第143話 最後のゲッシュ
目の前に、それは迫っていた。
彼が追い詰めていたはずの敵から放たれたピサールの毒槍――アラドヴァル――は、彼のゲイボルグをすべて食い尽くし、飲み込み、今度は彼自身を食い尽くすべく、その咢を広げている。
(潮時か)
これ以上の生を享受するための足掻きを諦め、全身を焼かれ、吹き飛ばされて地面に叩きつけられ。
それでも彼の全身を包んだのは、痛みでは無く達成感。
そして、心地よい満足感だった。
何故なら彼が未だこの世に留まっている理由である悔いは二つ。
その内の一つは先ほど解決され、もう一つの悔いは目の前の敵、そしてその仲間たちが解決してくれることだろう。
彼がこの世に執着する理由は、消失したのだ。
(お前のせいでいい人生だったとは言えんが……お前のお陰で悪くもない人生だったぞ……モリガンよ)
彼――クー・フーリン――は胸の中で礼を言うと、先ほどまで戦っていた敵、ベルトラムの深みを帯びた目に見送られ、その意識を閉じた。
――ントにあせ――わよ! あのままてっ――やら――ゃうかと――封印――
チェレス――後遺症をディアン――診てもら――大丈夫――
(……なんだ? 俺は……まだ生きているのか?)
「ガビー! ベルトラム! クー・フーリンが目を覚ましました!」
意識を取り戻したクー・フーリンは、予想もしていなかった展開に不用心に目を開けてしまい、うっかり陽の光を瞼の中に入れて即座に空から目を逸らすが、すぐに彼の頭を支える何者かの手によって、視線を引きずり戻されていた。
「モリガンか」
「はい……モリガンです」
彼の眼に映るモリガンは泣いていた。
顔は笑っているのに、その目からは数え切れぬ涙がこぼれ、彼女とクー・フーリンの顔を濡らしていた。
「なぜ俺は生きている」
「あたしが治してあげたのよ。べ、別に好きでやった訳じゃないわよ!? モリガンが無言であんたを法術で治そうとし続けたから、聖霊の偏在を防ぐ為にやっただけなんだから! あんたの為にやった訳じゃないからね!」
「……そうか」
クー・フーリンの問いを聞いたガビーはぶっきらぼうな声で答えるも、穏やかなクー・フーリンの顔を見た途端に慌てたように口調を途中で変える。
それは先ほどまで殺し合いが行われていたとは思えぬほどに和やかな雰囲気。
だがやはり、それでも明らかにせねばならない事実を口にするために、ベルトラムは瀕死であるクー・フーリンのそばに膝をつき、顔を近づけて遠慮がちに口を開いた。
「横から失礼します、クー・フーリン。その治療の際に、貴方の体の解析をしたガビーが気付いたことがあるそうです」
深刻な顔をしたベルトラムとガビーをモリガンはキッと睨み付け、そしてクー・フーリンは苦笑いを浮かべた。
「俺の魂のかなりの部分が、ダークマターで構成されている、と言うことか?」
ベルトラムが静かに頷き、ガビーがその陰に隠れると、クー・フーリンが否定しなかったことにモリガンは下を向き、何かを堪えるように両手を握りしめた。
「ダークマターで構成されているから何だと言うのです……貴方たちは、クー・フーリンが魔族の手下に堕ちたとでも言いたいのですか?」
モリガンは呟いた。
まるで説得力の無い、弱々しい声で。
「それをこれから聞くのですよモリガン。クー・フーリン。勝手ですが、貴方が復活するまでのことは聞かせて貰いました。かつての貴方自身に」
「ふ、それを聞いて判ったぞベルトラム。四大天使の一人、来るべき時に死者の魂を審判すると言われる、地のウリエルが貴様の正体だな?」
「今は槍に力と記憶を委ねているただの人間、ただの執事でございます」
