第154話 未来に立てる誓い
「うわわわわっ!?」
ティル・ナ・ノーグ――ルーが統率するトゥアハ・デ・ダナーン族の本拠地に放り出されたアルバトールが見たのは、淡い黄色に輝く空。
そして足を支える大地を失ったという恐怖感だった。
だが彼は落ち着いて精霊に呼びかけ、様々な過程を経た後に術を行使する。
「ふう……うひいいいいっ!?」
しかし思ったより飛行術の出力が大きくなってしまった為、術の再調整に慌てて取り掛かったのだが、その努力も虚しく彼はそのまま水平方向に地面にめり込み、闘技場のような場所の壁にぶち当たって、ようやくその勢いを止めた。
「やれやれ。招待されるのは嫌いじゃないけど、突拍子もない歓待はあまり好みじゃないな、ルー神」
「それはすまないな。しかし君は急成長を遂げた為か、こちらが驚くような力を見せる時もあれば、呆れるほど無能な面を見せる時もあるな」
ルーの言葉にさほど敵意を感じなかったアルバトールは、アイギスの光に包まれながらゆっくりと身を起こす。
どうやら彼が放り出されたのは、空中と言ってもおよそ数十センチメートル程度の高さだったらしく、冷ややかな声がかけられた方を見ると、そこにはルーが両腕を組んだ優雅な姿勢でアルバトールを見下ろしていた。
(それにしても……)
アルバトールは全身を包むアイギスの膨大な光の量、そして先ほどの飛行術の効果を思い出す。
「ここは精神界の一部を占めるティル・ナ・ノーグ。安定を旨とする物質界と違い、聖霊による結界で術の効果が抑えられることは無く、また物質界より精霊界に近い故に魔術の効果は君が思うより格段に向上する。気をつけることだ」
胸の内を読まれたかのようなルーの発言に、アルバトールは内心たじろぐが、そればかりに気をとられている場合では無かった。
既にルーはフラガラッハを構え、戦う準備を整えていたのだから。
「こちらが体勢を整えるまで待ってくれるとは親切だね。親切ついでに教えてほしいのだけれど、なんでアデライード姫を攫ったんだい? 今まで色々な人や神に、様々な理由や憶測を聞かされたけど、まだ何かピンと来ないんだよね」
「君には……」
開きかけた口が途中で止まり、ルーはしばしアルバトールの背後を見つめた後、迷ったふうに口に手を当てる。
何があるのかとアルバトールが背後を振り返ってみれば、そこにはスロープ状になった場所に段々に作られた無数の観客席があり、その最上段にある部屋にはアリア、そしてアデライードがガラス窓の向こうに手を当て、こちらを心配そうに見つめていた。
「いいだろう、君と、そしてアデライードに最後の機会を与えよう」
気になる前置きをして、ルーは語り始めた。
彼の記憶に刻み付けられた一つの願いを。
「半年ほど前、私は一通の手紙を受け取った。差出人はテオドール=ヴォロンテ=アギルス。君も良く知っての通り、かつての聖テイレシア王国の公爵であり、アギルス領の領主であり、そして……アデライードの祖父だ」
アルバトールは特に驚きもしなかった。
死んだ者からの頼みをルーが聞いたとの情報は既に得ていたからだ。
残る疑問は一つ。
なぜ今それを話す必要があるのかだった。
「そこにはこう書かれてあった」
アルバトールの疑問を余所にルーは思い出していく。
その手紙を読んだ時の思いを。
その手紙に籠められた一人の男の想いを。
――いきなりこのような手紙を差し出す非礼を許してほしい、旧神ルーよ。だが、このようなことを頼めるものは国内にはおらず、国外にも信のおける者は見つからぬ。頼れるのは、信用できるのは、幾度となく私と争った君しか残っていないのだ――
アルバトールの胸に疑問が増える。
半年ほど前と言えば、まだ王都は魔族の手に落ちていない。
つまりテオドールもまだれっきとした公爵の座にあり、反逆の徒とはなっていないのだから、頼みを聞いてくれる者など引く手あまただったはずなのだ。
「率直に言う。我が孫、アデライードを守ってほしい」
だがそれを聞いた瞬間、アルバトールの頭の中で氷が割れるような音がした。
――君も知っているだろうが、遂に我が家は跡取りたる男児が育たなかった。このままでは、我が領地は遠からず断絶するだろう……いや、そんなことはどうでもいい。大事なのはアデライードが女だった、それ一つに集約されるのだ――
ルーはそこで言葉を区切り、アルバトールの眼を見つめ、再び口を開く。
――アデライードが生まれて間もなく、一人の天使が舞い降りて私に告げた。アギルスの女子のみに代々受け継がれる不思議な力を、この子は桁外れな規模で持っている。長ずれば必ずやその命を以て、聖テイレシアの危機を救う存在となるでしょう。と――
「それは……天使による予言……」
