第145話 邪竜クロウ・クルワッハ
魔剣ダインスレイフ。
ひとたびその剣が鞘から抜かれれば、誰かを傷つけてその生き血を吸わなければ決して鞘に戻ることは無く、またその鋭い剣閃は余人の避けうるものでは無い。
更にその剣によってできた傷は、決して癒えることは無かったと言う。
「さすがは魔剣ダインスレイフ! とても人が振るう太刀筋とは思えんな!」
「ほっ、魔剣の力を借りてようやくお前に対抗できる、この儂を貶めているようにも聞こえる賞讃じゃの! スレンよ!」
草原で楽しげに打ち合う二人を横目で見ながら、ヴァハは眼下で風と水の刃に切り刻まれている邪竜クロウ・クルワッハを見下ろす。
「さて、そろそろ逃げようかな」
そして最後に巨大な落雷を落とした彼女は、身を翻してそそくさとそこから離れた。
「まったく冗談じゃないよねえ。あたし一人で何とか出来る相手じゃないっての」
クロウ・クルワッハはかつてバロールに呼び出された邪竜。
一説によれば、アガートラームがこの邪竜と戦っている最中に、加勢しようとした者の一人を一撃で屠った。
いや、アガートラーム当人を倒したなどの逸話を持ち、信仰する者たちに生贄を要求すると言われる竜神である。
「あー、やっぱりピンピンしてるよおーっと!」
後ろを振り返って術の成果を確認しようとした時、ヴァハは後方に発生した異常を発見し、慌てて戦車を引く馬の手綱を操って緊急回避をする。
直後に先ほどまで彼女が飛んでいた場所を、クロウ・クルワッハの吐いた漆黒の泥のようなブレスが通り過ぎ、飛んでいった先に浮いていた巨大な雲が渦を巻いて吸収され、消失する。
「あたしの張ってる障壁が全然役に立たないとか、インチキもいいところだよ。さて、向こうが結界を張る気が無いのなら、こっちも付き合わせて貰いますかね」
そう言うとヴァハは両手を頭上に掲げ、飛行術を操りながら自己強化、そしてクロウ・クルワッハの張っている障壁の解除を同時進行させ、更に彼女の最高峰の術を練り上げ始める。
「ま、どうせ効かないだろうけど挑発くらいにはなるでしょ。さって、いっくわよー! でっかい花火、打ち上げちゃうからね! ツインプット・カーズ!」
ヴァハの掛け声とともに空が歪み、邪竜を囲んで大地が裂ける。
空から産み出されたのは、周囲に電磁波を発生させながら降りてくる、小さな城くらいなら軽く飲み込むほどの黒く巨大な円盤。
そしてクロウ・クルワッハの周囲を囲んで裂けた大地からは、邪竜の逃亡を防ぐかのように、または円盤を迎える人々の手のように黒い火柱が上がっていた。
「あんたの暗黒ブレスとどっちが強いか、試してみようじゃないか!」
そして円盤は地に落ち、同時に火柱がうねりを上げ、落ちた円盤の上から更に邪竜を大地に叩きつける。
「あら、意外と素直に喰らってくれたじゃないの。てっきり直前にどかーんとかやって術を消し去るのかと思ってたのに……おおお!? 食べちゃった!?」
だがヴァハの術で青い火花を発する黒い塊と化していた空間は、中から咆哮が上がった途端に掻き消え、中からは無傷の邪竜が再び黒い姿を現して唸り声を上げる。
「ひー、やってらんないよ! ほら、こっちこっち!」
ヴァハはうんざりとした表情でその両手に光球を作ると、次々とそれをクロウ・クルワッハに投げつけ、逃げるが勝ちとばかりに西の方角へ飛び去った。
「どうやらクロウ・クルワッハは上手くヴァハを引き離してくれたようだな」
「ほいほい、最初から一騎打ちに持ち込むのが目的じゃったか」
スレンが振り下ろした剣先がアガートラームの頬をかすめ、対してアガートラームの突き出した剣はスレンの左上腕部を軽く切り裂く。
「個々の戦力が上なら、個々で戦った方が有利にことを進められる。それだけだ」
「ほほい、それもまともに戦えば、の話ではないのか? 逃げに徹したヴァハに追いつける者はおらんよ」
各々についたかすり傷を見た両者は、どちらからともなく離れて間合いを取り、お互いの隙を探りつつ会話を始めていた。
「アガートラーム、その間の抜けた話し方をやめろ。こちらまで気が抜ける」
「ほっほ、それが狙いの一つじゃからの」
それを聞いたスレンはうんざりとした表情になると、一つの情報を口にした。
「クロウ・クルワッハは闇の風の助力を得た」
しかしアガートラームはそれを聞いても動ぜず、平然と答える。
「そう言えば、あやつもヘプルクロシアに来ておったのう。じゃがそれだけでヴァハをどうにか出来るとでも思ったかの、スレンよ。儂が慌ててヴァハの助けに向かうとでも思ったか?」
「だが少しは動揺して貰えたようだ。お前が地面に垂らしていた剣先が、少しこちらに向けて上がったからな。いやはや、相変わらずお熱いことだ」
「やれやれ、目先が利くのう。仕方あるまい、これ以上囃し立てられる前にお前の口を封じるとしよう」
アガートラームの周囲から炎が噴き上がり、上空で巨大な鳥の姿をとる。
「フレイム・スロート」