ベルトラムは柔らかい笑顔で答えると、クー・フーリンが復活してからの事の仔細を尋ね、聞かれた当人はあっさりとそれに応える。
「すべてが薄れ、溶けゆく前に……託しておかなければならないからな……」
そう前置きをしてから、彼は話し始めた。
「俺が復活したのは一つの心残りがあったからだ。だがそれは解決している故に、ここでは話すまい。そして復活した際にもう一つの心残りが出来てしまった。それは俺の復活にアスタロトを関わらせ、ルーに借りを作ってしまったことだ」
「確かにあいつは暗黒魔術に関しては天才的だけど、なんであんたの復活に関わらせたのよ! 普通に転生すれば良かったじゃない!」
先ほど彼女を手ひどく痛めつけた加害者の瞳を真っ直ぐに見つめ、問いかけてくるガビーをクー・フーリンは眩しそうに見つめ返して答える。
「知っての通り、俺は神の血を引いてはいるが神そのものではない。死ねばその魂は天に昇るか、霧散して聖霊に吸収されるのみ。だが先ほど話したように、俺には一つの心残りがあった。それで願ってしまったのだ。まだ生きたい、と」
「その魂の叫びで、アスタロトとルーの二人を召喚してしまったわけですか」
ベルトラムの問いに、クー・フーリンは力なく頷く。
「今の俺の肉体は元々の物と、ルーの右腕をダークマターで融合、補完させたもので出来ている。そして俺の魂を現世に留まらせた報酬として、ルーはアスタロトに魔族の頼みを一度だけ飲むように誓わされたのだ」
「だからアデライード姫を誘拐した、と言うわけですか……不可解とは思っていましたが、そんな理由があったとは」
ベルトラムが話した内容を聞き、ガビーが不思議そうに疑問を口にする。
「え? じゃあ内戦は? あれもアスタロトがやらせたんじゃ?」
「内戦を引き起こしたのは、要請では無く脅迫だろう。もっとも王女を誘拐した実行犯のルーとしては、その方が都合がいいはずだ。テイレシアとの同盟に亀裂を生じさせないように、すべて自分一人で勝手にやったこととして、一人で責任を被れるからな」
「ちょ、ちょっと! それって大問題じゃないの! ルーが死んじゃったらヘプルクロシアはどうなるのよ!」
「だから俺はピサールの毒槍を欲した。堕天使の長であるアスタロトの力は強大だ。とてもゲイボルグだけでは太刀打ち出来ないだろうと思ってな。味方をする振りをして奴を油断させ、何も出来ないルーに代わってアスタロトを倒す為に」
クー・フーリンはゆっくりと、ゆっくりと低く息を吸い込み、生気と共に息を吐く。
ガビーの法術による治療を受けたはずの彼は、話している間にも時々意識を混濁させており、ゆっくりと死の淵を進んでいた。
「だがベルトラムよ、お前と戦って判った。お前は強い。そこの小娘も、そしてアルバトールもな。俺が戦わずとも、お前たちがアスタロトを倒してくれると確信した。だから俺はお前たちにすべてを託す。ルーを……いや、我が父を救ってくれ」
「あんたも一緒に、来なっ……さいよ! 傷……あたしが治療し……のよ……」
ガビーの声に、彼は首を振った――振ったように見えた。
「俺はすでに死んだ身なのだ。本来であればこの身すら……朽ちていた。今まで保ってこれた理由はお前たちに託した……心残りと、もう一つ……先ほど解決……た……」
「ではもう一つの心残りを解決しなければ良いではないですか! 一体何なのですか先ほど解決した心残りとは! なぜ私たちに話してくれないのです!」
灰色の長い髪を振り乱し、モリガンは叫ぶ。
想い人を現世に残す為に、彼女は存在するかも判らない蜘蛛の糸、一縷の希望にすべてを賭け、必死に手を伸ばし、もがいていた。
だがクー・フーリンは口を開こうとはしない。
