第142話 アラドヴァル
「思っていたより遅かったな、ベルトラムよ」
ゲイボルグの一撃を、槍の穂先を合わせることで止める。
そんな異常な事態を見ても、クー・フーリンは余裕の態度を崩さない。
「ええ、なかなかに骨でした。ガビーが槍を筒から取り出してくれるまで、飛び出す訳にはいきませんでしたからね」
対するベルトラムも一見にこやかな笑顔を浮かべたまま返答し、しかしこちらはある変化を――つまり軽くピサールの毒槍を握りしめる。
すると槍の穂先同士がぶつかるギリギリのところ、そこで目に見えない力場に捕まっていた二本の槍の間から、金属製のコマが高速回転しているような耳障りな音が発生し、それを聞いた周囲の虫や動物たちは恐れをなして遠くへ逃げて行った。
「ぬ……うっ!? がっ!」
「私の力の源であるピサールの毒槍。それを手にすることが出来ないままに貴方の前に飛び出しては、全員がやられてしまうだけ。それが狙いだったのでは?」
耳障りな音はクー・フーリンが吹き飛ばされ、槍の穂先同士が離れた瞬間にやみ、吹き飛ばされたように見えたクー・フーリンは、しかし自ら飛んで間合いを取っただけのようで、何度か後ろへ宙返りをして態勢を整えると、悪びれもせずに言葉を返す。
「お見通しか」
「目撃者の殺害は、おおよその犯罪においてかなり一般的なものですから」
「だがもう一つの狙いはうまくいったようだ。付き合いが浅いこともあるが、お前のそのような顔は初めて見たぞ」
クー・フーリンが言うほど変わっているわけでは無かった。
ベルトラムの表情はいつもと変わらず温和に見え、口から出る言葉もいつもと変わらず丁寧に聞こえる。
しかしベルトラムが纏う雰囲気だけは、明らかに異常な物に変化していた。
我を忘れるほどの怒り、まるで亡者を焼き尽くす地獄の業火を内に宿しているとでも言うような。
その只ならぬ様子に、ベルトラムを良く知らないモリガンは顔を強張らせ、ガビーですら軽口を叩くことも出来ずに後ずさりながら、殺気を放つ横顔に機嫌を伺った。
「ベ、ベルトラム……なんか怖いんだけど」
「下がっていなさいガビー。それとよく我慢しました。アルバ様と司祭様には、私の方からきちんと報告させて頂きます。ガビーはもう大丈夫だと」
怯えた表情のガビーに微笑むと、ベルトラムはクー・フーリンを見据え、ピサールの毒槍を構えた。
「大丈夫……か。それは俺を倒してから言うべきことでは無いか?」
「肉体的なものでは無く、精神的なもののことですからね。それでは始めましょうかクー・フーリン。騒ぎが長引けば、ルーの信徒たちが集まって来るでしょう」
「よかろう」
まるであらかじめ申し合わせをしていた試合を始めるかのように、槍の穂先を前に据えた二人は無造作に近づき、傍にいる二人の女性の存在を忘れているかのように、それぞれの初撃を繰り出した。
「あ、これマズいパターン……ひぎぃぃぃぃ!? あたし結界! モリガン障壁!」
「も、もっももも、もうやってます! ふええぇ!?」
互いに避けはしたものの、その余波は周囲に大きな影響を及ぼす。
ベルトラムの背後の森は白い霧のようなものが通り過ぎた後、巨大な音を立てながらなぎ倒されて行き、対してクー・フーリンの背後の森は周囲の大気が揺らめいたと見えた瞬間に炭化し、くずおれていった。
「これが貴様の力か! とても人間技とは思えんな!」
「司祭様から預かった槍のおかげでございます」
突き、払い、薙ぐ。
傍から見れば、槍の基本動作を駆使しているだけのように見える二人の戦いは、槍に込められた力によって予想を超えた範囲の木々まで破壊が及び、大地はえぐれて木の根が引きちぎられ、森全体が恐怖に震えるように騒めいた。
「このままでは埒が明かんな」
いくつかの攻撃を繰り出し、かわした後にそう言うと、クー・フーリンは短く口笛を吹く。
「いよいよ本気を出されますか」
「むしろ本性だ。この姿になると、元に戻るのが多少骨だからあまりやりたくはないのだが、ここでもたついている訳にはいかんだろう」
程なくクー・フーリンの黒い髪は赤く変色し、額には煌く宝石と見まがわんばかりの小さな光が七つ生まれ、肉体を構成する骨と肉が異常に発達し、まるで鎧に覆われたかのような異形と化す。
「行くぞ」
そして今までの左半身の構えを変えて右半身の構え、つまり右腕を前にしてゲイボルグを構えた。
「何を……むっ!」
細かく穂先を動かしながら、クー・フーリンは牽制の突きを連続して繰り出す。
