第151話 神の務め
「ここにも居ない、か……しかし誘拐された二人がいないのはともかく、神職の者たちすら神殿内に見当たらないとはな」
エレーヌはそう呟くと、音もなく滑るように神殿の廊下を移動し、柱の陰にその黒い肌を溶け込ませるように身を隠す。
姉のエステルと共にアイギスの術の再調整をアルバトールに施した後、敵方の偵察、そしてあわよくばアデライードとアリアの奪還をする為に、彼女一人だけ先行して神殿に潜入したのだが、もぬけの殻と言って良いほどに神殿の中には人影が無かった。
勿論これが罠だという可能性は、既に彼女の頭のうちにある。
しかし可能性だけで行動を制限するには、あまりにも時間の余裕が無かったのだ。
(まったく魔族の存在さえ聞いていなければ、これほど姫とアリアの安否を気遣わずに済んだものを……いや、魔族がいるからこそこのような事態に陥ったのだったか)
埒も無いことを、と自嘲したエレーヌが次の部屋の扉に向かおうとした時。
「侵入者を切り捨てようと思って出向いてみれば、このように美しい乙女だとは」
いきなりエレーヌの背後から声が掛けられ、驚いた彼女が振り向けば、そこには白銀の鎧を着こみ、全身に黄金色の光をまとう神々しいまでに美しい男が立っていた。
「ルーか」
「如何にも」
既に剣を抜き、構えているルーを見てエレーヌは心の中で舌打ちをした。
「信徒たちはどうしたのだ?」
「今頃は私の聖域に侵入した不届き者に対し、裁きを下していることだろう」
「信徒がどうこう出来るほどの力しか持たぬ者が、ここに来ていたとは思えんがな」
「どうこう出来る程度の不確定要素。王と騎士の二人が紛れ込んだ、ただそれだけだ」
「は? なぜクラレンス王とエンツォがここに……いや、それは別にしてもだ。あの二人が信徒にどうにか出来る程度だと?」
エレーヌは思わず間の抜けた声を出してしまい、一体どのような思惑でそんな馬鹿げたことを言い出したのか、見極めようとして目の前のルーを睨み付ける。
「その内の一人が無類の女好きと聞いてな。エスラスに命じて神殿の巫女を……」
「もういい判ったなんと卑怯な真似をするのだそれが神のすることか」
先ほどとは違った理由でエレーヌはルーを睨み付け、拳を握りしめると近くに立っていた罪もない柱を八つ当たりの対象とする。
「信徒が骨身を削る思いをしながら作り上げてくれた神殿だ。手荒に扱うのはやめてくれないか、森の民よ」
「エンツォを色仕掛けで惑わすのは構わん。だが、姉上にそれがバレる可能性が非常に高い今の時期に仕掛けたことは絶対に許さん。誰が後始末をすると思っているのだ!」
エレーヌは眉間にしわを寄せて、人の苦労も知らないで、と口の中で呟き、腰の剣を抜くとその切っ先をルーに突き付けるが、ルーは一向に気にした様子もなく、エレーヌに向かって忠告めいた話を始めた。
「男女の仲と言うものは流れる川のようなものだ。無理に流れを変えようとすれば必ずどこかに無理がきて、堰を切って溢れ出し、周囲に大きな被害を与える」
「……それで?」
「それだけだ。後は君自身の心に聞いてみた方がいいのではないか?」
「人は自分に理解できない、それでいて無視できない問題に直面した時、都合のいい考えを勝手に導き出す場合がある。そして宗教に携わる者で、図らずも心に闇を抱え込んでしまった者はそれを悪用することが多い。どこぞの胡散臭い女司祭の言葉だ」
エレーヌはアイギスの術を発動させ、ルーに軽蔑のまなざしを送る。
「ヘプルクロシア旧神を率いる立場にあるルー神ともあろう者が、そのような下衆な真似をするとはな。貴様を信奉する人間どもが聞けば泣き崩れてしまうぞ!」
そして素早くルーに駆け寄り、胴体部に向けて鋭い突きを繰り出した。
「だが大方の人間がそうであるように、君はその胸にある真実を自らの口では無く、他人に悟られ、語られることを好む性格ではあるまい?」
「黙れ! 私を欺こうとしてもそうはいかんぞ!」
金属がぶつかり合う激しい音がして、ルーの剣であるフラガラッハとエレーヌの剣が刃を交えたまま硬直し、二人の視線が間近で交錯する。
「もう少し踏み込んで言うと、君は諦観に慣れてしまっている。いや、そう思い込んですべてを諦めようとしている。まるで……」
そこで思い留まるように首を振ったルーの瞳を見たエレーヌは、その中に胸の奥の魂が一部吸い込まれたような気持ち悪いとも、喪失感ともとれる奇妙な感覚に陥り、一瞬遅れてその感触に気付いた彼女は、目を見開いて慌てて飛び退って間合いを取る。
危険を知らせる信号が早鐘のように心臓より発せられ、全身を包む冷たい汗に気付いたエレーヌは再び剣を構えようとしたが、それより早く彼女に駆け寄り、フラガラッハで斬りつけてくるルーが、彼女の目に映った。
(なっ……!?)
