第141話 昇天せし邪なるモノ
「ちょっと! 今の悲鳴が聞こえなかったの!?」
森の中に響き渡る女性の悲鳴。
何をおいても駆けつけるべきその声を聴いたガビーは、悲鳴の持ち主の所へ向かうべく走り出すが、先ほどまで彼女と一緒にいた男の方は立ち止まったままで、しかも何やらうんざりしているように見えた。
「そうは言ってもな……お前もあの悲鳴の持ち主に心当たりがあるのではないか? あのような悲鳴を上げたことを他人に知られれば、沽券に係わる立場のものだぞ」
「悲鳴は助けが欲しいから上げるものでしょうが! 昨日からずっと気になってたんだけど、あんたリビングデッドが怖いから、なんだかんだと屁理屈をこねて近づかないようにしてるんでしょ!」
「馬鹿かお前は。他人に助けを求めたことが知れれば困るから、沽券に係わると言っているのだ。それにお前は俺を挑発しているつもりだろうが、もしもお前の言ったことに俺が同意すれば、この先ずっと浄化の術はお前がすることになるのだぞ」
「うぐ……と、とにかく早く行くわよ! コンラッドが行方をくらましたら困るのは、あんたも一緒でしょ!」
ガビーはそう言い残すと必死に手足を振り回し、悲鳴が聞こえた方向へ走りだす。
それを見届けるとうんざりした表情を浮かべていた男――クー・フーリン――は溜息をつき、ことさらに歩みを遅いものとしていた。
「戦女神ともあろう者が、たかがリビングデッドを見ただけで悲鳴とは情けない」
そう呟くとようやく彼は遠くで手を振り、怒鳴り声をあげるガビーの元へ走り始めたのだった。
「あ、ああ……あ……」
一方、悲鳴を上げた当人であるモリガンは混乱の極致にあった。
彼女の目の前にはかつて彼女の神官を務めていたコンラッドが、生ける死体となってモリガンの名前を呼んでおり、彼女の目は変わり果てたコンラッドに釘づけとなったまま、逃げ出すことすら忘れていた。
「モ、モッ……ォガァ……アッ」
過去レクサールで共に過ごしていた時は、なんだかんだと憎まれ口を叩きつつも最終的に彼女の味方をしてくれていたコンラッドの顔は崩れ、山野に伏す生活を続けていたせいか着ている服もあちこちが破れ、薄汚れたものとなっている。
彼女以外の者が見れば、一目では判別がつかないと思われる程に以前とかけ離れたコンラッドの姿を見たモリガンは、今までの彼との思い出が一気に頭の中を駆け巡り、自分が何をするべきか判断がつかない状況にまでなっていたのだ。
その場に駆け付けたガビーが、大声でモリガンの名を呼ぶまで。
「何してんのよモリガン! そいつはもうコンラッドじゃないわ! 早く逃げて!」
「ガビー!? どうして貴女がここに居るのです!? 駄目! 来てはいけません!」
モリガンは必死の形相でガビーを遠ざけようとするが、ガビーはまるで聞く様子も無く、モリガンの隣に走り寄り、コンラッドを睨み付け。
「イヤアアアアアァァァァァァ!!!!!!」
破れた服から覗き見える、ご立派様を見て悲鳴を上げたのだった。
「え? え? ねぇモリガン、なにあれ、なにあれ」
「なに、と言われても、ナニとしか答えようがないと思うのですが……ふええぇ!? 揺れてますううう!?」
二人は目の前のコンラッドから逃げ出すことも、彼を浄化することも忘れたまま、茫然と立ちすくむ。
不死化し、全身が腐敗して膨れ上がっている弊害か、それとも彼をリビングデッドとしたアスタロトの趣味ゆえか、コンラッドの一部分は異常に盛り上がり、まるですべての感情と視線を串刺しにしたが如く、女性陣の目をその一点に固定して離さない。
「ゴボッ……ボボ……ボ……ボ……」
「ひいいいっ!?」
何かを呟き、両手を二人に向け、ゆっくり近づいてくるコンラッド。
だがその手が届く直前、どこからともなく飛んできた一つの水槍が彼の胸を貫き、口から黒い液体を噴き出させる。
それは遅れて駆け付けた、クー・フーリンの手によるものだった。