クー・フーリンは何回かそれを繰り出した後、一瞬の間をついてきたベルトラムの反撃を避けた後に自分から見た相手の右側、死角へ急に回り込んで攻撃を仕掛けるが、ベルトラムが石突の部分で彼の足元を薙ぎ払うことでそれは防がれる。
そして今度は逆にベルトラムが死角に回り込もうとするが、クー・フーリンがそれを止めようとする気配はまったく見られず。
「見えているぞ、ベルトラム」
「しまっ……」
しかし完全にクー・フーリンの死角に入ってから、肝臓を目がけて攻撃を仕掛けたはずのベルトラムは、逆に自分の右肩に攻撃を受けて吹き飛ばされていた。
「七つの瞳を甘く見たな。今はまだ軽傷で済んでいるが、肩を負傷しては槍の動きに影響が出ることは避けられまい。残念ながら治療をする暇は与えんぞ」
「ご心配なく、これくらいでは……うっ!?」
「この槍がゲイボルグと言うことを忘れたか? 傷は徐々に広がっていくぞ」
クー・フーリンの言葉にベルトラムを見れば、その肩は黒く染まり、小さな傷ゆえにすぐ止まるかに見えた出血は、徐々にその量を増やしていく。
「終わりだな、ベルトラム。すまぬがピサールの毒槍は俺が……何ッ!?」
だがベルトラムはピサールの毒槍の穂先を自らの肩口に当てて傷口を焼き、それに伴って黒く染まっていた肩の色も元に戻っていく。
信じられない場面を見せられたクー・フーリンは驚愕を隠そうともせず、自尊心が高い彼にはあり得ないほど、強張った表情を露わなものとしていた。
「何を驚かれているのです? 英雄クー・フーリンともあろうお方が、私が物理的に傷を塞ぐと思ってはいなかった、と言うことはないでしょう」
「何が物理的だ。傷を治す一瞬に垣間見えた力、明らかにあれは聖霊の力だった。なのに法術では完治せぬはずのゲイボルグの効果を打ち消すとは……」
クー・フーリンはたちまち不機嫌な顔になると、ゲイボルグの穂先をベルトラムに向け、詰問をする。
「貴様は何者だ! そしてその槍の正体は何だ! 言え!」
「ただの……」
ベルトラムはピサールの毒槍の石突を地面に叩きつけるようにして突き立て、その後にその穂先を天へ向けて掲げた。
「執事でございます」
その瞬間ピサールの毒槍が大きく脈動し、ベルトラムから発せられる力がひときわ大きいものへと変じる。
「なるほどな。ただの執事がそんな力を持っているのなら、今度からは騎士では無く、執事を養成する機関を作るように陛下に進言せねばなるまい」
説明を聞いたクー・フーリンは呆れたように首を振ると、再び左半身の構えに戻してゲイボルグを構え、その鋭い切っ先をベルトラムの心臓へ向ける。
「さて、精霊も集まってきたな。今度は外さんぞベルトラムよ」
「ご随意に」
さながら祈りを込めるように、ピサールの毒槍を胸の前で掲げるベルトラムを睨み付け、クー・フーリンが吠える。
「ゲイボルグ!!」
その叫びと共に、槍の穂先からは無数の水の精霊を主とした力場が発生し、複数の帯状となってベルトラムへと向かい、その只ならぬ様子を見たガビーが叫ぶ。
「ベルトラム!?」
しかしベルトラムは目を閉じたまま、静かに息を吐いているだけであり、その姿は既に死を覚悟した死刑囚にも見えるものだった。
だが。
「呪槍ゲイボルグ。類稀なる水の精霊力を宿し、槍の力を借りて発動する呪詛の種類は複数に渡るため、そのすべてを避けることは不可能とすら言われる」
そう呟きながらベルトラムは目を開けると、気合一閃、ピサールの毒槍の石突を再び地面に突き立て、力を解放した。
「だが、その目に見えるすべての呪詛は囮! 持ち主の足元より地面の中を伝って、術の対象とした者の足から侵入して内臓を食い破りつつ心臓へと至る! この必殺の一撃こそがゲイボルグの真価!」
同時に甲高い音が周囲に響き渡り、その瞬間に宙を舞ってベルトラムに迫っていた呪詛、及び地面の中を秘かに移動していたゲイボルグの呪いは砕け散っていた。
「何と言う奴だ……ゲイボルグを見破ったのは、お前が初めてだぞベルトラム」
「貴方の師であるスカアハとは、まんざら知らない仲でもありませんから」
「そうか」
さすがに驚きを隠せなかったのか、クー・フーリンは誰の目にも判るほどにその表情を変え、ベルトラムに対して賛辞の言葉を送る。
「しかしスカアハと知り合いであるのならば、ゲイボルグの力がこれのみで終わりでないことも知っていよう。先ほどの術が一人の演奏の名人による技巧を凝らした独奏とするならば、今度の術は圧倒的な数の精霊たちによる管弦楽団の演奏」
