第147話 残された手段、唯一つの手段
アガートラームとスレンの戦いに現れた最初の変化は、何度目かになるか判らない鍔迫り合いから生じた。
スレンが力任せにアガートラームの剣を押し込み、細かく左右に身体を振り、そして少しだけ体を離す。
それだけしかしていないように見えたスレンの崩しで、アガートラームの体はまるで宙に浮いてしまったように、地に足がついていないように力が抜けてしまい、そのまま前のめりになった所を斬られてしまったのだ。
かつてスレンと戦った時と同じ、右腕を。
「驚いたぞアガートラームよ。その昔、このアルフォリアン島を我々から奪おうとしてお前たちが攻め入った時より、格段に腕が上がっている」
そのスレンの賞讃に、アガートラームは苦痛を堪えて答えた。
「ほほい、攻め入ったとは人聞きの悪い……きちんと最初は話し合いを申し込んだのを、誤解したのはそちらであろうに」
切られた腕の部位から痛覚神経が力任せに引きずり出され、そのまま引き千切られるような痛みの中で、何とかアガートラームは右腕を治療したが、失われた力や血液は元には戻らない。
「攻め入ってきた貴様等を討伐するべく、立ち上がった我々を恐れて話し合いを申し込んだ、の間違いだな。おまけに数で劣る貴様等は、我々が名誉を重んじると知って一騎打ちでの決着を申し込んだ。我々がその申し出を断らないと判っていてな」
そのスレンの舌鋒に、アガートラームは黙り込む。
「あの時俺は貴様の右腕を切り落とし、更にその首を落として勝つはずだった……」
一瞬だけ、どこか遠くを見るような眼差しとなったスレンの瞳は、直後に怒りに燃えてアガートラームに向けられる。
「貴様が危ういのを見て駆け寄った、貴様らの従者たちの邪魔が無ければな!」
かつての自分たちの過ちを思い出したのか、それを聞くアガートラームの顔は歪み、幾多のしわが刻まれ、戦う前の老人に戻ったかのような印象を与えるものとなってしまっていた。
「それだけならまだしも! 貴様等は一騎打ちの間に卑怯にも我らが王に毒を盛り、命を奪った! そして王を失った我々は敗れ、一族を狭き地に封じこまれることとなった! 我々は戦いと誇りを同時に汚されたのだ!」
スレンの顔は、王を毒殺した卑怯な行いに対する怒りと、一騎打ちでの勝利を無視するという勝負の誇りを汚した卑怯者を討てる喜び、王の仇を討てる喜びが混然一体になったものとなり、その形相はまさに狂喜によって塗りつぶされていた。
「もはや言い訳はすまい。来い、スレンよ。儂はまだ死んではおらぬぞ」
「治療は済んだのか? アガートラームの名の由来、銀の右腕はどうした」
アガートラームは笑みを浮かべて答える。
治療してもなお激痛に苛まれていると言う証拠、引きつった笑みを浮かべて。
「振り出しに……戻っただけじゃ。お主と再び戦うのであれば、ここから始めなければなるまいて」
「ほう? まさか貴様、右腕をわざと俺に斬らせたと?」
「今の我々に、そんな些事……つまらぬことの真偽を探る時間ほど無駄なものはない。そうではないか?」
「……そうだな。卑怯者にしては良いことをいう」
多少の時間を置いて発せられたスレンの返事に、アガートラームが吠える。
「来い! たとえ助けが入らずとも、儂がお主を打ち倒せたことを証明してやろう!」
「面白い! 五体満足であっても俺に到底かなわなかった貴様の剣術! この場でその真価を確かめてやる!」
だが、アガートラームとスレンが再び斬りあうべく剣を構えた時。
「二人とも、ちょ――――っと待ったあ!! あたしが来たからには、一騎打ちなんて無駄なことはさせないよっ!」
そこに駆け付けた者たちがいた。