しかしスレンを飲み込もうと上空から飛びかかった炎の鳥は、スレンの持つ巨大な剣に真っ二つに切り裂かれ、その後方で四散した。
「お前の術が通用しないことは判っているだろうに。魔術か何か知らんが、それに籠められた力を上回る力をぶつければ、発生した事象を消滅させることは可能だ」
「相変わらず無茶苦茶なやつじゃのう。屁理屈としては通るが、それを体系づけて理屈として体現できるものは、この世界セテルニウスすべてを探してもそうおらんぞ。そもそも魔術に剣を当てられることが信じられんわい」
「剣術の神髄を極めて行けばお前も出来るようになるぞ」
「儂は魔剣や聖剣のたぐいがあれば十分じゃ。それじゃ再開するかの。その剣術の戦いとやらを」
アガートラームがそう言った途端に頭上にスレンの一撃が振り下ろされ、受け止めた彼の足が周囲の地面ごと大地にめり込む。
「どうした! かつて神の王と呼ばれた男がそんなザマでは、お前に着き従って死んでいった者たちに笑われるぞ!」
「好き勝手なことを言う!」
その後、切りあった衝撃を殺しきれずに互いが吹き飛ばされ、アガートラームが再び牽制の精霊魔術を撃ちこみながらスレンに向かうと、その魔術を片っ端から切り捨ててスレンがアガートラームに駆け寄る。
そんな人外の戦いが行われている場所から遠く離れた所では、とうとうヴァハがクロウ・クルワッハに捕まろうとしていた。
「うっそでしょおおおお!?」
ヴァハに向かって何度も吐きつけたブレスや、前脚の爪や長い尻尾による一撃などが、ことごとく当たらないことに業を煮やしたのか、それとも術の発動に必要な精霊が扉の向こうに集まったのか。
邪龍は少しヴァハから離れた所から雄叫びをあげる。
同時に空間が歪み、その為に飛空術で飛んでいた彼女は天地方向を見失い、術の制御を手間取った隙にクロウ・クルワッハに追いつかれ、巨大な前脚の爪による強烈な一撃をその身に受けてしまったのだ。
寸前にかろうじて障壁は張ったものの、相殺できなかった衝撃によって彼女は吹き飛ばされ、地面にたたきつけられ、その際に折れた骨で内臓を傷つけでもしたのか、口からは唾でも胃液でも無く、鮮やかな赤色をした血が溢れ出ていた。
(こっりゃ……やばいね! さっさと治療しない……と!)
動けなくなったヴァハの目に、上空でクロウ・クルワッハがたっぷりと息を吸い込み、とどめを刺そうと巨大なブレスを吐こうとしている姿が入ってくる。
(見たくも無いものをじっくりと見させられるなんてねぇ……死刑囚が目隠しをされたまま死刑執行されるのに比べて、なんとまぁ慈悲の無い)
横目で潰れた戦車を見た彼女は、逃走するために必死に傷の治療を行うが、どうやらそれは間に合いそうも無かった。
(あ、ダメかな。ごめんねハニー。あたし、ハニーにもうご飯作ってあげらんないみたい。姉さん元気かな……あのひねくれ者とちょっとは和解できたのかな)
クロウ・クルワッハの巨大な口腔に闇が溜まり、渦を巻く。
だが、その口から放たれたのは闇では無かった。
飛んできた赤い光線がクロウ・クルワッハの首を貫き、着弾した外皮ばかりかその首の中、そして反対側の外皮まで凄まじいばかりの爆発を生じさせ、口にわだかまっていた闇は消え失せて代わりに爆炎が天に向かって唸りを上げ、苦痛の叫びが世界を覆う。
「ヴァハ! 大丈夫ですか!」
(姉さん!? どうしてここに! それにあの二人組は……)
「ベルトラム、何なのあれ」
「クロウ・クルワッハ。かつてバロールが呼び出した邪竜と言われておりますが、今は若干違うようですね。なぜこんなことになっているかは判りませんが、あれはバロール本人です」
「ふーん、そうなんだ」
上空に浮かぶ恐ろしい邪竜を見ているはずなのに、自分たちとはまったく関係ないとばかりに冷静に話す男女の姿を、ヴァハは信じられないと言った表情で見つめた。
「なんだか怒ってるみたいね」
「怒ってなどいませんよ。少々虫の居所が悪くはありますが」
どこか浮世離れた、見るものに寒気すら感じさせる笑顔を浮かべた銀髪の男が口にした答えに、聖職者の格好をした金髪の少女が肩をすくめて苦笑する。
「あんたじゃなくて、上の黒トカゲのことなんだけどね」
そう言って金髪の少女、ガビーが上空を見上げてその目を光らせる。
すると怒りの咆哮をあげてクロウ・クルワッハが吐いたブレスが、瞬時に清浄な水と化して周囲に降り注ぐ慈雨となっていた。
先ほどから何度もヴァハに向けて吐いていたブレスと違い、その大きさは五分の一程度に小さくなってはいたが、それでもあっさりと闇の吐息を無効化したその少女の技を見てヴァハは目を剥き、震える声で呟く。
「清浄な水を扱うその力……まさか四大天使の二人までが、このヘプルクロシアに来たっての……?」
もしそうなのだとしたら、威力が落ちていたとはいえ、クロウ・クルワッハのブレスを無効化したのも頷ける。
いや、むしろ彼女たちの登場と同時に張られた、この周囲を包む結界の影響でそれほどまでに減衰していたのだとしたら……?
