……力を……お渡しして……)
そう思った途端アリアは階段につまづき、しかしアデライードを庇うために受け身をとらなかったアリアは、したたかに膝と額を打ってその痛みに顔をしかめた。
(どうして、この程度の段差が、乗り越え、られ、ない、の……)
転んで眼鏡が落ちたことにより露わになった目に、アリアは転倒したことによる身体の痛みではなく、自分の無力を嘆いて涙を溜める。
その時アリアが躓いた衝撃で意識を取り戻したのか、気を失っていたはずのアデライードが呻き声を上げ、それに気づいたアリアは再び気を取り直し、顔を上げ、再びじわじわと進み始める。
「アリ……ア……私をここに置いて……いって……。貴女だけ……でも……」
「ダメです。私にアデライード様のつらい顔と、つらい思い出だけをお残しになるおつもりで御座いますか? 私にどんな顔と、どんな説明を、アルバ様にさせるおつもりで御座いますか?」
弱音を吐くアデライードを見たアリアは気力を振り絞り、アデライードを安心させるために微笑み、明るい口調で、淀みなく話しかけた。
「二人で戻るんです。大丈夫、部屋のドアはもうすぐ、すぐそこで御座いますよ、アデライード様」
すぐそこに見える扉。
――常であれば、数秒で辿りつける距離にある扉――
アリアはアデライードを支えるために歯を食いしばり、痛む膝と、目に入ってくる額の血を煩わしく感じつつも、前にそびえ立つ階段を乗り越えるために必死に足掻く。
(後、少し……大丈夫、きっと進んでいる。近づいている。目に映る景色は変わらなくても、少しずつ前に、私たちは進んで……)
アリアは再び躓いた。
不思議と痛みは無く、アデライードも彼女がクッションとなったのか、それとも別の理由によってか、その顔は安らかなものだった。
(後、少し……)
伸ばした手が力尽き、地に落ちる。
風乙女の囁きにも似た風の音を子守歌としながら、とうとうアリアはその目を閉じてしまっていた。
「今までよく耐え抜いてくれた、アリアよ。トール家執事、ベルトラムの出迎えにより館の中へ」
そのように聞こえる歌の内容に、深い安堵を覚えながら……。
「……ご教授願いたい、だと? そのようなことをしている場合か! 早くあの二人を助けねば本当に死んでしまうぞ!」
ルーは焦りを隠さずにそう言うと、気力だけで何とか立っていると言った様子のアルバトールへフラガラッハの剣先を向けた。
「そこを退くのだ! さもなければ……」
「……メタトロンの眼は世界の奈辺を見通し、余人の考えを見抜く」
その返答を聞き、ルーは全身を震わせた。
「絶対に二人は助かる。だから僕は貴方に戦いを挑む」
「何を言っている! 誰かが助けに行かねば手遅れになるぞ!」
「既に来ている」
理解できないと言うようにルーは溜息をつき、憐みの視線をアルバトールへ向けた。
「残念だが、ここは我らが本拠地ティル・ナ・ノーグ。あの者たちを助けるために、君の仲間が来ることはない……それにもうこれだけ時が過ぎてしまえば、今から助けに行っても間に合わないだろう」
ルーはそう言うと、せめてアデライードとアリアの最後の姿だけでもその目に入れようとアルバトールから目を背ける。
「あの者たちは……誰だ!? なぜこのティル・ナ・ノーグに部外者が立ち入っている!」
しかし目に入ってきた信じられない光景に、ルーは驚愕して眼を見開き、思わず叫びを上げてしまった彼に天から一つのいななきが浴びせられ。
「それは私がお二人をお招きしたからです」
それに反応して上を向いたルーに、一つの神々しい声が答える。
そこには涼し気な笑顔のモリガン、そして全身を赤い光に包まれたバヤールが浮かんでいた。
「久しぶりですねルー。そしてアルバトール。少々遅くなりましたが、許していただけますか?」
上空に浮かぶ彼女たちは、その背後で館――部屋の扉が開いたのを振り返って見届けると、ゆっくりと下へ降りてくる。
その姿を歯噛みをして睨み付けるルーへ、静かに語り掛ける者が居た。
「魂振りて、我が御魂ここに在らん。メタトロンの助力は得れど、その御魂に飲まれることなし――それでは先ほどの続きをするとしようか、ルーよ」
助成をするために降りてきたモリガンとバヤールに耳打ちをすると、アルバトールはルーに向かって微笑み、ゆっくりと術を編み始めてそう言ったのだった。
「もう大丈夫だ。歩けるか? アリア」
「ベル……兄……様……?」
いつの間にか痛みが消えた身体を見て、いや、痛みがあったことすら忘れてアリアは茫然とし、いきなり目の前に現れた銀髪の執事を見上げて慌てて頷く。
「私は意識を失われているアデライード様を担ぐ。一応お前の傷と疲労の回復はしたが、それでも動けなければ私のベルトにでも捕まるといい」
「は、はい」
見慣れているはずのベルトラムが纏う雰囲気が、フォルセールの時とはまるで違うことに違和感を覚えつつも、その背中にアリアが着いていこうとしたその時だった。