アルバトールは恐怖を覚えた。
天使による予言。
それは不確定な未来では無く、確定した予定調和の通達。
人が介在できる余地の無い、いわば過去に起きてしまった変えられない現実。
それがこれからの未来に存在すると言ったものだからだった。
――私は迷った。いや、迷うことを許されない立場と言うことは判っている。例え身内であろうと国のためであれば捧げるのが当然。それが我がアギルス家の使命だからだ。だが私は既にその昔……娘のリディアーヌも犠牲になると知らされていた――
喉の渇き、はっきりと感じられる心臓の音。
先ほどから耳障りに感じられる甲高い音は、炎の剣と鞘がぶつかる音か、それとも疑問が氷解する音か。
アルバトールはその雑音を振り払おうと頭を激しく振り乱し、目の前に立つルーの姿に集中しようとした。
――そして私は堕ちてしまったのだ。感情と理性の不調和、その隙間に生じる苦悩と言う落とし穴に――
その言葉と共に、ルーは視線を落とす。
それは自らの肉体の一部を贄としてまで、堕天使の長の力を借りてまで無理矢理に息子であるクー・フーリンを生き返らせた、自分への自戒だっただろうか。
――勿論、私は這い上がろうとした。だが、その穴をさらに掘り下げた者が居た。堕天使ジョーカー。奴はかつて私が助けたテスタ村の村民の一人を介し、私の近くに忍び寄り、そして私の苦悩に乗じて天の加護をすり抜け……私を支配した――
アルバトールは膝をついた。
痛みは無かった。
彼にはそれより先に肉体と頭脳を支配する、何よりも優先すべき感情があったのだ。
彼が感じるにはふさわしくない、いや、やはり感じて当然の感情。
それは――後悔だった。
――テスタ村の者たちを追放すれば、まだジョーカーの支配に対抗できただろう。だが私にはそれはできなかった。我らが手落ちによって平穏な日々を剥ぎ取られ、死と隣り合わせの日々を押し着せられた彼らを、どうして再び死の荒野に追いやれようか――
王都落城のいきさつを聞いた時に、一瞬でもテオドールに抱いた感情。
テオドールの裏切り、その疑念に対する後悔が、ルーの言葉の一言一言ごとにアルバトールの全身を蝕んでいった。
――このまま行けば、遠からず私はジョーカーの支配に屈して魔族を利する行動を起こし、反逆者の汚名を着て死ぬことになるだろう。よって私は求める。せめてアデライードの命だけは、テイレシアの外に在る君の庇護下に置き、助けてやってほしい――
王都陥落。
それほどの大事に至った理由、テオドール本人の考えを隠していた分厚い雲から一筋の光が差し込み、事実を次々と照らし出していく。
――いや、既にこの願いですら私の意志ではなく、ジョーカーに命じられた結果かもしれない。だから君に決めてほしいのだ。アデライードを助けるかどうかを。一人の人間の運命と一国の行く末の運命を、君一人の判断に押し付けることを承知の上で――
そしておそらくは。
いや、間違いなくルーがアデライードを誘拐し、ヘプルクロシアに連れ去った訳さえもその光は照らし、明るみに出していた――
「国内と国外を見渡したテオドールが最終的に頼ったのが、海の利権を巡って幾度となく争った私だったと言うのは、皮肉と言うべきなのか。そして私を、ルーと言う神を信用し、頼った者の願いを聞き入れた私の性格について呪うべきなのか」
手紙の内容をすべて言い終えた後、そう自嘲するルーを見てもアルバトールは歯を食いしばることしか出来なかった。
「だが、私には見捨てられなかったのだ。テオドールがテスタ村の者たちとやらを見捨てることが出来なかったように、あの娘アデライードが運命とやらにその命を食いつぶされることにな。そして私はテイレシアが陥落した後、アデライードを見守った」
ルーはそこで再び言いよどむ。
そして何かを憎むように、あるいは恐れるように再び言葉を継いだ。
「最初は何も問題は存在しないように見えた。だが、事態は急変した。君がテスタ村でメタトロンに身体を乗っ取られ、王都で再びその身がメタトロンの物となった時に」
アルバトールは、喉にいきなり冷ややかな刃を突き付けられた気分になり、数瞬の間、その喉の違和感に邪魔されるように呼吸が止まる。
一切の妥協を認めぬ、非常なる裁きの天使メタトロン。
そのような評価を下されている天使が自らの内にあることは、その存在を制御しきれていない事実は、彼にとって確かに弱みの一つだった。
「あの裁きの天使が、王都陥落の原因となったテオドールの孫アデライードを見てどのような行動をとるのか、確かめる余裕は私には無かった。私は即決し、アデライードを誘拐し、ここヘプルクロシアに連れてきたのだ。アスタロトの要請はそのついでだ」
ルーはアルバトールを見つめ、そして厳しい目と声を以て問い詰める。