慌ててエレーヌは左腕を掲げ、フラガラッハの一撃をアイギスで受け止めるが、それを見てもルーの表情は変わらず、平然と彼女に問いかける。
「このフラガラッハの一撃も諦観してみるか?」
「本質を見極め、力の流れに逆らわず、受け止め、受け入れ、受け流す。その流転の繰り返しこそがアイギスの本質! もちろん諦観してみせようではないか!」
「だが君は誤った。いや、今の君には過つことしか出来ない」
そうルーが言った次の瞬間エレーヌは絶叫をあげ、飛び退り、壁に背中を打ち付けた反動でたたらを踏む。
確かにフラガラッハはアイギスの術で受け止められていた。
だがエレーヌは苦痛に顔を歪めており、無傷に見える左腕を抑えている。
「我がフラガラッハは物質界のみならず、その法則を飛び越えた先にある精神界に目に見えぬ一撃を喰らわす。君のアイギスが完璧であれば、私が無造作に放ったフラガラッハも君の体に届くことは無かっただろう」
膝をつき、息を荒げて下を向いていたエレーヌは、ルーの声を聞いて再び顔を上げるが、その顔は血色を失い、常より暗いものに見えた。
「だが今の君は迷い、揺らぎ、定まること無く、その身を退いてばかりいる。アテーナーよ、かつての君はどこに行ったのだ」
ルーは再びフラガラッハを振りかぶり、ついに倒れ込んだエレーヌに近づく。
「縁があれば再びどこかで会うこともあろう」
そしてフラガラッハは振り下ろされ、エレーヌの意識は暗転した。
「ぬおおっ!? どこだここは!」
「ほいほい、気が付いたようじゃのダグザ」
一方、神殿の外ではモリガンの槍に倒れたダグザが目を覚まし、どこかの建物の中に運ばれていることと、そばで見知った顔が見守っていたことに気付いていた。
「アガートラームか。ヴァハはどうした」
「ほほい、ヴァハなら森の中に薬草を取りに行っておるぞ」
「小僧の後を追わなくても良かったのか?」
「今の儂らが追っても人質が増えるだけじゃろ」
アガートラームの自虐的な笑みを見たダグザは、なにか元気づける話題は無いかと考えるが、その途端に頭頂部に走った痛みに耐えかね地面をのたうち回る。
「ほいほい、傷はふさがったがタンコブ……腫れは引いておらん。養生するんじゃの」
「ふん、油断しておったわ。モリガン如きに不覚を取るとはな」
「今回はそういう言い訳か。女を殴れん甘い性格は相変わらずじゃのう」
ダグザは顔を背け、腕を組んで拗ねたような態度をとるが、誤魔化してばかりいてもしょうがないと思ったのかすぐにアガートラームに向き直り、深刻な顔をする。
「勝てると思うか?」
「判らん。本心がどうあれ、今のルーは魔族に与することしか出来んからの。表向きはメタトロン……アルバトールと敵対し、全力で戦うことしか出来まい。その後で魔族と戦うとあっては、どちらが挑むにしても危うかろう」
「あん? あの小僧がメタトロンだと? 馬鹿馬鹿しい。昔ヤツを目にした時は、それだけで俺様の息が止まり、膝が震えるほどの圧力を感じたほどなのに、あの小僧にそんな気配はまったく感じられなかったぞ」
「ほいほい、そう感じるのも無理はないのう。どうやら今のメタトロンは、アルバトールの意識の奥底で眠っている状態らしいからの」
二人は同時に顔を見合わせ、同時に溜息をつき、同時に顔を上げて渋面を作る。
「神殿の中は既に迷宮と化しているはずだ。今から追いかけても間に合うかどうか」
