第152話 迷宮の彼方から
そしてルーが消えた直後、今度は別の誰かが神殿の廊下に姿を現す。
[うおっと……あん? なんだこの剣は]
青い髪を持つその男は、現れるなり床に落ちていたカラドボルグに躓いてしまい、それによって大きく体勢を崩したことに機嫌を悪くしたのか、背後を振り返って床に向けて毒づく。
「カラドボルグと言うらしい。それはそれとして、勝手に出歩かないでもらいたいものだなバアル=ゼブル。おまけに私が移動する隙をついて逃げ出そうとするとは、まったくもって油断も隙も無い」
[ったりめえだ! 人がちょっと手助けしてやろうと思って外に出ようとしたら、神殿の中に閉じ込めやがって!]
その青い髪の男、言わずと知れた旧神バアル=ゼブルは、彼の後を追うように姿を現したルーに悪態をついて自分の非を誤魔化そうとするが、それは更なる非難の呼び水になっただけだった。
「侵入者を追い返す為に出ていく巫女たちの尻を、だらしない顔をしながら追いかけるような下衆の手助けなどいらぬ。それにアスタロトにもお前の様子を見ておいてくれと頼まれていたからな……人の話も聞かずに何をしているのだ?」
[ちょっとな]
床のカラドボルグを拾い、しげしげと見つめていたバアル=ゼブルへ、この神殿の主であるルーは不思議そうな声で問いかけるが、バアル=ゼブルは何かを誤魔化すように、曖昧な答えを返すだけに済ませる。
「行くぞ。先ほどの二人以外にも、まだ何人か神殿の中に入り込んでいる。今は上手く分断できているが、何かの拍子に集合されてはどのような厄介な問題が起こるか分かったものでは無い」
[お、おいちょっと……参ったなこりゃ]
ルーに首根っこを掴まれ、ずるずると引きずられていくバアル=ゼブルの手から、するりとカラドボルグが床へ落ちる。
そして二人が消えた後、再び静寂を取り戻した床の上で何かを黙考するように、カラドボルグはその剣身を冷たい床に任せたのだった。
「この神殿、広すぎないか!?」
その頃、ルーが口にした侵入者の一人であるアルバトールは廊下をひた走っていた。
(もう数百メートルは走っていると言うのに、行き止まりどころか部屋の入口すら見つからないとは……精霊の力を感じないから幻術の類でも無さそうだし……いや、そうでもないか)
彼は神殿の中に入った瞬間に感じた冷気、違和感を思い出して立ち止まる。
「考えてみれば、神がおわす神殿に入らせてもらうのはこれが初めてか。ならば」
この時、アルバトールのほうが勝手にルーの神殿の中に押し入ったという事実は彼の頭の中には無い。
その上彼は炎の剣を抜くと、目印の為に手近な神殿の柱に傷をつけるという非礼を重ねてしまう。
「よし、行くか。これで……いてっ」
後頭部に軽い痛みを感じたアルバトールは、振り返って周囲の様子を伺うが、そこには誰もおらず、見つかったのは拳ほどの大きさの石だった。
「こんな石、さっきは無かったのに……柱に傷をつけたことと何か関係があるのかな」
不思議に思ったアルバトールは更に数回ほど周囲の柱に斬りつけてみるが、傷が増えるばかりで一向に変化はみられない。
「……行くか。こんなことで時間を無駄にしてる場合じゃなかった」
そしてアルバトールは、自分の行動が何を引き起こしたかを知らないまま、再び廊下を走りだしたのだった。
「我が神殿に傷をつけるのがこんなことだとォォォォオオオ!? 殺すッ! 同盟国の者だと思って優しくしていればつけあがりおってあのクソガキがッ!! 全身を引き裂き、はらわたを引きずり出し、頭を串刺しにして戦女神への供え物にしてくれるわッ!!」
[おおお落ち着けってルー! 後で俺がアスタロトと一緒に修復してやっから!]