「まったく見ておれん。たかがリビングデッド一体ごときに、お前らは何をもたついているのだ。ガビー、さっさと浄化してしまえ。人の手による物ならともかく、アスタロトが作ったとなれば単純に破壊するだけではこいつは滅ぼせん」
「ちょっと待って心の準備が」
「言っている間に三秒は経ったな。さぁやれ」
「あんたちょっとは乙女の純情ってものに理解を示しなさいよ!」
「ちょっとどころか随分経ったな。さぁやれ」
「ウッキイイィィ!」
とても乙女が発しているとは思えない奇声を上げながら、ガビーが浄化の術に取り掛かると、直前まで肉体の極一部分に威容を誇っていたコンラッドは、あっさりと消し去られ、彼の在りし日の姿は少数の女性の脳裏に留まるのみとなったのだった……。
「これで一安心と言ったところか。呪いの宿主であるこいつが死ねば、動物の方も徐々に土に返っていくことだろう」
クー・フーリンの言葉を聞いて安心したのか、モリガンはいきなり目の前に現れたコンラッドと、ここに居るはずのないクー・フーリンとガビーが現れた事象を整理しようとして、恐る恐ると言った様子で口を開く。
「クー・フーリン、貴方まで……それにコンラッドが何故リビングデッドに?」
「話せば長くなる。それよりお前はここで何をしているのだ」
「チェレスタに戻ろうとしたら何故か森の中に」
「……大体わかった。ここはルーの神殿の近くに広がる森だ。俺たちが来た方向がウォルヴァーン村への道。解ったら行きたい所に行くのだな」
「はい」
ニコニコと明るい笑顔で返事をするモリガンを見たクー・フーリンは、舌打ちをしてすぐに先程の発言を訂正する。
「解ったらさっさとチェレスタに戻れ」
「ふえぇ!?」
そんなやり取りをする二人の横で、ガビーはもはや日課ともなった粘液にまみれる作業、もといコンラッドがいた場所で何かを探していたが、やがて目的のものが見つかったのか、彼女は満面の笑顔を浮かべながら右手を天高く掲げる。
「そんなことをしても大人の女性に変身することはできんぞ」
「いつ誰がそんなことしたいって言ったのよ! ベルトラムの槍が見つかったの!」
見ればガビーの右手には筒のようなものが握られており、その中からは微かに光が漏れ出ている。
「なるほどな、そんな筒に入れて探索を免れていたのか」
コンラッドにその筒を渡した本人、クー・フーリンはわざとらしく感嘆の声をあげ、ガビーに少し見せてくれと頼み込むがガビーはそっぽを向き、舌を出してクー・フーリンの申し出を断った。
「ダメよ、見たいならあたしじゃなくて、ベルトラムに頼んでちょうだい」
「なるほど、確かに見たいだけなら、持ち主本人に頼むのが筋と言うものだろう」
「……え?」
クー・フーリンの発言に何か不穏なものを感じたガビーは、胸の前に筒を抱え込んで後ずさり、顔を強張らせ、暗い雰囲気を発し始めた目の前の男を見る。
「ひょっとして、あんた……」
「残念だが、俺はその槍を見たいだけではなくこの手中に収めたいのだ。大人しく渡すなら良し、渡さないのであれば……」
「ま、待ってくださいクー・フーリン! 一体何がどうなっているのです!? なぜ貴方とガビーが争わなければ!?」
「判らなければすっこんでいろモリガン。さて、ガビーよ、返答や如何に」
「嫌に決まってるじゃ……うぶっ!?」
答える途中で、ガビーの腹部にはゲイボルグの石突が叩き込まれていた。
「お前を殺して無理やり奪い取っても良いのだが、それではそこにいるモリガンがどんな行動に出るか判らんからな。これ以上痛い目を見たくないなら、大人しく槍を差し出すことだガビー」
腹部に発生した鈍痛に息を詰まらせ、涙を流し、胃の中のものを吐き出しそうになりながらもガビーは懸命に顔をあげ、先ほどの脅しに対してはっきりと拒絶の意思を表明し、クー・フーリンの感嘆の意を引きずり出す。
「ほう、性根の座っていない、単なる役立たずかと思っていたが」
「うっさいわね! そう言うあんたは何なのよ! 多少乱暴だけど通すべき筋は通すから、流石に英雄と呼ばれただけはあるって少しは感心してたのに! 本当はこんな小さい女の子に対して、暴力を振るうような恥ずかしい奴だったなんてね!」