ダグザが再び溜息をつきながら首を振ると、アガートラームはそれを否定するように首を振り、目に光を宿した表情で、一本の剣を一人の人間に渡したと伝える。
「希望と言う炎が燃え尽きるまでは、あらゆる手段を尽くすべきじゃろ」
ダーナ神族の長老はダーナ神族の元王の言葉に頷くと、体調を万全にするべく彼の傷を癒す薬草を探しに行ったヴァハの帰還を待った。
その頃、一本の剣を託された一人の人間は。
「さてもルー神の一撃を受け止める時が来ようとは」
その言葉を聞いたルーが振り下ろしたフラガラッハの先を見ると、そこには彼が今まで見たことのない剣――カラドボルグ――の刃があった。
「誰だ」
「あいや、少々そちらに行くには時間がかかりそうですがな……ふむ? なるほど」
誰もいないように見える神殿。
果ての見えぬほど長い廊下の奥にカラドボルグの刃が吸い込まれていき、その先から白いモヤが現れたかと思うとどんどん色がつき、とうとうそれが巨大な人の形をとったと思った次の瞬間。
「聖テイレシア王国、フォルセール騎士団の一席を占めるエンツォと申す。エレーヌ、まだ生きとるか?」
いきなり現れたエンツォではなく、彼が現れた廊下の奥を見てルーは不思議そうに顎に手をやり、ふうむと唸る。
「私の術が破られた様子は無いが、どうして人の子がここに現れることが出来た?」
地面に倒れ込んだエレーヌに息があるのを見て、安堵の表情を浮かべたエンツォはいつものように笑顔を浮かべ、だが剣を握る右手にいつもとは比べ物にならぬほどの力を籠めてルーに答えた。
「ワシの可愛い家族に手を出すような輩に、素直に答える義理は無いのう」
そう告げるとエンツォの笑顔は、常に彼が浮かべている陽気なものから、戦場に在る彼が浮かべる豪気なものへと変化を遂げる。
「フォルセール騎士団のエンツォと言えば、下に寛容、上に忠節と聞いていたが、噂はあてにならないものだな。どちらかと言えば、戦いを好む修羅というべきか」
「ハッハハ! 確かにこのエンツォ、戦場で鬼と呼ばれた覚えはあるのう! まぁ噂など当てにせず、見たモノを信じるのが一番ということじゃわい! さて! 色々とルー神に聞きたいことがあるが!」
「勝手に神殿に忍び込むような輩に、素直に答える義理は無い」
「うんむ! 至極当然! ……それでは力づくで聞き出すとするかの」
エンツォが首を左右に傾け、肩をぐるりと回し、無造作に踏み出した一歩から次の二歩目を踏み出したと思うと、その姿はいつの間にか五メートルほど離れていたルーの近くへと移動を終えており。
「まず一つ。この神殿に一緒に入ったはずの我が妻エステルと、クラレンス王の姿が見えぬ。この神殿の仕組みを教えてもらおう」
一つ目の質問と共に黒き大剣、カラドボルグを横に振るい、それを受け止めたフラガラッハの刃ごとルーを吹き飛ばす。
「なるほど、先ほど君がそこのダークエルフを助けたのはただの偶然か」
だが神殿を支える柱の一つにぶつかる直前、ルーは軽く身を後ろに回転させて翻し、それだけでその場に優雅に留まって衝突を防ぐとエンツォを静かに見つめた。
「いや、必然か。君の持っているその剣から尋常ではないほどの鬼気を感じる」
「二つ目。姫様のみならず、なぜアリアまで誘拐したのか」
エンツォは到底剣が届かぬ間合いからカラドボルグを振り下ろす。
「むん!」
だが瞬時にその剣身は伸び、ルーはいきなり頭上に現れたカラドボルグの一撃に驚きつつも、フラガラッハによってその攻撃をかわすと気合の声をこめて弾き返した。