「ならば私もそれに応えるとしましょう。その場にあるだけで街一つを溶かしつくすと言われた、ピサールの毒槍の威力を以って」
槍を持つ二人の気が膨れ上がり、結界の内は水と火という相反する力を持つ精霊たちによって、弾け飛ぶ寸前の風船にも似た不穏なものと化す。
「あああ、あのおおおおおお!? あんたたち、近くにあたしたちがいるってことをすっかり忘れていないでしょうねええええ!?」
「ふえぇ……神ですから短い一生だったとは言いませんけど……せめてもう少しクー・フーリンと一緒に居たかったですう……」
「ちょっと! なにもう諦めてんのよモリガン!」
結界の外で騒ぎ立てる二人を無視するかのように、結界の中の二人は互いに下がって間合いを取った後、互いに槍を振りかぶって全力で相手に投げつける。
「眼前の敵すべてを吹き飛ばせ! ゲイボルグよ!」
「毒槍よ! 立ちはだかる者たちを焼き尽くしなさい!」
眩い光線と化した槍が両者の真ん中で激突し、青と赤の二色で彩られた、直視できないほどの光球に膨れ上がる。
そして精霊たちが彼らの戦っている結界の内側を、何人も抗しえないと思われるほどの荒れ狂う力が支配する場所へと変えていった。
「くっ……! さすがは英雄クー・フーリン! まさかこのピサールの毒槍をすら凌ぐ力を放つとは!」
「このクー・フーリンとゲイボルグに勝負を挑んだ愚をようやく悟ったか! 貴様ほどの力を持つ男を殺すのは惜しいが、これも運命と諦めるとしよう!」
一時は拮抗し、互いに喰らい合っているように見えた青と赤の光は、徐々に青の光が優勢となり、赤い光を飲み込んでいく。
しかしベルトラムは慌てる様子も無く、少し目を閉じた後に口を開き、一つの祈りを天に捧げた。
「四大天使が一人! 水のガブリエルよ! 我がピサールの毒槍の真の力を解放することを許し給え!」
「え……きゃっ!?」
その刹那、ガビーの青い目はその奥行きを増し、黒とも紺ともつかぬ色になるが、瞳の奥から溢れ出る光によるものか、すぐに透明感を持った青へと戻り。
「認めましょう。今ここに、厳かなる封印は解除されました」
そう宣言すると、ガビーは深呼吸をしてベルトラムへ叫んだ。
「また封印しろって言われても、そんな力は余ってないからね!」
「ご心配なく」
平然と言い放つベルトラムの言葉とは裏腹に、青の光は一段と勢いを増していき、遂には赤の光は消え失せ、一気に膨れ上がってベルトラムへ襲い掛かる。
「ベルトラム!?」
その只ならぬ様子を見たガビーはベルトラムの表情を確認し、直後に悲痛な声で彼の名を呼んだ。
なぜならベルトラムは苦悶の表情を浮かべ、脂汗を垂らし、目からは血が流れ、封印を解いた報い――テスタ村での殺戮の記憶――をその全身で受けていたのだ。
周囲から押し寄せた運命の波に翻弄され、流され、彼らが助けの手を差し伸べた相手すら彼らに向けて追っ手を放ち、殺されていった者たちの記憶を。
自らの正当を信じて彼らに手を下し、取り返しがつかなくなってからそれが過ちと気付いた、かつての自分の記憶を。
――だが――
(だが、彼らは生きていた。彼らはそれでも歪まなかった)
ベルトラムは叫ぶ。
「ならば私も再び立ち上がらなければならぬ! 正しき者たちを守るために!」
そして眼前に迫った、視界すべてを満たす青い光の奔流に向かってベルトラムが再びピサールの毒槍を投げつけると、槍は一瞬にして青い光を食い尽くす。
しかしそれも束の間。
ベルトラムの周囲には、先程ピサールの毒槍が食い尽くした光に比する輝きが見渡す限りに展開し、ベルトラムに襲い掛かろうとしていたのだ。
「甘いわ! 一振りで万騎を圧倒するゲイボルグの力! その目に焼き付けて死ねベルトラム!」
両手を突き出し、ゲイボルグに更なる力を送り出すクー・フーリンに対し、ベルトラムは先ほど消し去った光球の余波の影響か全身のあちこちが切れ、額から流れ出た血が左目に入り、その視界を奪っている。
クー・フーリンの目には、そう見えた。
「飢えは満たされたかピサールの毒槍」
だがベルトラムがそう呟いた途端に血液はすべて消え失せ。
ピサールの毒槍は赤い輝きを増し。
そして。
「アラドヴァル!!」
ベルトラムの叫びと共に投じられたピサールの毒槍が、巨大な炎の柱を生じながらゲイボルグの閃光を消し去り、そしてクー・フーリンを貫いたのだった。