一人は戦女神の長女モリガン。
そしてもう一人は次女であり、アガートラームの伴侶であるヴァハ。
アガートラームが再び右腕を失ったと聞いた彼女は、愛する夫がかつて着用していた銀の腕を携え、戦車を地に降り立たせたのだ。
しかし。
「邪魔をするなヴァハ。これは儂とスレンの一騎打ちである。それを知ってなお近づくのであれば、魔剣ダインスレイフの剣先はお前に向くと知れ」
銀の腕を大事そうにかかえて戦車から降り立ったヴァハに対し、アガートラームは突き放すような言葉を告げる。
「そんなことは知らないね。あたしはハニーを守る。その邪魔となるスレンは殺す。今のあたしがしたいことはそれだけだ」
そしてヴァハがアガートラームに返した言葉も、また熾烈なものだった。
「ヴァハ」
「なにさ」
「ではお前が勝負の邪魔をした瞬間、あるいは手助けをした瞬間に、儂はダインスレイフで自らの喉を切り裂く。判ったら下がっておれい」
「あたしは嫌だと言ったはずだよ!」
アガートラームは剣身の根元、リカッソと呼ばれる部分と、ポンメルと呼ばれる柄の末端を掴み、ダインスレイフの剣身を喉元へ向け、再びヴァハへ口を開いた。
「ヴァハよ、儂はスレンとの再戦の為に人間になったのじゃ。それを妨げるのであればこの先の生に望みは持てぬ。さらばじゃ」
「だから嫌だよ! ハニーが死ぬのは嫌だ! あたしはただ、ハニーと一緒に幸せになりたいだけなのに! どうしてこんなことになるのさ!」
「ヴァハ……」
そんな二人の様子を、モリガンは黙ったまま、戸惑いの様子で見ていた。
しかしヴァハの叫びを聞いたアガートラームの目を見た瞬間、彼女は動かねばならないと思った。
そしてモリガンの口から、ごく自然に言葉がこぼれおちる。
「ヴァハ、貴女にアガートラームと共に幸せになりたいと言う願いがあるように、アガートラームにはアガートラームの望みがあるのです。貴女が本当にアガートラームを愛しているのなら。その望みを尊重してあげなさい」
ヴァハはそのモリガンの言葉を聞いた途端に表情を険しいものと変え、姉であるモリガンに詰め寄り、激しい怒りをぶつけた。
その怒りを聞き終わると、モリガンは困ったような顔をして妹のヴァハをそのまま抱きしめ、優しい声で説き伏せる。
「貴女の愛しい人を、アガートラームを信じなさい。例え何があろうとも、何が起ころうとも。彼には彼の思惑があり、成さねばならないことがあるのです」
「姉さん……?」
モリガンは、そのまま腕に力を籠めた。
今の自分の顔を、決して見られないように。
彼女はヴァハをきつく、きつく抱きしめたのだった。
「茶番は終わりか?」
スレンは場に漂う雰囲気を断ち切るが如く、自らの持つ巨大な黒剣を一振りして鋭い目でアガートラームを睨みつける。
「茶番のう。今のやり取りに、何か引け目に感じることでもあったのかの?」
「引け目に感じているのはお前もではないか? アガートラームよ。言っておくが、今の茶番のことでは無いぞ」
「そうじゃな……ほむ、いい機会じゃから言っておくか。スレンよ。実のところ、儂はあの時お前に一騎打ちを申し込むべきでは無かった」
アガートラームはゆっくりと息を吸い、その数倍の長さをかけて息を吐く。
「儂もその昔はお主と同じただの戦士じゃった。じゃが長い戦いの中で、儂はいつの間にか王となっていたのじゃ。王は戦士とは違い、その身を軽々しく扱ってはならぬもの。だが儂はそれに気づかないまま、戦士の心のままお前に勝負を申し込んだのじゃ」
そして左手に持つダインスレイフを二度、三度と振り、その感触を確かめた。