抜き身のフラガラッハを持って激昂し、アルバトールをバラバラにしようとするルーと、それを止めようとして必死にルーを羽交い絞めにするバアル=ゼブル。
神殿の一角で、そのようなやり取りが行われていることも知らないままに。
そして少々の時は過ぎ。
「やはり迷宮か。だがさっきまでとは雰囲気が違ってきたな」
アルバトールは再び立ち止まり、辺りの様子を伺う。
確かに神殿の中の空気は、先ほどまでの安らぎを感じるおごそかな物から、ピリピリと肌がひりつくような痛みを感じるものに変化していた。
「このプレッシャー……柱を切りつけた結果によるもの……か? もしかしたら、ルーに近づいているのかもしれないな」
確かに柱を切りつけたことによる結果ではある。
しかし近づいているのはルーの怒りの臨界点であって、彼とルーとの間に存在する距離のほうではないのだが。
「先ほどのやり方では生ぬるかったのかも知れないな。よし、この手ごろな柱を一本切り倒してみるか」
その決断を聞いた何者かが、その決断をしたアルバトールには決して聞こえない絶叫で神殿を包んだ時、その絶叫の持ち主とは違う声がアルバトールの耳に、いや、彼の頭の中に、直接響いて来た。
≪こちらだ……≫
≪誰だ?≫
いきなり頭の中に響いてきたその声に反応し、アルバトールは柱を斬り倒すために手を伸ばしていた炎の剣を握りしめ、周囲を警戒する。
≪私はカラドボルグと言う一振りの剣。現在のマスターより引き離されて困っている。どうか助けてくれないだろうか、聖テイレシア王国の智天使アルバトールよ≫
≪カラドボルグ? 聞いたことが無い銘だな……それにどうして僕の名前と天使であることを知っているんだ?≫
≪私の今のマスターの名を聞けば判るだろう。マスターはエンツォ。先ほどルーとの戦いに敗れ、先に倒れていた女と一緒にどこかに連れ去られてしまったのだ≫
≪なるほど、どうすればいい?≫
≪私の誘導に従ってくれ≫
何となく神殿の雰囲気が和らいだのを感じつつ、アルバトールは頭の中に響いてくるその声に従って一歩を踏み出した。
≪つまり、君は今までの持ち主の記憶と力をすべて引き継いでいると?≫
≪その通りだ。最後に引き継いだものは、いと高き無限の蒼穹をも捻じ伏せる思いと力……だな≫
エステルが丘を切り裂いた時、またエンツォがエレーヌを助けた時。
カラドボルグの剣身が伸びたのはそう理由からだったのだろうか。
アルバトールが響いてくる声と話しながら歩いていると、突然ぴたりと誘導が止まり、彼がそれに倣うように足を止めると、再び声が響き渡る。
≪そろそろだ。君の左にある、傷ついた部分の壁を壊してくれ。精神界の揺らぎに起因する空間の歪みなら、私一人で切り開くことも出来る。しかし安定を根幹とする物質界を象徴する、大地より生まれし固体は誰かに振るわれない限り壊すことが出来ない≫
≪判った≫
剣の声に快諾すると、アルバトールは腰に帯びた炎の剣を抜き、大きく振りかぶると同時に力を籠め、力強く振り下ろす。
すると壁が音もなく崩れ、どこからか発せられた音量を伴わぬ叫びが神殿を包み、アルバトールがこの国につくと同時に音信が不通になった旧神の、音階を感じさせない溜息がどこかで静かに発せられ。
そしてアルバトールは、壁を隔てた廊下に落ちていたカラドボルグを手に取った。
≪ありがとう、これで我々はルーの所へ……どうしたのだ智天使よ。私にそれほど珍しい装飾は無かったはずだが……そんなにじろじろと見られると少し恥ずかしいな≫
幾らエンツォの名前が出たからと言っても、罠である可能性は十分にある。
そう考えたアルバトールは、当然のように床に落ちていたカラドボルグを調べ始め、その結果、床に面していた部分に何かが書いてあるのを発見する。
そして少し癖のある字で書かれたそれを読み進むうちに、彼はこれが王都で一度見たことのある癖字と気付き、乾いた笑みを浮かべながら再びその文面を読んだ。
――馬鹿が見る、豚のケツ――
「……なるほど、どうしてくれようか」
彼はその文言の意味を知らない。
だが、その言葉に籠められた悪意は理解できた。
≪お、おい? どうしたのだ? 私には今の君の心が灼熱の溶岩のように感じるぞ≫
そして神殿が一度大きく震え、建物に止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