先ほどクロウ・クルワッハを襲った爆発の威力を思い出したヴァハは、邪竜と対決していた時すら流さなかった冷たい汗を全身に感じていた。
「バロール、今の私は少々機嫌が悪い。大人しく退けば良し、退かぬのであればかつてのように再び滅され、四海にその身を裂くこととなろう。返事や如何に」
その脅しを聞いたクロウ・クルワッハはしばし考えていたように見えたが、やがてゆっくりと大地に降り立つと、その身を黒い球体に包む。
「グッフフ、こちらも退きたい所だが、そうもいかぬのが世の無常と言うものよのう。何としても可愛い孫の望みを聞いてやらねばならんのでな」
そして程なく球体から黒い甲冑に身を包んだ、三階建ての建物ほどに巨大な人影が現れ、大声を上げて笑い始めた。
「そう言えばルーってあんたの孫にあたるんだったかしら? 娘を幽閉して孫が産まれないようにしたり、先の大戦では敵対したりしてたくせに勝手なもんね」
「孫の為なら、幾らでも身勝手になれるのが祖父と言うものよ」
「孫の望みでは無く、貴方とルーの利害が一致しただけの話でしょう」
ベルトラムの言葉を聞き、バロールはゆっくりと首を振った。
「いいや、儂の利害と一致したのはアスタロトのほうだ。ルーの奴めは足止めをしろなどと甘っちょろいことを言っておったわい」
「アスタロトは何と?」
「儂の好きなようにしていいとさ」
「なるほど」
バロールはベルトラムの問いに答えると、その手に巨大な棍棒を出現させ、二、三度振ってその感触を確かめると、ベルトラムたちにその先端を向ける。
「では始めるか。おお、それから言うのを忘れていたが、ヌアザ……今はアガートラームか? のど阿呆は、先ほどスレンの奴めにまた右腕を切り落とされたようだぞ」
「ぬぁんですってえ! あんたが顔以外の肉体を持ってる理由が気になるけど、ハニーがピンチと聞いてはそんなことどうでも良くなったわ!」
モリガンによる治療を受けていたヴァハは、バロールの言ったことを聞くなり脇で潰れてひっくり返っていた戦車をガツンと蹴り起こし、あちこちを殴りまわして再び使えるように修繕して乗り込む。
「ちょ、ちょっとヴァハ!? ふええええ!?」
「しっかり掴まっててね姉さん! クロウ……じゃなかった、バロールのほうは頼んだわよお二人さん!」
そして飛び立とうとしたヴァハを止めようとしたモリガンと一緒に、彼女たちはアガートラームとスレンが戦っている方向へ飛んでいった。
「やれやれ、騒がしい小娘どもだ」
「止めなくてよろしかったのですか?」
「貴様と対峙しているというのに、そんなことができる余裕があるものか。おまけにアスタロトのお遊びに付き合って、魔眼を移動できるように改造したら戻ってきやせん。お陰でこのざまだ」
左目を隠すように垂れ下がっている前髪をバロールが掻き上げると、確かにそこに魔眼は無く、代わりに空洞が広がっているだけだった。
「まぁいまさら愚痴を言ったところで始まらん。いや始めねばならんか、お主との戦いをな。以前は不覚をとって、一時期だけとは言っても顔面のみの存在になる羽目となったが、今度はそうはいかんぞ」
「では」
ベルトラムはピサールの毒槍、アラドヴァルを悠然と構えてバロールと対峙する。
「待ってちょうだい」
だが、そこに横から割り込む者がいた。
「あたしがやるわベルトラム。もうその槍の封印に力を割かなくて済むようになったし、それに……あの大馬鹿野郎の最期の顔を見ちゃってから、なんだか心の中のもやもやが晴れないのよ」
ベルトラムはガビーの顔を少しだけ見つめるとアラドヴァルを一振りし、小さくなった槍を髪の毛の間にしまいこんで後ろに下がり、結界を張る。
「ふん、どちらが先に相手になろうが儂は一向に構わんぞ。フォモール族をたばねる儂の力、思う存分味わうがいい!」
大きく棍棒を振りかぶるバロール、それを見上げるベルトラム、腰の横で両手を握りしめ、半眼でそれを見つめるガビー。
ヘプルクロシアの地に響く轟音。
それを合図としてバロールと、ガビーの戦いは始まった。