「そしてアデライードは言った。祖父が頼み、そしてルー神がそう判断したのなら、その決定に従っても良いと。だがこうも彼女は言った」
ルーは眼を見開き、フラガラッハを持つ手を震わせながら言葉を放つ。
「私の意と運命は、既にフォルセールに在りと! だから私は君を試したのだ! アデライードを守れる存在か否かを!」
「……その結果は?」
悄然として尋ねるアルバトール。
それに対するルーの言葉は厳しいものだった。
「先ほどのアリアに対する君の反応が答えだ。メタトロンの眼は世界の奈辺を見通し、余人の考えを見抜く。だが君はアリアが巫女になると言った時、どんな反応をした? 更に三たび君は体を乗っ取られ、奴にアデライードを見つけられる原因となった」
アルバトールは歯噛みをし、押し黙る。
その様子を見たルーは失望を隠そうともせず、矢継ぎ早に口を開いた。
「いや、そうでなくとも表に出した言葉に騙され、身内の真意を慮ろうともしないような男に、アデライードの身の安全を任せると思うかね。君はもはやアデライードを守る騎士ではない。あの娘に危害を及ぼす厄災にしか過ぎんのだ」
ルーの言った内容を、アルバトールはもっともだと思い。
しかし、こうも思った。
「ルーよ、確かに貴方の言うことはもっともだ。反論の余地は無い。しかし! それは過去から現在に於いてのものでしか無い! なぜ未来に於いての伸びしろを期待せず、未成熟な過去のみを見るのか!」
「実績無き者の大言壮語を信じ、現在の行動を決めよと言うか? メタトロンは妥協せぬ。聖テイレシアを裏切り、魔族に加担し、王都陥落の原因となったテオドールも、娘のリディアーヌも居ない今、裁かれるのは孫のアデライードであろう」
怒りを形にしたなら、目の前のルーのようなものではないか。
そう思わせる烈火の怒りを見せながら、ルーは叫ぶ。
「そして将来テイレシアの危機を救う存在と聞いても、奴は構わずアデライードを断罪するだろう! 一切の妥協を認めぬゆえに!」
しかしそのルーを見ても、アルバトールの口が閉じることは無かった。
「時は過去から現在に流れ、やがて未来に辿りつく。その引き剥がすことの出来ぬ三つの時のうち、過去と現在のみを以って語るのは不当だろう、ルー神よ」
「……いずれ行きつくことの叶わぬかもしれぬ未来。その結果をもって語る不当さよりは余程ましであろうな」
フラガラッハの剣先をアルバトールに向けてルーは告げ、そしてアルバトールは向けられた剣先を見ながら、先ほどからのルーの態度を見て浮かんだ疑念を口にする。
「では現在の結果を以て言わせてもらおう。現在の貴方は、メタトロンからアデライード姫を守り抜くことが出来るのか?」
自分に向けられた剣先が微妙に動いたのを見て、アルバトールは強く声を上げた。
「更に問う! 未来の貴方であれば、アデライード姫を守り抜くことが出来るのか!? 既に成長期を過ぎ、神として円熟の域に入った貴方に!」
その詰問にルーは無言のまま虚空を切り裂き、アルバトールの体を浅く傷つけた。
「では君ならばアデライードを守れると言うのか! メタトロンに抗える気配がまったく見られない君に!」
「事実、僕は一度アデライード姫を守っている。過去にジョーカーと言う堕天使の手より守った事実が僕にはあり、それは貴方には無いものだ。そして今現在もメタトロンはその姿を現さず、姫はあそこに無事でいる」
「今アデライードに脅威なのは、そのジョーカーとやらではなくメタトロン……」
そう言いかけたルーの言葉を遮るように、無視するように。
アルバトールは背後のアデライードの方を向き、右手を差し伸べ。
「今は出来なくても、明日は出来るようになる! 明日が駄目なら明後日に! 僕はメタトロンを超えるその日まで、決して諦めない! だから姫よ……いや」
そして彼はゆっくりと首を振り。
前を、アデライードを見据え。
凛とした声を、高らかに張り上げた。
「来い、アデライード。僕の一命と一生をかけて、必ず君を守り通して見せる」
それを聞いたアデライードは膝をつき、顔を抑え。
そして声を押し殺して泣く。
泣き出した彼女の傍にいたアリアはそんなアデライードにそっと寄り添い、肩を抱きしめて力強くアルバトールに頷いた。
「過去を支えとし、現在を築き上げ、未来の身の証としよう。行くぞルー! 僕の全身全霊を尽くして貴方を乗り越え、我が妻アデライードの安全を保障させてもらう!」
「良かろう。これが最後の機会だ! 心してかかってこい若き天使よ!」
光と炎が接触し、光の柱が渦を巻いて二人を包み。
黄天が鳴動して、一瞬だけ純白の優しい光をティル・ナ・ノーグにもたらす。
その光の中、二人の戦いは本格的に激しさを増していった。