≪ちょ、ちょっと智天使どの!? 神殿を壊すのは待つでござるよ! 下手に壊すと神殿を基盤とした術が暴走する可能性が……こりゃいかんでござるな、怒りで我を見失っているようでござる≫
予想外の事態に慌て、口調がガラっと変わったカラドボルグは、周囲から感じる振動と音から神殿の建物にはあまり変化が無いと感じ取るが、それでもこのまま目の前の天使が暴れていれば、どのような事態を招くかは判らなかった。
どうやら目の前の天使が、自分に書かれていた文字を見て豹変したらしいことまでは判ったのだが、目のない彼にはそれが何であるかを知ることが出来ない。
≪ふうむ、先ほど拙者を手に取ったバアル=ゼブルなる人物と何らかの縁があり、その結果こうなったようでござるな……はてさて、これから如何すべきであろうか≫
とりあえず天使の怒りを、神殿ではない別方向に向けてしまえば良い。
そう考えたカラドボルグはアルバトールに呼びかけ、先ほど自分を手に取った人物の居場所について知っているから落ち着くように説得を試みた――その時。
「そこの天使よ! ここは我が聖域の中心であり、信徒が骨身を削る思いをしながら作り上げてくれた神殿だ! 手荒に扱うのはやめたまえ!」
アルバトールとカラドボルグの前に再びルーが姿を現していた。
その端正な顔に、少なからずの怒りを宿して。
「フウゥ……久しぶりだなルー神よ……。貴方に尋ねたいことが幾つかあるが、まず真っ先に聞かねばならない件が一つある」
昏い声、昏い表情。
もはや死神と断言しても良いような姿で質問してくるアルバトールに対し、彼と同じ声と表情をしたルーが応える。
「勝手に神殿に忍び込むに飽き足らず、破壊行為まで行うような野蛮人に答える口は持っておらん! まず素直に謝罪し、神殿を元に戻してから問うべきであろう! それともこのように相手を脅しあげ、無理やり口を開かせるのがテイレシアの流儀か!」
だがルーの怒りを聞いたアルバトールは、更にその感情を悪化させた。
「他国の王女を誘拐し、こちらが礼を尽くして交渉に臨んだのを無視し、仕方なく直接お迎えに行けば、そこから更に誘拐をした礼儀知らずの言う言葉か。しかもこの無礼極まりない言伝、如何に温和な僕と言えど決して見過ごせる部類のものではない……」
「言伝……?」
アルバトールの反論内容を聞いたルーは、訝し気な顔をしてカラドボルグに近づき、その言伝とやらの内容を見る。
「ふむ」
そしてフラガラッハを荒々しく抜くと目の前の空間を一閃し、確かにそこに何もないように見える場所へ手を突っ込む。
[おう、久しぶりだなアルバトール。元気そうで何よりだ、っつーかなんか元気すぎるようでやっぱりあんま具合が良くねぇ……な……待て待て待て! ちょっとした悪戯にマジになるんじゃねえ!]
ルーの手にぶら下げられ、猫のように身を丸めて姿を現したバアル=ゼブルの顔は、目の前の天使の昏い表情を見て翳りを見せ、更にその天使が無言で炎の剣を振りかぶった瞬間に恐慌状態に陥って慌ててマイムールを具現化させ、炎の剣を受け止める。
[えーとだな、とりあえずこうしよう。お前さんはあのレディたちとオッサンを迎えに来たんだろ? んで、その交渉相手は俺じゃなくてそこのルーだ。と言うわけで俺とお前が戦うことに意味は無いからさっさとその剣を納めてだな……]
「うん。炎の剣の納まる先は鞘では無くて君の体だから、このままで大丈夫だよ」
[おいそれだと俺の体が全然大丈夫じゃねえだろ! つーかさっきお前さんが神殿の柱に傷をつけた時、キレたルーを必死で止めてやったんだから俺に感謝しろよ!]
この上なく優しい声。
天上からの響きと称しても問題ないほどに、滑らかに耳の中を満たしていくアルバトールの声にバアル=ゼブルが戦慄した時、先ほどルーが切り裂いた空間の中から女性の声が発せられ、その場にいる皆に争いの制止を求めた。
「アリア……?」
彼が小さい頃から聞きなれた、それでも苦手であり、だが彼の生活に欠かすことの出来なかった声。
何もない空間から浮かび上がるように姿を現したメイド姿のアリアが、今度ははっきりとアルバトールに剣を鞘に納めるように願い、そしてアデライードと共にルーの神殿で巫女として生きると、そう彼に告げたのだった。