「いやああああっ!?」
「どうしたのですガビー!」
「ひ、人が……死んでる……」
ただならぬ内容の叫びを聞いたベルトラムは、すぐに部屋の入口に駆け寄る。
そして悲鳴を上げた口を押さえ、全身を震わせて部屋の中の一点を指し示すガビーの隣に立ち、彼女の視線の先を辿ると。
そこには頭から大量の血を流し、それを寝床としたバアル=ゼブルが倒れていた。
「あ」 「あ」
「む? どうしたアリア。おお、アデライード様、お気づきになられましたか」
ベルトラムに背負われた状態で気が付いたアデライードは、青ざめた顔で自分を見つめてくるアリアを、同じように血の気の引いた真っ白な顔で無言で見つめ返した。
「これってバアル=ゼブルよね……? 一体何があったのかしら……」
「待ってください!」
とりあえずバアル=ゼブルの様子を見ようと、部屋の中に入ろうとするガビーを見て思わずアリアが叫び声をあげる。
「あああ、あの! 起こさない方がいいと思いますよガビー! あの、多分その人、死ぬほど疲れてますから!」
「……いや頭から血ィ噴き出してぶっ倒れてるし、疲れてるは無いでしょ」
必死なアリアに気圧され、若干引き気味になるガビー。
それでも彼女は部屋の中に入り、バアル=ゼブルに近づこうとするが、しかし今度は常にないほどのアリアの狼狽ぶりを見たベルトラムが、何かを察したようにガビーを止めようとする。
「待ちなさいガビー。これは密室殺人事件の可能性があります。決して現場を荒らしてはいけません」
「いや普通に扉のカギ開いてたし」
見当はずれのベルトラムの言葉に頭を捻りつつも、そこでガビーは歩みを止め、気味が悪そうに床に転がったままのバアル=ゼブルを見下ろす。
「何にせよ、今はそれどころではありませんガビー。アデライード様とアリアを安全な場所まで連れてこれたのですから、今すぐアルバ様の加勢に向かわなければ……おやモリガンにバヤール、どうしたのですか?」
とりあえず急をしのいだベルトラムが部屋の外へ出ようとした時、扉の所に今まさにアルバトールを助成しているはずのモリガンとバヤールの姿を見た彼は、不思議そうな顔をして彼女たちへ問いかける。
「それが……」
「手出しは無用と我が主に言われてな。二人してすごすごとこちらに来た訳だ」
「何を言っているのですか貴方たち……貴女たちは」
二人に首を振り、話にならないとばかりにベルトラムは速足で扉の方へ向かう。
「それでは私が行きましょう」
だが部屋の出口である扉は、バヤールがその巨体を使って完全に塞いでおり、だが彼女に目もくれず押しのけてベルトラムが扉を通ろうとすると、その背中に向かって遠慮がちにモリガンが言伝をつたえた。
「アルバトールはこう言っていました。建前としては戦いを学ぶ。本音としては、父親代わりを気取っている者に、少し殴られてやらなければならないのだと」
「……」
それを聞いた全員が黙り込んだ時、外から聞こえてきた爆音に中に居る者たちの魂魄ごと部屋が大きく揺れ。
次いで二度目の爆轟とともに来た爆炎の閃光が、陽の光以上の明るさでベルトラムとガビーの呆れた顔を照らし出した。
「ルーは娘を嫁にやる父親の代理で、アルバ様は娘を奪っていく男ですか。呆れて物も言えませんね」
「あたしたち、ヘプルクロシアの危機を救いにここまで来たんじゃなかったっけ……」
溜息をつき、アルバトールの様子を見ようと窓に近づくベルトラムに、床に転がっているブツを見て若干身を引いたモリガンが、ある質問を口にする。
「ところでベルトラム、その床の男はどなたです?」
「そんなものより外の戦いの方が重要です」
[そんなモノたぁ何だ! 人が瀕死の重傷を負って動けないのをいいことに、さんざ好き勝手抜かしゃあがってテメエら! おい乳娘! 俺が姫さんの口上を大人しく聞いてる時にいきなり不意打ちたあ、ド汚ねえことを……ッ]
「あ、急に目眩が」
がしゃーん
いきなり立ち上がり、怒声を上げ、怒りのままにアリアへ詰め寄ったバアル=ゼブルの背後で、するりとベルトラムの背から降りたアデライードが急によろめき、その手に持った物凄く巨大な花瓶を勢いよく振り下ろす。
「アデライード様、大丈夫でございますか!?」
「ごめんなさいアリア、心配をかけてしまって……まだ少しふらふらするけど、何とか大丈夫そうです」
手を取り合い、互いをいたわりあいながら話す二人。
ベルトラムはその姿を見つめた後、またしても床に転がる羽目になったバアル=ゼブルの頭の上の、かつて花瓶だった物に目をやると手を合わせ(どちらにかは判らないが)、すぐに闘技場で戦う二人へと視線を移す。
「決着……ですかね」
その視線の先では、地面より無数のフラム・ラシーヌが姿を見せており、そばには鎧を破壊され、全身の至る所を赤くしたルーが肩で息をしながら立っていた。