「買い被って頂いていたようで残念だが、通すべき筋を通していたのではない。俺が通したい筋を通していただけだ。これまでも、これからもな。先行しているベルトラムが異変に気付いて戻ってくる前に、その槍を渡してもらうぞガビー」
「やれるもんならやってみなさいよ!」
叫ぶと同時にクー・フーリンの平手打ちが顔に叩き込まれ、拳が再び腹に撃ち込まれた結果、今度はガビーは耐えきれずに吐き出してしまう。
しかし彼女は苦悶の表情に脂汗を流しながらも、槍を渡そうとはしなかった。
「次は無い。これが最後の警告だ。その手に持っている槍を渡せガビー。さもなくばお前はここで死ぬ」
「嫌よ」
地面にうずくまりながら、それでも彼女は両手を大地に食い込ませ、体を起こし、顔を上げてきっぱりと断る。
「あたしは一度、嫌なことから目を逸らし、耳を塞いで、すべてをベルトラムに押し付けて逃げたの。その結果あいつはあたしの重荷をすべて背負うことになって、その重圧に耐えきれずに堕ちてしまった」
「……何を言っているのだ?」
断固とした意志を宿すガビーの目から、未だ彼女の決意を照らし出す光は失われておらず、その口からは相手の心に突き刺さる、鋭い針のような言葉が紡ぎ出される。
「だから今度は逃げない! あたしがここで逃げたら、またベルトラム一人に何もかも背負わせることになるから! ここで死のうが構ったもんですか! ベルトラムにこれ以上の苦しみを背負わせるなんて、絶対にさせない!」
クー・フーリンはそのガビーの叫びを聞いてしばしの間動きを止め、そして静かにゲイボルグを構えた。
「判った。せめてもの情けだ、ゲイボルグの一撃で苦しまぬうちに殺してやろう」
「待ってください! クー・フーリン!」
だがクー・フーリンがゲイボルグを構え、力を込めると同時に鋭い叫び声が上がり、二人の間にモリガンが飛び込んで、ガビーを庇って両手を広げる。
「もうやめて下さい! 既に貴方にはゲイボルグがあるでしょう! この上、なぜピサールの毒槍まで求める必要があるのですか!」
「必要だから求めるのだ。判ったらそこを退け、モリガン」
喉元にゲイボルグの切っ先を突き付けられながらも、しかしモリガンはクー・フーリンに再考を求めた。
「これは貴方のすることではありません! これ以上の無法は、貴方自身を貴方自らが傷つけるだけです! なぜ自分でも望まぬことを成される必要があるのですか!」
「俺の意思を勝手に語るか! 今までのような戯言ならまだ許せるが、虚言で俺の行動を阻むのであれば如何に戦女神のお前でも只では済まさんぞ!」
「いいえ、勝手に語ってなどいません。私は知っているから、貴方の心が判っているから退かないのです。それでもガビーを殺し、槍を奪おうと言うのなら、私が相手となりましょう!」
それを聞いたクー・フーリンは顔を歪め、笑い声を上げ。
そして呆気にとられたモリガンをゲイボルグで吹き飛ばし、ガビーに襲い掛かる。
「良く言った! だが今の貴様では俺は倒せん! ガビーが殺されるのをそこでおとなしく見ていることだな!」
「ガビー!」
悲鳴を上げたモリガンが手を伸ばすも、吹き飛ばされた体から伸ばされたその手はクー・フーリンとガビーの間に割り込めず、遥か手前で動きが止まり。
ガビーは目を閉じ、せめてもの抵抗なのか手に力を込め、槍が奪われるのを少しでも先に延ばそうとしていた。
「死ね! 小娘!」
そしてゲイボルグの穂先がガビーの心臓に伸び、刺さろうとした時。
ガビーが手に力を籠めた故か筒の先が捻じれ、地に落ち、その瞬間に筒の中から、炎と見間違わんばかりの激しい光が溢れ――
「良く頑張りましたね、ガビー」
――その声にガビーが目を開けた時、ゲイボルグの先端は緋色に鈍く輝く槍の穂先で止められており、彼女の背後には銀色の髪を持つ男が、称賛を惜しまぬ様子の表情を浮かべて槍を構えていた。