「儂の――王の命令によって、お主との勝負を儂の従者たちは認めた。じゃが王の命が危うくなれば、従者が庇いに入るのは当たり前じゃ。未熟な、まだ王に成りきれていなかった儂を救うために。勝負を汚す卑怯を承知で、従者たちは間に入った」
「ハニー……」
「じゃから儂はここで、かつての条件を整えた後に、お主に再び一騎打ちの勝負を申し込む。儂が無能であったが故に、不甲斐なかったが故に傷ついた、我が従者たちとお主らの名誉を挽回する為にのう」
アガートラームが喋っている間。
スレンはずっとその顔、瞳、仕草を見つめ、その血の流れ、心の臓の鼓動などのすべてに、自らの目と心を注いでいた。
「……貴様の想いは受け取った」
そしてそう言うと彼は唇を引き結んで目を閉じ、持っている剣を真横に振ってから天へと捧げた。
「我が名はフィル・ボルグの戦士スレン。トゥアハ・デ・ ダナーンをかつて率いていた王アガートラームよ、我はかつての私怨を捨て、我が剣にかけて正々堂々と貴様に挑むことを誓おう」
そして黒い大剣を胸の前にかざした彼は、そのまま剣先をアガートラームの方へ向け、ゆっくりと右足をにじり寄せ始める。
「我が名はアガートラーム。もはや神でも無ければ王でも無いアガートラームだ。ただの人間、ただ一人の戦士として。スレンよ、お主に勝負を申し込もう」
そして二人は、互いの間にあった十メートルほどの距離を瞬時にゼロとし、周囲に真空の刃をまき散らすほどに激しく剣を交え始める。
「だが貴様は俺には勝てん! 魔術という目眩ましに頼ってきた貴様には、この俺の剣を見切ることは出来んのだ!」
しかし、その言葉ほどスレンに余裕があるようには見えない。
戦いを見守る戦女神の二人の目にはむしろ利き腕を失い、左腕一本で戦っているアガートラームの方が押しているように見えた。
「姉さん、まさかハニーに戦女神の加護を?」
「いいえ、私の加護は私と肉体を交えた者にしか与えられませんからね」
「ホントに?」
「……本当です!」
ヴァハの質問の真意に気付いたモリガンは、顔を真っ赤にして答える。
そんな彼女たちを横に、二人の戦士の戦いは終盤へと近づいていた。
「スレンよ、左利きの者と戦ったことがあるか?」
「……なるほど、道理で戦いにくい訳だ。左利きの者と戦ったことは幾度となくあれども、貴様ほどの強者は今まで一人として居なかった」
いつもと異なる角度と、違う位置に構えられた剣。
いつもと違う間合いに立ちはだかり、異なるタイミングで身体に迫りくる剣先。
それに加えてアガートラームが持つ魔剣ダインスレイフの力が、スレンの想像以上に彼を苦しめ、いくつもの傷をつけていた。
「魔術を目眩ましと言ったな、スレンよ。だが隻腕の儂が両腕のお主と力負けせずに切りあえるのも魔術の力、魔剣ダインスレイフのおかげなのだ」
「だがそれだけでは俺には勝てんぞ。貴様はまだ負けていないだけ。俺に勝利したと言う結果は……」
スレンの口上を聞くアガートラームの顔に緊張が走る。
「まだその手に得てはいないのだ!」
スレンは気合の声を上げ、気迫を全身に漲らせるとアガートラームを突き飛ばし、剣を頭上に構えた。
「二の太刀は無い。我らが剣の神髄、その身で味わうがいい! カラド・ボルグ!」
「この剣技とて、我が身一つで成し得たわけでは無いのだ! ダインスレイフよ! 我に力を貸せい!」
黒く巨大なスレンの剣カラドボルグが、小さい光をいくつも纏いながら巨大な重圧と共にアガートラームに迫り。
対してアガートラームのダインスレイフが、黒いモヤを発しながらスレンの喉笛へと伸びていく。
「なにッ!?」
だがダインスレイフの剣先が狙っていたのは、スレンの喉笛では無かった。