「私から話してもよろしいのですが?」
「貴様……」
横からベルトラムがそう口を挟むと、ようやく彼は渋々と話し始めた。
「昔、俺は戦場で一人の戦女神と会った」
そのクー・フーリンの独白に、誰かが息を呑んだ。
「そのドジでおっちょこちょいで、それでいて自分の不幸に周囲を巻き込まぬように気を遣う、妙な所で機転が利いて優しいそいつに、俺はつけ狙われることとなった。どうやらどこぞのお節介な神官に、俺の噂を聞かされたらしい」
「それ……は……ひょっとして……」
モリガンは顔を青くして、やっとの様子で声を絞り出す。
「やはり、貴方は死の原因になった私を恨んで……恨みを晴らそうと……」
だがクー・フーリンは既に何も聞こえないのか。
それとも聞こえない振りをしているのか。
少し頬に血色が戻ったように見える彼は、モリガンと視線を合わせずに話を続けた。
「どうもそいつに、俺なら不幸も寄せ付けぬ力を持つだろうと聞いたらしくてな。まぁ顔もどちらかと言えば美しいほうだし、何度も付け狙われるうちに……その、少し情が湧いてしまってな。つい一つのゲッシュを誓ってしまったのだ」
「何とお誓いになったのですか?」
ベルトラムの問いに、クー・フーリンは自暴自棄に答える。
「今は戦いの時であって、愛を紡ぐ時間ではない。女の助けは借りぬ。とな。そうして誓ったゲッシュの内容は、心より愛した者に決して心を開かない、だ」
「……!」
モリガンは咄嗟に口を押さえ、嗚咽を堪えた。
クー・フーリンの命はもう長くない。
そして今の彼は昔話をすることで、かろうじて命を長らえているように見えたから。
モリガンは目の前の想い人と一言でも会話を交わしたい気持ちを飲み込み、一言一句を聞き逃すまいと、意識をクー・フーリンと、その言葉へ傾けた。
「そうして俺は力を得て、モリガンを不幸から守ることが出来るようになった。だがそうすることで予想外の結果が産まれた。不幸が消えたモリガンが腕を上げたことで手加減が出来なくなり、とうとうある日大けがを負わせてしまったのだ」
「……それで、あんたはどうしたの?」
「ゲッシュを破った。治療をせねば、死んでしまうかも知れないと思ったからな。俺は心を開き、モリガンの傷を癒した」
ガビーの問いにクー・フーリンはあっさりと答え、言葉を継いだ。
「その後のことはお前たちも知っていよう。力を失った俺は、奸計によって他のゲッシュも次々と破ることとなり死んだ。俺が先の見通しを誤り、甘く見積もっていたために、モリガンに余計な重荷を背負わせることとなってな」
「ゲイボルグに貫かれた貴方が、こぼれた臓腑を水で洗い清めて元に戻し、尚且つ倒れないように石柱に身体を縛り付けたのは、モリガンに背負わせる重荷を少しでも減らすため……ですか」
誰もが気付かないほどの短い無言。
その後にクー・フーリンは、ベルトラムの問いに答えず話を続けた。
「俺は確かに死んだ。だが一つ心残りがあった。俺の危機は自らの不幸が招いたと信じ込み、離れて行ったモリガンのことだ。俺が死ねば、あいつは俺が死んだ原因を自らに求めて俺の後を追うかもしれん。だから俺は復活を願った」
「そこでアスタロト、そしてルーの密約が交わされた、と?」
「そうだ。俺は俺の勝手な望みの為にルーを巻き込んだのだ。だがそれはもう起きたことで仕方がない。だから俺はアスタロトがルーに不利益を引き起こそうとした時に助けると誓い、もう一つの心残りのモリガンを守るために、再びゲッシュを誓った」
「あんたがさっき言ってた、愛する者に決して心を開かないって、あれ?」
ガビーの問いに短く頷き、クー・フーリンは顔を少し歪める。