「一つ目の質問だが、この神殿の中は現在私の力によって光を捻じ曲げられ、空間を捻じ曲げられ、方向感覚を捻じ曲げられている。よって現在この神殿の中を自由に動けるのは、構造を熟知している私だけだ」
エンツォは軽く鼻を鳴らし、空気を嗅ぐような仕草をした後に周囲に目を配り、最後に横に立っている柱を軽く叩いてその振動を感じ取る。
「二つ目。そのアリアという娘だが、アデライードの友人に見えたので一緒に連れてきただけであって、特に他意は無い」
エンツォはそれを聞いて再び笑顔を変える。
「では最後の質問を。これより手を携え、ともに魔族を討ちに参りませぬか」
そう言ってエンツォは歯を見せ、声を立てて笑い、ルーの眼を見つめる。
天性の人たらし。
人を安心させる、人が心を開くその何とも言えない魅力を放つ笑顔を見て、ルーはくすりと笑ったように見えた。
「残念だが、その提案内容は私の行動予定に組み込まれていない」
「不躾な提案は、我らが騎士団の得手とするところでしてな。御身の予定が開いていないのであれば、我が剣にてその場所を切り開くのみ」
エンツォがカラドボルグを両手で構え、やや自分の右手側に剣先を傾けてゆっくりとルーとの間合いを詰めていったその時。
「君は我が二つ名の、長腕の由来を知っているかね」
ルーから突如投げつけられたその質問に、エンツォが答えようとした時。
「ぐうぉっ!?」
いきなり背中に走った鋭い痛みに彼が振り返ると、そこには剣を持った腕が一つ浮かんでいた。
「先ほど言ったように、私は少し光や空間を操ることが出来る。その力によって間合いに入って居ない敵に不意の一撃を食らわせる。それが長腕の由来だよ」
エンツォは再びルーの方を向く。
その目に見えるルーの姿は全身鎧に包まれて良くは判らないものの、一見して五体満足な体を持ったままであり、先ほど切り付けてきた背中に浮かぶ腕の持つ剣は、フラガラッハとは違う剣であった。
「不覚……」
呻くように呟きながらエンツォは床に倒れ、その巨体に相応しい量の血を流出させ、血だまりを広げていく。
[大したものだね。このカラドボルグ、あのアガートラームですら命を落とすところだったフィル・ボルグ族の戦士、スレンの技術を受け継いだ剣なのに]
「まだお前の出番では無い。下がっていてもらおうか、アスタロト」
エンツォの所へ歩み寄ろうとしていたルーは、いきなり神殿の柱の影から響いてきた声に驚くことも無く返事をすると、気絶しているエレーヌ、そしてエンツォを軽々と担ぎ上げる。
[その精神は立派だとは思うけど、犠牲を最小限にすることばかり考えた行動は君に著しく不利な状況しか招かないよ。信徒たちを騙して無理に侵入者の対処に向かわせたのも、君たちの戦いに巻き込まない為だよね]
「期待されただけの働きはするが、期待以上の働きはしない。貴様らがこちらの期待を裏切るのであれば、こちらも貴様らの期待を裏切った行動をとる。判ったら去れ」
そう言ってルーが柱の陰、そこに浮かぶ黒い霧にフラガラッハを投げつけると霧は消え、投げつけたフラガラッハは弧を描いて戻ってくる。
「背負いたくて背負った訳ではないが、期待を背負ってしまったからには期待に応えなくてはならん。それが神になってしまった者の務めだ」
そしてルーも現れた時のように、あるいは先ほどの黒い霧のように、その姿を掻き消してどこかへと転移していった。