スレンの持つカラドボルグの巨大な剣身が、その根元目がけて繰り出されたダインスレイフの剣先一つで弾き返され、アガートラームはそのまま身を翻して一回転し、剣を弾き返されて懐がガラ空きになったスレンの体を、ダインスレイフで切り裂いた。
「見事なり、アガートラーム」
「儂の勝ちだ……スレン」
ダインスレイフの一撃を受けたスレンは、何とかカラドボルグで体を支える。
だがその口からは血がこぼれ、これ以上戦うことは不可能に見えた。
そして荒く息をつきながらアガートラームが自らの勝利を告げると、その言葉に見送られるように、スレンの体は大地へと倒れこんでいった。
「……慈悲は無用。俺は今、このカラドボルグと話をしている。俺が落命する原因となった、アガートラームの剣技についてな」
「ほほい? 剣と話じゃと?」
仰向けに倒れ、空を見上げていたスレンは、苦しみから解き放とうと言うアガートラームの申し出を断り、カラドボルグを握りしめて血と共に言葉を吐く。
「カラドボルグは、我らフィル・ボルグ族の発祥から今までの持ち主の、すべての技と力を受け継いでいる。人が神に近かかりし時代だった、神代の頃よりのな」
「ほいほい、道理で魔術を使える儂らと互角以上に戦えた訳じゃ」
鎧の力を使い果たし、再び老人の姿へと戻ったアガートラームは、ヴァハに支えられながらスレンと話を始め、モリガンはそんな二人に遠慮してか、先を急ぐと言ってアルバトールたちの元へ向かい、姿を消していた。
「……これでいいか。受け取れアガートラームよ。この俺……いや、フィル・ボルグ族の戦士たちに勝利を収めた貴様への報酬だ。貴様がいらぬと言うのであれば、貴様が相応しいと認めた男にこれを継承してくれ」
「ほい、そりゃ構わんが……お主の同族に渡さなくて良いのか?」
アガートラームの当然ともいえる疑問を聞き、スレンは苦笑を浮かべた。
「お前たちとの領土争いに負けた俺たちは、コナーバードの地を与えられ、身の安全を保障された。するとどうだ。戦わずに済むようになった我々に戦士の技は必要なくなり、一族の戦士たちはことごとく武器を捨て、その手に農具を持った」
スレンは深く息をつき、もはや我々の役目は終わったのだ、と呟いた。
「そこにアスタロトが来た。あいつは俺に戦う場所を提供すると言い、そしてお前が人間になって、ここに来ると教えてくれた。一も二も無く俺は即答し、お前と戦うべくここに来たのだ」
スレンはアガートラームが重そうに、しかししっかりとその両手にカラドボルグを握るのを見て悔いのない笑顔を作ると、眩しそうに空を見上げた。
「空は広い。この大地などよりよっぽど広く、そして何者にも支配されない」
アガートラームが頷くのを見て、スレンはゆっくりと血まみれの右手を天に掲げ、太陽をその手に掴むかのように握りしめる。
「その遥かなる高み、自由なる天をすら切り伏せるような――そんな豪傑になってみたかったぞ」
そして力を失った右腕は地に堕ち、ゆっくりと大地に赤い染みを広げていく。
スレンの眼からは光が消え、かつての仇敵を見送ったアガートラームは、その分だけカラドボルグの重みと、黒い剣身からの光が増えたように思えた。
「スレンよ……お主とお主の一族の誇り高き魂、確かにこのカラドボルグと共に受け取ったぞ」
アガートラームはヴァハに人が入れるだけの穴を掘って貰うと、そこにスレンの体、そしてかつて彼自身が右腕につけていた銀の腕と鎧を共に入れる。
「ヴァルハラへの渡し賃にでも使ってくれ。話はつけておくぞ」
アガートラームはヴァハの方へ振り向き、彼女に笑いかけ、その顔を見たヴァハは思う存分に愛しい夫を抱きしめると共に戦車に乗り込み、モリガンの後を追った。