「だがモリガンは再び俺を巻き込むことを恐れ、しかし俺の最期を看取れなかったことを悔やんでか、レクサールから動こうとはしなかった。再び俺があいつを守れる力を得たことを知らず、俺もゲッシュの為に告げられず、無駄に月日は流れ……そこにお前たちが現れたのだ」
ベルトラムとガビーは顔を見合わせ、そして話を続ける人物に視線を戻した。
「感謝している。お前たちがモリガンを連れてきてくれたお陰で、俺はあいつを叱責し、激励することが出来た。そしてその結果あいつは俺を否定し、ガビーを守るために俺と戦うとすら言えた。巣立つことが出来たのだ。もう俺に心残りは……無い」
モリガンはクー・フーリンの笑顔を思い出して愕然とした。
あの高笑いは狂気のものでは無い。
自分と言う巣箱から一人立ちする彼女の姿に満足し、心残りを片付けた者の笑みだったのだと、今更ながらに気付いたのだ。
「クー・フーリン!」
ついにモリガンはクー・フーリンの名を呼ぶ。
黄泉路に発とうとする彼を引き留めるために。
「……モリガンよ、既に死んだ身である俺から、最後の頼みがある」
だが力強くクー・フーリンを呼んだモリガンの叫びは、弱々しい彼の呟きに掻き消され、霧散した。
「なんでしょう」
自分は我儘を言おうとした。
その引け目から再びモリガンは口をつぐみ、続きの言葉を待った。
「俺を幸せにしろ」
「……え?」
意表を突かれた。
そう言わんばかりのモリガンの返事にクー・フーリンはニヤリと笑い、晴れやかな顔で続きを伝える。
「俺が死んだ後もお前は生きて現世で幸福になり、笑顔を見せ続けろ。そうすれば俺はお前の笑顔を見続ける為に、永遠にお前の近くで、お前を守り続けよう。この身に残された最後の力を振り絞ってな」
しばし無音の時が流れ。
「……それは本当ですか?」
モリガンの問いに、クー・フーリンが無言で頷く。
「判りました。他ならぬ貴方の頼みとあれば仕方がありません。私は……きっと、必ず、貴方の為に……幸せになって見せます」
そう誓うモリガンの顔を見ると、今度は満足そうに頷いたクー・フーリンは、ベルトラムとガビーの気配がする方へ、虚ろになった瞳を向けた。
「アルバトールに礼を。父には助力を。陛下には中途で務めを放り出した謝罪を」
二人は承諾の意を返し、それぞれに彼の手を握りしめる。
「そろそろだ。モリガンよ、お前の笑顔を楽しみにしているぞ。そして……リチャード陛下と、ヘプルクロシアの未来を頼む」
「任せて下さい。きっと貴方のご期待に沿ってみせます」
見えぬ目で。
見ることの出来ない笑顔に視線を向け。
誰に見せているか自分でもわからないであろう笑顔をその顔に浮かべ。
「我はここに誓う。愛する者の心と体をこの手に得れど、その者と決して現世で結ばれることは能わず」
最後のゲッシュを誓約すると、クー・フーリンはその体を黒い塊と化し、収縮し、子供のように小さくなって、激しく、短い二度目の生涯を閉じた。
――それでも……それでも私は貴方と一緒に幸せになりたい――
そして変わってしまった姿のクー・フーリンを抱きかかえたまま、モリガンは今にも泣きだしそうだった顔を笑顔と変え、近くにいる二人に気付かれないように心の中で、クー・フーリンに言えなかった最後の言葉を叫んだ。
ゲイボルグが光る。
まるでモリガンの心中の言葉を聞き、かつての主に代わって彼女の為に涙を流しているかのように。
こうしてヘプルクロシアの、一人の英雄の戦いは終わった。
最後まで一人で、他人に理解されないままに終わるはずだったその戦いは、二人の天使と一人の戦女神に引き継がれ、その真意と共にそれぞれの胸に留まる。
やがて三人は歩き始めた。
ルーの神殿がある方向へ向かって。